【番外編】 王子といばらの誓い
ふんわり鼻先をくすぐる甘い香りに、王子は一度は毛布から顔を出したものの、再び温かな寝床にもぐりこんだ。王子がこの城に来て一年。こんな時には寝た振りをするのが一番だと、彼は身を持って知っていたのだ。
やがてそんな彼の予感がぴたり的中し、廊下を高い靴音が近づいてきた。王子は少しだけ瞼を開け、しかし足音が扉の前で止まると、ふわり目を閉じさもぐっすり眠り込んでいる顔を作った。音もなく扉が開き、バターと、砂糖と、卵と、甘い香草のやわらかいにおいが混ざり合って部屋に流れ込んできた。それは今しがたまで厨房にいた魔法使いの、全身に染み付いたものだった。
「上出来だ! 素晴らしいケーキが焼きあがったぞ、ネボスケ王子」
けれど王子は返事を返さず、ただすうすうと寝息を立てた。
「白くて、甘くて、ふわふわだ。目覚めた貴様はきっと感激で声も出せないだろう」
魔法使いは室内をうろつくと、寝入る王子にそれでも構わず喋りつづけた。そうしてカツンと靴を鳴らすと、ベッドの脇で立ち止まり、さらさらとした蜂蜜色の髪に口付けた。
「ロイス」
愛しさを閉じ込めて、ただ一言。
目を覚ましていては、魔法使いはこんな風に彼を呼んでくれなどしない。
魔法使いは屈んでいた長身を起こすと、ばさり気取ってローブの裾を翻した。
「飾り付けが終わるまでまだ間がある。それまで貴様は目を覚ますな、いいな?」
長い爪で王子を指差し、ぴしりと釘を打つだけ打つと、魔法使いは王子の部屋を後にした。一方の王子は毛布の中、とくんとくん重なり合う二つの心臓の音を抱きしめるように、ぎゅっとその胸を両手で包んだ。彼は今日、15の誕生日を迎えたのだ。
◆◆◆
「王子様、早く早く! そりゃあご主人様、丹精こめて作り上げましたからね!」
一年前より少し伸びた金髪を、サラが待ちきれないとばかりに引いてせっつく。それに苦笑して王子は、早足で食堂へと向かった。
「うん、僕も楽しみだよ。何せ僕の部屋まで甘い香りが届いていたからね」
「見た目もすごいんですよ! ほら!」
サラの言葉と同時に、気のいい食堂の扉が大きく開いた。王子は長テーブルの上に置かれたそれを目にすると、心は構えていたはずなのに、それでも思わず息を飲んだ。
テーブルの幅いっぱいに乗せられた、大きな大きなケーキ。高さも花器をゆうに超え、数えれば四段も重なっている。その表はクリームと粉砂糖で真っ白に包まれ、すみれの砂糖漬けが綺麗な列を作っている。てっぺんには薄く延ばされた砂糖菓子が飾られ、まるで純白の花びらのようだ。
「すごい……これが、僕のケーキ?」
「賛辞は多すぎるという事はない。さぁ、いくらでも褒めて構わんぞ、クチベタ王子」
その声に振り返ると王子は、けれど震える瞳で魔法使いの顔を見るのが精一杯で、上手い言葉など出てこなかった。
「……こんなに嬉しい贈り物は15年間で初めてだ。ありがとう、オドラデク」
短い言葉ではあったが魔法使いは目を閉じて満足そうに頷き、曲がった鼻を得意げに天井に向けた。
「さぁ食べましょう! ほら、王子様、早く座って!」
王子はサラが引いた椅子に座ると、はにかんで魔法使いを見上げた。
「こんなに見事なケーキ、食べてしまうのは勿体ないな」
「貴様、今の言葉を一生後悔する事になるぞ? これほどまでに甘くてふわふわのケーキを、食べずに今日を終えようものなら」
言いながら魔法使いはいそいそと、銀のナイフを手にとった。サラが青い花模様の小皿を取り出す。王子は二人の様子を、胸を弾ませて見守った。そうしていざ、ケーキに入刀されようとしたその時。
「!」
「サラ?」
一瞬眉をひそめてサラが、ひょいひょいと糸を伝って窓際へと飛んだ。
「どうしたんだ、サラ? 誰か来たのか?」
王子も席を立つとその後に続き、細長い窓から城門の向こうに目を凝らした。そうしてやってくる一行に、若草色の目をぱちりと開いた。
先頭に白馬に乗った騎士が六人、続くは金のラッパの鼓笛隊、そして六頭立ての馬車。さらに騎士が八人続き、最後に花びらを蒔く派手な道化師。たなびく旗にも白い馬車にも、白鳥をかたどった王家の紋が描かれている。
