第8話 シチューと蕾

 昨日、城内を探索した時にも気付いてはいたが、この埃と蜘蛛の巣でデコレーションされた古城において唯一、厨房だけが手入れされていた。

 壁の煉瓦はつるつるに磨かれ、床にも埃や油は無い。壁から下がる匙やヘラは整然と『背の順』に並べられ、鍋やヤカンも輝く銀の肌を自慢げに見せびらかしていた。


 王子は大きな瞳を輝かせながら、生まれて初めて足を踏み入れた厨房を、くまなく眺め回していた。縄で吊るされた玉ねぎも、木箱に収まるじゃが芋も、知識としては知ってはいたが、調理前の姿を見るのは始めてだ。

 きょときょとと落ち着かない王子を放置して、魔法使いは慣れた手つきで大きな瓶から水を汲み上げた。


「到底役に立つとは思えぬが、貴様にも手伝いをさせてやろう。芋の皮ぐらいなら素人にもなんとか出来るな? ナイフならそこにある」


 示されるまま棚に手を伸ばし、おっかなびっくり包丁と芋を手にしたものの、王子ははたと気が付いて、上目遣いに魔法使いに尋ねた。


「……いいのか、魔法使い」

「何がだ」

「僕を、こんな所へ入れてしまって。今ならこの刃で、お前を斬ることだって出来るのに」

「おお、なんと恐ろしい! ここな王子様は"黒の魔法使い"こと我輩に、菜切り包丁で傷を付けられるものと思うておる!」


 芝居がかった口調に大袈裟な身振りを加えられ、さしもの王子もカッとして眉を上げた。そんな王子を見下ろしながら、魔法使いはくつくつと喉の奥で笑うと、長くひしゃげて伸びた爪で王子の鼻先をちょいと突ついた。


「安心おし、マヌケ王子。ただ鋭いだけの刃なぞ、我輩の体に一筋の傷すら付けられぬわ」

「……"魔法使い"というのは、そんなに頑強なものなのか?」

「少なくとも、芋の皮よりはな」


 魔法使いの言葉と同時に王子の手の中でじゃが芋がくるくると踊るように回りだし、ぎょっとした王子が芋を取りこぼさないよう慌てて両手を添えているうち、魔法使いは気味の悪い笑い声を残してかまどへと向かってしまった。


 妙な気分だ。

 魔法使いの意図は分からないが、少なくとも自分は人質の筈だ。それが城内ならば好き勝手歩き回る自由を与えられ、貴重な学術書を読むことが出来、今はこうして刃物を手に厨房に立っている。正直、王子は今、自分が何故ここにいるのかすら忘れてしまいそうになっていた。


「っ、痛っ!」


 ぼんやり考え事をしていた為か、慣れない作業に手が滑ったか。ナイフの刃先が芋から逸れて、気付けば王子の指先には、花のように赤い鮮血が零れていた。その様子を見ていた魔法使いが、間髪入れずに罵声を浴びせる。


