第10話 空中庭園

 薄暗く、じめじめとしており、埃っぽい。

 王子から見た古城の印象はその三点のみであったが、この中庭だけは別だと感じた。


 城に囲まれた小さな中庭には鮮やかな緑が生い茂り、古びた噴水からは細々ながらも澄んだ水が零れ落ちている。古木に絡む柔らかな蔦、梢でさえずる小さな野鳥。揺らぐ木漏れ日は優しく輝き、金色の波となって足元をさやさやと流れていた。

 山の上に聳える城の、更に二階にあたる位置に作られている為、遥か遠くの山々まで見渡せる。

 その遥かな眺めに目を細めながら、王子は小さく呟いた。


「空中庭園というわけか」


 この城がいつ、どのような目的で造られたのかはわからない。

 けれどきっと、当時の城主も、この景色を好ましく思っていたに違いない。


「キョロキョロし過ぎて落ちたりするなよ、マヌケ王子」


 その声に振り返るや否や、王子の両腕にどさどさと大量の本が降ってきた。

 幼い細腕にはあまりに重いそれらを落とさないようわたつく王子の目の前を、魔法使いが手助けする様子も見せずに行き過ぎる。


「カラクリ細工に関する本は概ね揃えた。それで満足しなければ更なる書物を所望するがよい」

「あ、ありがとう……」


 王子の謝辞を聞いているのかいないのか、魔法使いはさっさと古木の下に向かうと、ボロボロのローブの袖から古い巻物を一本取りだし、切り株にやおら腰かけた。そしてそのまま読書を始めてしまったので、王子は魔法使いにそれ以上話し掛けることもできず、腕の中にずしりと抱えた本の山に視線を落とした。


「調べものがしたい」


 そう、魔法使いに頼んでみたら、連れてこられたのがこの中庭だ。


 そもそも魔法使いの蔵書を好きなだけ借りられるというのも意外だったが、こうして外に――城と崖に囲まれ、脱出不可能な空中庭園とはいえ――出してもらえるなどとは思ってもみなかった。


 妙な話ではあるが、王子は虜にして自由だった。


 学びたいと言えば書が与えられ、城内であれば好きに移動でき、何をするのも何もしないのも王子が決められた。何なら、公務や訓練に追われていた自国に居た頃よりもずっと自由なくらいだ。


 王子の胸が、さわさわさざめく。

「何をしてもいい」なら何をしたい?

 そんな風に自分の心と向かい合うことなど一度もなかった。


 自分は王子で、いずれは国を導く立場で、その為に為すべきことはいくらでもあって。

 けれど、今は。


 王子の蜂蜜色の髪が、山を撫でる風に吹き上げられる。

 彼の心臓で小さないばらも、頷くようにそよいでいた。


 王子が借りた本は、カラクリに関するものだった。

 大広間の奥の時計が止まったままになっているのを、なんとか直せないかと思ったからだ。


 王子の働きのおかげで城内は随分と清潔になったが、まだまだ手入れが必要な個所は多数ある。

 破れたカーテンも繕いたいし、クッションのシミ抜きもしたいし、折れた外套掛けにも釘を打ちたい。

 いずれ抜け出すつもりの城ではあるが、現状ここで暮らしている限り、やはり居心地が良いに越したことはない。

 何より、奇麗にしてやった家具たちが嬉し気にしている様を見ると、王子も嬉しくなってしまうのだ。


 さて、いざ書物を読もうとしたものの、王子はしばし立ちすくんだ。

 この中庭には四阿あずまやのような気の利いたものは勿論、ベンチのひとつも置かれていない。仕方なく王子は、切り株に座る魔法使いの隣に腰を下ろしたが、途端に魔法使いに呆れ声をあげられた。


「先日も思ったものだが王子よ、貴様は王子の割に粗野であるな。床にも野にも平気で座り込む」

「目に余るというなら魔法で素敵な揺り椅子でも出してくれ。僕なら、野営で慣れている」


 野営、という言葉に魔法使いが片方の眉をくしゃりと上げたので、王子はいぶかしげな彼の為に言葉を続けた。


「先月まで、隣国の兵団に所属していた。留学を兼ねての実践訓練だ。もっとも、僕は見習いでしかなく、基礎的な体術と剣術を学んだだけだけれど。火の熾し方や馬の手入れ、あと、そう……掃除もそこで学んだ」

