【番外編】 魔法使いといばらの魔法

「よかろう、そこまで言うならかけてやろう、この世で最も幸福で屈辱的な魔法を。後悔しても遅い、泣いても喚いてもそれは我輩を喜ばせるだけだ」

「……受けて立とうじゃないか。僕は何者にも屈したりしない!」


 きつく睨み上げる王子の視線を、魔法使いはにやにやと受け止めた。


 いばらの魔法。

 甘く、優しく、そして何よりも残酷なその魔術を、この小さな王子は受け入れると言っている。この小癪な王子はその身も心も、この魔法使いに捧げると言っている!


 魔法使いは来たるべきその日の事を考えるだけで、胸の奥で意地悪く渦巻く愉快な気持ちを抑えることが出来ず、くっくっと低い笑い声を立てるのだった。


◆◆◆


「ご主人様、いばらの魔法はいつかけるんですか?」


 魔法使いのぼろぼろのローブの裾の周りを、彼に踏まれないよう細心の注意を払いながら、とことことサラが付いて歩く。魔法使いは尖ったあごひげを撫でつけながら、感慨深げに頷いた。


「ふむ、折角なら王子が我輩をもっとも憎んだときが望ましい。深い憎悪と、抗えないいばら。どうかね、サラ?」

「素晴らしいです、ご主人様!」


 魔法使いの足元で、ぴょこぴょこと蜘蛛少年が飛び跳ねる。魔法使いは満足げに目を細めると、つかつかと石の廊下を広い歩幅で進んでいった。


「して、サラ。件のナマイキ王子はどうしている?」

「ここ数日は、城内の清掃をしているようです。まぁ、構わないかと思って好きにさせているんですけど……っと、」


 サラがぴたりと跳ねるのを止め、魔法使いもまた足を止めた。二人の視線の先、廊下の角にはまさに渦中の王子が、ひとつの扉の前で途方にくれていたからだ。


「何をしておる、フヌケ王子」


 その声に王子はぱっと顔を上げ――魔法使いの姿を見るなり、白い頬を薔薇色に染めた。


「……まだ、いばらの魔法はかけていませんよね?」


 サラの小さな問いかけに、しかし魔法使いは答えなかった。代わりに、ついと前に出て、戸惑う王子を見下ろした。


「トンマ王子、この部屋に一体何の用があるのだ?」

「掃除を、しようと思ったんだ。けれど、この部屋だけどうしても鍵が開かなくて」


 魔法使いから視線を逸らし、しどろもどろに答える王子。その心臓の音がこちらにも聞こえてきそうで、魔法使いはくっくっと忍び笑いを洩らした。


「この部屋は特別だ。我輩を除いて、ただ一人しか入る事が出来ない」


 そう言うと魔法使いはそっとノブに手をかけた。そうしてくるりとそれを回すと、なんたること、先程まで頑なに王子を拒んでいた扉は、音もなくすんなりと開いたではないか! そうして開かれた部屋の内部に、王子ははっと息を呑んだ。


「……っ!」


 白いレースに春色のカーテン、花を模した柔らかな曲線のランプ、広い鏡台、香水瓶。化粧壷、手鏡、衣装箪笥。荒れ果てた他の部屋とはうってかわってこの部屋だけは、美しいまま保たれていた。そう、まるで――主の帰りを、待つかのように。


「…………」


 扉の前で立ち尽くす王子に、魔法使いは片眉を上げた。


「どうした、マヌケ王子。何をぼんやりしておる。貴様はこの部屋を掃除するのではなかったのか?」


 と、見れば王子のその肩は、ほんの僅かに震えていた。丸い頬は血の気を失くし、青白く透き通っている。


「……ここは、お前の奥方の部屋、なのか?」


 かすれた声で、ただ一言。しかし魔法使いはぴしゃりとそれを否定した。


「ここは我輩のママの部屋だ」


 途端にほうっと、王子が深い息をつく。その瞳は少し泣きそうにも見えた。


「我輩に妻がいなくて安堵したかね、ハヤトチリ王子」

「っ、誰が! お前が結婚していようがいまいが、僕には関係ないことだ!」


 王子は顔を真っ赤にして肩をいからせると、掃除用具を担ぎなおし、ずかずかと部屋へ入っていった。その後姿を見つめながら魔法使いは、声を殺して肩を揺すった。と、その耳元に、銀の糸が垂れてきた。


「ご主人様、本当にまだいばらの魔法はかけていないんですか?」

「無論だ」


 サラはするすると糸を手繰ると、魔法使いと視線を合わせた。


「では、魔法はいつかけます? 何でしたら、すぐにでも準備を始めますが」


 しかし魔法使いは片手を上げると、召使いの提案を押し留めた。


「何、もう少し。もう少しこのまま様子を見ようではないか」


 魔法使いの気味の悪い笑い声が、室内に低く響き渡る。その声を聞きながら王子は、きゅっと唇を結んで清掃に励んでいた。

 彼は知らないのだ。笑い方がどうであれ、魔法使いが――こんなにも笑顔を見せるのは、ここ数十年ぶりである事を。


◆◆◆


 目が覚めたら、ママがいなかった。


 走った。城中を駆け巡り、部屋と言う部屋の扉を開け、必死になってその姿を探した。けれど、ママはどこにもいない。一人だ。一人だ、一人だ、一人だ!


 はっとして目を開くと、見慣れた天蓋が目に入った。荒い呼吸は魔法使いの唇から吐き出されているものだ。額に玉のような汗が浮かぶ。ぞくりと背筋の凍る夢に、けれどぎゅっと強く握り締められた手に気がつき、ふうっと長い息が洩れた。


「オドラデク?」

「ロイスか……」


 魔法使いが名を呼ぶと王子はぱっと頬を染め、両手で彼の手を包み込み、心配そうにその顔を覗き込んだ。


「どうしたオドラデク、悪い夢でも見たのか? 顔が真っ青だ」

「夢――ああ、そうだな」


 夢だ。いつもの。いつもどおりのあの夢だ。

 けれど――。


 若草色の瞳で、真っ直ぐに魔法使いを見つめる王子。痩せた右手を温かく包む、まだ幼い小さな両手。

 これは現実だ。目の前に、ロイスがいる。


「大丈夫か? 今、水を持ってきてやる」


 けれど立ち上がりかけた王子の手を、魔法使いが引き戻した。


「オド……」

「ここにいろ」


 王子の瞳が揺れ、唇が淡く開かれる。魔法使いは黄色い瞳で、じっと王子を見上げている。王子はふわり微笑むと、魔法使いの長い指に、自らの指を絡ませた。


「……ずっといる。僕はずっと、おまえのそばにいる」


 魔法使いの胸に、王子の言葉がすうっと沁みこみ、やがて穏やかな波紋を描いた。

 魔法使いは何も言わず、そっと双眸を閉じた。ただその手に、小さな王子の体温を感じて。

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