第9話 月のおもちゃ星のおもちゃ

 夕食が終わると王子は、自分に与えられた部屋に戻り、ぴったりと扉を締め切った。顔を上げれば頬を細い金髪が滑り、ひび割れた窓の向こうには、大きな月が浮かんでいた。


 王子は長い息を吐いて項垂れると、金の睫毛を伏せたまま、ゆっくりベッドへ進んで行った。サイドテーブルに置かれたままの、銀のポットをその手に取る。カチンと音を立てて蓋を開ければ、そこには懐かしい王城の景色が、円く浮かび上がっていた。

 優しく頼もしい父王。穏やかで美しい母上。たった一人の世継ぎである自分がこのような事になり、どれだけ迷惑を、そして心労をかけている事だろう。どうにかして帰らなければ。縛めから逃れ、この城を出て、呪わしき魔法使いと永遠の別れを――。


 わかっている。

 頭ではわかっていても心はいばらに捕らわれており、王子は悲しげに眉根を寄せた。瞼は閉じなかった。目を閉じてしまえばあの魔法使いの顔が浮かんでしまうことを、自分でも気が付いていたからだ。


 王子はふと何かを思いつくと、ポットをサイドテーブルに置き、自らは小さな文机に向かった。ぼろぼろに朽ちたカーテンの端を、更に小さく引きちぎる。少し硬くなったインク壺に、古びた羽ペンの先を浸す。


 元気でいること。魔法使いに辛い目に遭わされてなどいないこと。それから、父を、母を、心から愛していること。


 思いの全てを書き綴ると王子は、首に下げていた金のペンダントを外し、端切れの手紙に巻きつけた。そうしてそれを、ティーポットへそっと忍び入れた。

 期待に胸を高鳴らせ、王子はポットを覗き込んだ。中ではまさに王妃が手紙を拾い上げ、不思議そうに辺りを見回しているところだった。その手に輝くペンダントは、王妃があの日誕生祝にくださった、まごうかたなき王子の私物だ。ふたつとない王子の宝物だ。


 それに気付いた王妃の指が、激しく震えてペンダントを落とした。そして手紙を抱き締めて、その場で大きく泣き崩れた。

 母の安堵の涙を見届け、王子もまたほっとして、静かにポットの蓋を閉じた。今宵はほんの少しだけ、安らいだ気持ちで眠れそうだ。


 さて、王子のこの何気ない行動が後々魔法使いを苦しめることに繋がるのだが、彼のまだ幼い優しさを、いったい誰が責められるだろうか。



◆◆◆



 もはや、それは習慣となった。

 その晩も王子は魔法使いの寝室に呼ばれ、彼の手を取り、寝かしつける作業へと入っていた。


――時間以外の全てに忘れ去られたみたいだ。


 そんなことを思いながら、王子は改めて寝室を眺め回した。


 広々とした室内はカビ臭く陰鬱で、箪笥も書棚も飾り窓も、こんもりと白い埃が積もっている。もしも雪が降ったなら、外の景色も部屋の内部も、きっと見分けがつかないだろう。

 大きな暖炉には常に赤々とした火が踊り狂っており、冬の侵入など雪の子一匹許していない。

 全てが寡黙で愛想が悪く、ぶっきらぼうな家具達の中で、ベッドの天蓋から下がる星と月だけが無邪気で可愛らしく、まるで使われなくなった子供部屋のようだった。


 実際、子供部屋なのではないだろうか。

 ふと王子は、そんな風に考えた。


 この城が、いつ頃から手入れを怠っているのかは分からない。

 けれどひょっとしてこの寝室は、魔法使いが幼かった頃から、あまり姿を変えていないのではないだろうか。


 見下ろせばベッドには、枯れ木のように痩せた初老の男。その顔には深い皺が刻まれているし、灰色の髪はごわごわと逆立っている。王子を捕えているはずの悪漢であるのだが、その寝顔は子供のように無防備で、とても捕虜を前にした表情とは思えない。


 一体、彼はどれくらい、この城にいるのだろう。

 沈まない星と登らない月に見守られ、この子供部屋で、たった一人。


 魔法使いの骨ばった痩せた手が、しっかりと王子の手を握り締めている。

 ちくり、胸をいばらが刺して、王子の心を曇らせた。


「黒の魔法使い」と呼ばれるこの男からすれば、きっと自分など、取るに足らない存在だろう。だからこそこうして、警戒することなく寝姿を晒したり出来るのだ。殺せるものなら殺してみろ。逃げ出せるものなら逃げてみろ。そう思い、せせら笑っているに違いない。


 そして、何より。


 わかっているのだ。気付いているのだ。相手は魔法使いなのだから、とっくに察しているはずだ。己のかけたあの魔法が、王子を蝕みつつあるということを。鎖でも鍵でもない、王子をこの城に留めているのはその心臓に絡みつこうと腕を伸ばす、いばらであるということを。




 魔法使いがぐっすりと眠りに落ちたのを見届けると、王子は魔法使いの寝室を出て、与えられた自室へと戻った。とぼとぼと窓際まで進み、サイドテーブルに手を伸ばす。


 朝、目が覚めた時。または夕食後、または眠る前。時間があれば王子は、あの銀のポットの中を覗き込んでいた。小さなポットの底面に、愛する王城の人々の姿を見ることは、遠く攫われた王子にとってなによりの慰めだった。


 ほんの数日離れただけの城内が、ひどく懐かしく思える。母の表情は青く沈み、泣きはらしたその目だけが真っ赤だった。父王は変わらず威厳を放っていたが、苛立たしさを募らせていることはその表情から明らかだった。

 無理もない。王子救出の兵を送ろうにも、ここがどこであるのか、王子にだってわからないのだ。魔法使いの居城など、誰がその場所を明かしたりするものか。


 だからこそ、自分で動かなければならない。

 助けなど待たずに、自らの力でこの城を脱出しなければ。


「ナーランジュ王子なら、こんな時、どうなさっただろう……」


 思わずぽつりと呟いて、王子は小さく嘆息した。


 兄のように優しく、頼もしく、麗しいナーランジュ王子。勇者の血を引く彼なら、決して魔法使いに屈する事など無いだろう。


『何、勇者の末裔などと言われてはおりますが、魔物を倒したという伝説の宝剣が残っているだけのこと。英雄王の血を引くといっても、特別な力があるわけではない。祖先に恥じぬよう、もっと精進しなければ』


 ナーランジュ王子はそんな風に苦笑していたものだが、その謙虚さが尚更、ロイス王子には眩しかった。その血のせいでないのなら、彼の強さは彼の努力によるものだ。剣も達者だが同時に大変博識で、なんでも、王宮付き魔術師のもと、日々勉学に励んでいるとの噂だった。


 きっと、諦めたりしない。敬愛するあの王子なら、今の自分の様に迷ったりは、絶対に。


 早く帰らなければ。どんなに小さなきっかけでもいい、きっと、その手がかりを見つけ出して。

 帰ることが、出来るうちに。

 心がこの城に、すっかり捕らわれないうちに。

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