「父王?」
王子の呟きに、魔法使いはひとつ鼻を鳴らすと、忌々しげにナイフを置いた。
宝剣にワンドに真紅のガウン、勲章にカップに黒い靴。
伝統的な作法に則って贈られる、成人を祝う豪奢な品々。
晴れやかな顔でそれらを受け取る王子とは対照的に、魔法使いは苛々と長い爪をかち合わせてその様子を見守っていた。サラはと言えば、魔法使いの足元で大きなあくびを漏らしている。ひとしきり儀式を終えると国王は、久しぶりに会う息子の瞳を深く見据えた。
「ロイスよ、お前もこれで成人だ。私達は……いや、王家はこれをもってお前に干渉するのは最後としよう。これからはお前の思う通り、信じる道を行きなさい」
煌びやかな什宝よりも、成人を意味する剣よりも。父の言葉は重く深く、王子の胸に染み入った。同時に、感慨にも似た寂しさがこみ上げる。
「ロイス、」
涙声で呼ぶと王妃は、一歩前に出てその胸に王子を抱き寄せ、一年前より伸びた背丈を、その手で、肌で感じとった。
「また手紙をくださいね。私達はいつでも、貴方を愛していますよ」
「母上……」
と、国王はふと視線を上げ、広場の隅で不貞腐れる魔法使いに顔を向けた。
「黒の魔法使いよ」
その呼びかけにも、魔法使いは眉一つ動かさない。
「そなたに命ずる。こののち、ロイスがこの城にある限り、その全てをもってロイスを護るよう」
勅命を受けても尚、魔法使いはつまらなそうに突っ立っているだけだった。が、王妃に深々と頭を下げられ、穏やかな声で「母として頼みます」と言われてしまうと、さしもの魔法使いもうやうやしく一礼をした。そして誓った。
「命の限り」
◆◆◆
一連の儀式が終わり、やっとの事で仰仰しい一行が城から去ると、サラはこきこきと肩を鳴らしてテーブルの上を飛び回った。
「んもー、すっかりお茶が冷めちゃいましたね。今すぐ入れ直しますからちょっと待ってくださいね」
ぴょこぴょことサラが厨房へ消えると、王子はおずおずと魔法使いの顔を見た。
「……オドラデク」
「ふむ、この酒は悪くないな」
魔法使いは王子に答えず、城から贈られたごちそうの数々を品定めしていた。
「オドラデク、さっきの誓いだけれど」
「20年もののワインだ。今晩いただくとしよう」
魔法使いは大きな酒瓶を手にとり眺めながら、何食わぬ顔でひとりごちた。
「オドラデク!」
短く呼ばれ、魔法使いは観念して、王子の視線を受け止めた。
「命ある限り、僕を護ってくれるのか?」
「言葉通りの意味だ。我輩の心臓は貴様にあるのだからな」
「僕がお前の心臓を持っていなければ、僕を護ってはくれなかった?」
少し泣きそうな眼で真っ直ぐ見上げる王子の額に、魔法使いの痩せた指が触れ、金色の前髪をさらりとすくった。そうしてその髪に口付けた。
「その問いには意味がない。なぜなら貴様の左胸以外に、我輩の心臓の隠し場所などありえないからだ」
王子の頬がぱあっと染まった。王子は魔法使いのぼろぼろのマントをきゅっと握り締めると、そおっと爪先立った。
「オドラデク……」
王子の唇が、魔法使いに触れようとしたその時。
「っ!」
風を叩く小さな音がいくつも重なり合い、銀の羽が部屋を覆った。見れば小さな小さな蝶が、鏡から無数に飛び出していた。
「ご機嫌麗しく、ロイス王子。黒き翼の魔法使い」
「鏡の魔女……」
呆気に取られた王子の呟きと、憎憎しげな魔法使いのぼやきが重なると、鏡の魔女はにっこり微笑んで会釈した。そうしてその後ろから、礼服に身を包んだナーランジュ王子が姿を現した。
大きく口を開けていざ蝶をかじろうとしたサラの背を、ひょいと細い指が摘み上げて、彼と銀の蝶とを引き剥がした。サラは恨めしそうに鏡の魔女を見上げたが、魔女はふんわり笑い返すだけだった。
「ではロイス王子、貴方は現在、司祭としてお過ごしなのか?」
「まだ見習いです、神官位は得ていません」
はにかむロイス王子に、ナーランジュ王子は感嘆と尊敬の眼差しを向けた。
「ここの礼拝堂は、ふもとの村々から神竜を崇める場所とされていて、時折巡礼者が訪れるのです。僕はただ彼らと竜とを繋ぐ役割をしているだけです」
