【番外編】 竜の心臓

 ロイス王子が王城を去ってから三年。国は新しい後継者を迎え、一応の落ち着きを取り戻していた。

 いつもの冬、いつもの景色。変わった事といえば魔法使いの古城に、一人の若い神官が現れたことだろうか。礼拝堂を訪れる村人達は、この穏やかで美しい神官に、その優しさに、聡明さに、いつしか敬慕の念を抱くようになっていた。だから皆気付いていても、誰も何も言わなかったのだ。


 彼が、金貨に刻まれた王子の横顔と、とてもよく似ている事を。


◆◆◆


 その薄暗い路地裏で、少年はナイフを握り締めた。獲物の目星はつけてある。先程、市で買い物をしていた若い神官だ。

 少年は僧侶を憎んでいた。いや正しくは、『貴族の次に』憎んでいた。自分達のような平民が額に汗している間にも、奴等は神などという目にも見えないものに祈りを捧げ、税金もろくに納めない。戒律に生きるとは言うが、あの血色の良さはどうだ、あの身なりの良さはどうだ。ぬくぬくと過ごし、皿一枚洗ったことが無いに違いない。


 沸き上がる怒りに少年は拳を握り締め、そうして近づく足音に、さっと身を陰に隠した。崩れかけた塀からそっと覗き見れば、先程狙いを定めた神官が、この路地裏にさしかかるところだった。両手に買い込んだ食料品を抱え、嬉しげに足を速めている。まだ、神学校を出て間もないのだろう、年の頃は十七、八か、少年と同じくらいに思えた。しかし法衣はやけに立派で、彼が裕福である事は間違いなかった。艶やかな蜂蜜色の長髪をゆるやかにまとめている髪飾りまでもが、高級そうな銀細工だ。美しい白い肌も華奢な手足も、苦労知らずの証左ととれた。


(同じ、人間なのに。同じ年頃なのに、どうしてこうも差があるんだ!? クソッ!)


 少年は唇を噛み締めると欠けたナイフを握り直し、一気に通りへ飛び出した。そうして神官に飛び掛かると左腕を首に回し、鼻先にナイフを突きつけた。


「っ!」

「動くな! いいか、大声出すんじゃねぇぞ」


 震えているのは少年の方だった。神官はと言えば、襲われているにも関わらず、まったくもって涼しい顔で、微かなため息をつくだけだった。


「こんな少年まで犯罪を犯すなんて、しばらく訪れないうちに、この町も随分治安が悪くなったものだな」

「うるせえ! いいから、黙って金を出せ!」


 ナイフがぴたり、喉にあてがわれる。しかし神官は怯えもせずに、静かにこう、言い放った。


「不埒を働く相手が僕では、君にはみっつの不利がある」

「坊さんの説教なんざ聞きたかねえよ。俺ぁ神様なんざ信じちゃいないからな」

「そんな話をしているんじゃない。まず第一に、」


 言うや否や神官は、自らの喉にナイフが食い込むのを意にも介さず、少年の腕をがしり掴んだ。鮮血が舞い、少年がぎょっと目を剥いている隙に神官は彼の腕を捻り上げ、少年の動きを封じてしまった。


「いてててててて離せこのクソ坊主!」

「……第一に、僕には武術の心得があること」


 言い終わらぬうちに神官の肘が素早く少年の鳩尾に落ち、少年の呼吸が一瞬止まった。力の抜けた手からナイフが滑り落ち、石畳に高い音が響く。うずくまって咳き込みながら、それでも気丈に睨み上げれば、神官は首から真っ赤な血を滴らせながら、静かな目で少年を見下ろしていた。


 と、神官が事もなげにその喉を手のひらで拭った。そうして少年はそこに、信じられないものを見た。なんたること、神官の喉には、髪一筋ほどの傷もついていないではないか!


「第二に、普通の刄では、僕は傷つかない。何故なら僕は、この胸に竜の心臓を得ている」


 その言葉に、少年は耳を疑った。


(今、こいつ、何て?)


「第三に――ああ、君、早く逃げて! 『彼』が君に気付いてしまった!」


 神官の叫びと同時に風が唸り、雲に覆われたように辺りが暗くなった。鳥達が梢から逃げ出し、木の葉がざわり悲鳴を上げる。少年は恐る恐る顔を上げ、そこに、伝説の存在を見た。


 竜だ。


 漆黒の翼を持つ竜が、黄色い爬虫類の瞳をぎらつかせ、竦んだ少年を見下ろしている!


「う、わあああああ!」


 四つ這いで逃げ出した少年の頭上を炎の渦が行きて過ぎ、彼の巻き毛を僅かに焼いた。振り下ろされた太い腕が古い石垣を砕き、鋭い爪が木々を裂く。少年は無我夢中で逃げたが、すぐに壁に突き当たり、行く手を失い我を無くした。がたがたと震えながらゆっくりと振り向けば、黒竜が間近に迫っている!


「っ!」

「命知らずな小僧よ、いや、勇敢な若者と呼ぼうか。よくも我輩の伴侶の血を流してくれたものだ。あのウスノロ神官は血の一滴、髪の一本まで我輩のものだ。貴様にはそれ相応の応酬を与えねばなるまい」

「待て、オドラデク!」


 まさに竜が火炎の息を吐き出さんとしたその時、それを止めたのは神官だった。神官は息を切らせて竜に駆け寄ると、少年の前に立ちはだかった。


「待ってくれオドラデク、彼は充分悔いている。もう二度とこんな事はしない、そうだろう?」


 振り向きざま話を振られ、少年は慌ててこくこくと、涙を浮かべてうなずき続けた。


「そこをどけ、ヒヨッコ神官。罪には罰をもって応じねばならん」

「オドラデク! 僕が神官になって、やっと近隣の村村から黒竜の悪評を払拭しつつあるというのに、また逆戻りをするつもりなのか? それに、治世が悪いのは僕の父に責任がある。どうか彼だけを責めないでやってくれないか」

「しかし、」

「愛している、オドラデク」


 この言葉にさしもの竜も喉を詰まらせ、口から炎を出す代わりに、鼻からぷすぷす黒煙を上げた。


「第一、ほら、僕はどこも怪我していない。お前の心臓のおかげだ。お前はいつでも、僕を守ってくれている」


 若草色の瞳を潤ませ、柔らかな声で囁かれれば、竜と言えども折れる他なかった。



 

 雲を払う黒い翼、風を叩く太い尾。竜の背で神官は、日の眩しさに目を細めた。


「神官様も、随分ご主人様の扱いが上手くなりましたねぇ」

「何か言ったかね、サラ」


 竜の唸りに、蜘蛛が慌てて口をつぐむ。そんな彼を見て神官が、たまらずくすくす笑みをこぼす。


「貴様もだ、マヌケ神官。狼藉者など許してどうする。それで善行を施したつもりかね、ギゼンシャ神官」

「僕は神に仕える身だ。僕の行いは常に神の御前にある」


 竜はぼふりと小さな炎を吐くと、口調だけは苛立たしげに、吐き捨てるように呟いた。


「我輩の為だけに祈っておればいいのだ、オトボケ神官」


 その言葉に神官は一瞬きょとんと目を見開き、しかしこみ上げる愛しさに、頬の緩みを止められなかった。黒光りする竜の鱗に、何も言わずに口付ける。

 流れる風が耳を掠め、細い金髪がさらりとそよぐ。見れば眼下には森が広がり、その奥には住み慣れた古城が、白く、小さく輝いていた。

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