「留学、か。物は言いようだ、一種の人質であろう?」

「勿論そうだ。我が国のような小国は隣国との関係性が重要だからな。同盟関係にあるかの国に対して命を懸ける覚悟があると、行動で示す必要がある」


 こともなげに語る王子を、魔法使いは何も言わずに見つめていた。


「先日の宴は、僕の誕生祭というだけでなく、帰還をおもねる意味もあった。僕の無事と、成長と、それから国の安泰を祝うものだ」


 一人の人間である前に、一国の王子として生まれた。

 そのことに不満はないし、不自由に感じたこともない。

 けれど同時に、王子ではなくなったら自分に何が残るのか、そんなことを考えてみたためしもない。


 木漏れ日が揺れる。

 風の通る音と鳥のさえずりだけが静かに流れる。


 不思議なものだ。

 魔法使いの隣、ただ二人で並んでいるだけなのに、言葉を交わすよりよほど共有できている気がする。


――共有? 何を? この魔法使いと僕は、何を分かち合っている……?


「……そのうち、植物も手入れしたいな。この中庭も、草を刈って木々の枝を払えば、もっと居心地が良くなるだろう。壁を伝う蔦も刈り取って……いや、そこはそのままの方がいいのだろうか……」

「本人に聞けばよい。貴様が家具どもを手名付けているのは知っている。植木や石垣と話すことくらい造作なかろう」

「……うん……そうだな……本人たちに聞けば……」


 暖かな日差しに、うとうとと瞼が下がってくる。

 夕日に照らされて輝くことから、「黄金城」と呼ばれる城があるという。

 ならば、花を植えたらどうだろう?

 数年では無理かもしれない。けれど十年、何十年とかけて、この城の城壁全てがいばらにうめつくされたらどうなるだろう。大輪の花々で染まるのだろうか。その時、この城はなんと呼ばれるだろう。王子は瞼の裏に、花にうずもれた古城を思い描いてみた。どこまでものびやかに育ついばら。そこに揺れる瑞々しい花たちは、どんな色をしているのだろう……。


 ◆◆◆


 はっとして王子は目を開いた。どうやらいつの間にか眠りこけてしまっていたらしい。

 膝の上に広げた本は最初の数ページしか進んでいないし、何より日が落ちて暗くなっている。


 いや、違う。

 日が落ちたのではなく、雨が降っているのだ。


 それにしては濡れていないなと不思議に思ったその瞬間、ばさり、と皮のテントを張る時のような音がして、視界が急に明るくなった。隣を見れば魔法使いの背中に、大きな竜の翼が畳み込まれるところだった。王子の頭にポツポツと大粒の雨が落ちてくる。


「早く部屋へ戻る支度をしろ、ノロマ王子。雨で本が傷んでしまう」


 言われて王子は慌てて本をまとめだした。王子を待たずに城内へ戻ろうとする魔法使いの背中を小走りに追いかける。


 雨はいつしか本降りとなり、長く伸びた草を大きく揺らしていた。

 間一髪城内に逃げ込んだ王子は、雨でけぶる景色を小窓から眺めた。濡れてしまわなくて良かった、魔法使いに借りた本を台無しにしなくて済んだ。


 しかし、どうして濡れなかったのだろう?

 王子はふと、目を覚ました時の光景を思い返した。

 ふいに畳まれた大きな竜の翼、あれは……王子を覆っていたのではないか?


「さっさとついて来いウスノロ王子。書斎に本を戻しに行くぞ」


 いつもの通りのぶっきらぼうな口調。しかし彼の古びたローブは、背中だけがぐっしょりと雨に濡れている。

 王子は魔法使いに対して口を開きかけ――しかしやはり口をつぐんで、ただ、足早に廊下を進む彼の後を追いかけた。

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