「ああ、成る程」
そこでナーランジュ王子はくすりと笑い、ちらと魔法使いを見た。
「ここ最近黒竜が騒ぎを起こさないと思ったら、ロイス王子、貴方のおかげでしたか」
魔法使いが鼻を鳴らした。
「戯言を言いにわざわざ我が城までお越し頂いたのかね、オスマシ王子」
と、ナーランジュ王子はロイス王子の手を取って立たせると、窓際へ向かい中庭を見るよう促した。ロイス王子はそこに一頭の馬を見て、その顔に喜びの表情を浮かべた。
艶やかな黒い体躯、すらりと伸びた逞しくもしなやかな脚。見ただけでわかる、文句のつけようのない名馬だ。
「ご成人のお祝いです。どうかお受け取りください」
「私からは、こちらを」
そう言って魔女が差し出したのは、銀細工で縁取られた、小さな丸い鏡だった。
「こちらを覗き込めば、王子の行かれた事のある場所であればいずこでも、意のままに伺うことが出来ます」
王子は鏡を受け取ると、大切そうに胸にいだいた。
遠く離れても、駆けつけてくれた友人達。この日を、自分の生まれた日を祝う為に。ロイス王子は頬を薔薇の色に染め、二人の顔を交互に見た。
「素晴らしい贈り物をありがとう、お二人とも」
心からの言葉にナーランジュ王子も鏡の魔女も、嬉しそうに微笑み返した。
◆◆◆
「やれやれ、やっと静かになりおった」
魔法使いがぼやきながら尖ったあごひげを撫でつけた。王子は苦笑すると、魔法使いのグラスにもう一杯ワインを注いだ。
テーブルの上の大きなケーキはもう残り僅か。鏡の魔女とナーランジュ王子を含めた五人で囲んだ結果だ。二人は皆と共に長い時間祝杯を交わしていたが、先程鏡を抜けて帰還をし、今はただ魔法使いと、王子と、ごちそうの残りと、お腹一杯になってティーカップの中で眠りこけるサラがいるだけだ。空には既に白い月。魔法使いは皿に残った鹿肉をひょいと口に運ぶと、ふと窓の外に目をやった。
「しかし何故黒馬なのだ? 王族には白馬が通例であろう」
「僕が愛しているのが黒竜だから、馬も黒なんだろう」
王子がそう答えると、魔法使いはただ「ふむ」と唸った。いつもこの調子だ。王子がいくら愛を告白したところで、魔法使いは顔色一つ変えやしない。
王子はためらいがちに魔法使いを見、けれど決心したように進み出ると、ワインを飲む魔法使いの傍らに立った。
「オドラデク。僕はもう大人だ」
「存じておるぞ、本日の主役殿」
「成人したとはどういうことか、わかるか?」
「酒が飲める」
そう答えて魔法使いは、王子のグラスにもワインを注いだ。けれど王子はかぶりを振って、それを飲もうとはしなかった。
「それだけじゃない。他にもあるだろう?」
「参政権がある」
王子はそれにも首を振り、きゅっと唇を噛み締めた。
「他には?」
「土地が持てる」
「そうじゃなくて!」
「学院に入学できる」
「お前、絶対わざとだろう?」
言うなり王子は魔法使いの痩せた手を取り、その指に指輪をはめた。
「婚姻ができる。僕はこの日を、ずっと待っていたんだ」
魔法使いは黄色い丸い目をくるりとさせて、自らの指に光る白銀の指輪を眺めた。そこには細く、棘を持つ蔦が刻まれている。
「……僕は魔法使いじゃないから、お前に心臓を預けることが出来ない。けれど僕の心はお前のものだ、僕の魂はお前のものだ。それを誓いたい」
王子の左胸の心臓が、ふたつ同時にとくんと揺れた。
「何に誓う? あの月にか、それとも流れる王家の血にか?」
「この胸のいばらにかけて」
答えて王子は魔法使いに口付けた。唇を離し、顔を離す前にもう一度こけた頬にもキスを落とす。
一年前に咲いたいばらは王子の中で咲き続け、甘い香りで胸を充たす。それは切ないほど優しく、泣きたくなるほど美しく。そうして王子は気付いていたのだ。ふたつの心臓を持つ王子のみが知るいばらの秘密に。
競い合うように咲く花々、けれど自らの紅い花より、魔法使いの咲かせた白い花の方が、今や王子の胸を占めていることに。
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