「何をしている、ブキッチョ王子。そんな手つきでよくもこの我輩を斬る等と寝惚けたことが言えたものだ」

「仕方ないだろう、僕は……!」


 しかし王子の言い訳は、途中で喉に詰まってしまった。魔法使いがその痩せた手で王子の手首を引っ掴み、怪我をした柔らかな指先を自らの口に咥えたからだ。

 王子の全身が熱を増し、胸が急激に苦しくなる。

 生まれて初めて感じるこの痛みは、きっと王子の心臓に、いばらが絡みついているに違いなかった。


「あ、ま、魔法使い! その……!」


 しかし魔法使いはその手を解放するどころか、王子の指先から唇を離さない。

 王子は自身が頬だけでなく耳まで赤くなっていくのを感じたが、よくよく見れば魔法使いは、王子の流血をちゅうちゅうと、花の蜜でも吸うかのように貪っていた。

 王子は真顔になると乱暴にその手を振り払ったが、魔法使いは悪びれるどころか満足げに瞼を閉じ、ぺろりと舌なめずりをした。


「うむ、さすがは王家の血。魔力たっぷりでコクがあり、余計な混じり気が一切ない」

「王子様、僕にも! 僕にも!」


 いつの間にやら調理台に来ていたサラがはしゃいでぴょんぴょん王子にじゃれつく。王子は傷口を庇いながら、この飢えた小悪魔を追い払うので精いっぱいだった。



◆◆◆



 コトコトと鍋がハミングする音が心地よく耳に届く。先程から厨房には香草と肉のいい香りが湯気に乗って広がっており、野菜を洗っている王子の腹の虫を執拗に苛めていた。


「魔法使い、まだ出来上がらないのか」

「煮込みが足りん。貴様の辛抱も足りん」


 相変わらずの憎まれ口に王子は小さく唇を尖らせ、睫毛を伏せてぼそりとぼやいた。


「全く、魔法が使えるなら魔法で料理すればいいものを」

「貴様は何もわかっとらんな、ウツケ王子。食事とはそういうものではない」


 魔法使いの偉そうな口調に、王子はますますその頬を膨らませた。手伝ったというのに褒められるどころか、これではまるでお説教だ。


「料理には手間とか愛情とかが必要とでも言いたいのか?」

「くだらぬ感情論はよせ、タンラク王子。食べるとは命を紡ぐこと。魔法とは無から有を生むのではなく、既にある種を花開くまで育てる手段に過ぎない」


 実のところ、王子には魔法使いの言わんとしていることがほとんど理解できなかった。けれど大鍋の蓋が開けられ、たまらなく食欲をそそる香りが王子をほわんと包み込むと、もう何もかもがどうでも良くなってしまった。


「よし、いいだろう。ハラペコ王子、貴様は先に食堂で席についておれ。そう、お行儀よく、だ」


 子供を諭すような口調に反論したい気持ちもあったが、王子はそれ以上にわくわくとした気持ちを押さえられず、魔法使いに言われるまま、食堂へと飛び出して行った。


 小さなサラが、銀の食器を手際よく並べていく。やや遅れて魔法使いが席に着き、前菜とサラダが登場し、ようやくスープ皿が目の前に置かれた。白くて黄金色のシチューが、ゆっくり――実際にはさしてゆっくりではなかったのだが、王子が感じるところのゆっくり――注がれる。王子はたまらずスプーンを握ると、シチューを一匙、口に運んだ。


「…………っ」


 もし、何か言うことが出来たのなら、なんと言葉にしただろう! しかし生憎にも王子の口にはあつあつのシチューが入っており、胸にあふれる様々な感想は、声となって発されることは無かった。

 王子が柔らかく煮込まれたうさぎ肉をしみじみ噛みしめていると、不躾な視線がじろじろと刺さった。魔法使いは皴の刻まれた顔ににやにや笑いを浮かべ、王子の様子を眺めている。王子はスプーンを静かに置くと、魔法使いに食って掛かった。


「何が可笑しい、魔法使い。何か言いたいことがあるのか?」

「いや何、美味そうに食べるものだと思ってな」


 ここで憎まれ口の一つでも言い返したい所ではあるが、王子は書斎で恥をかいたことを思い出し、諦めて素直に頷いた。


「ああ、実際美味しいからな」

「そうか、美味いか!」


 途端に魔法使いが子供のように破顔するものだから、王子はぐっと言葉に詰まり、再び胸にいばらを感じた。王子は慌てて視線を逸らすと、今度は丁寧にシチューを掬った。


「その、今まで、こんな味は知らなかった。食事がこれほどまでに美味しいとは。自ら手間をかけ、懸命に作った料理が、こんな――ああ、これでは魔法使い、お前の言うとおりだな。体験を理由にしては、味覚ではなく感覚の話になってしまう」

「王子の心がそう感じたなら、それが王子の答えだ」


 こともなげに魔法使いが肯定するものだから、王子は体がふわりと浮かんだ心地になって、またしてもきゅうきゅうと胸が痛んだ。それを誤魔化すように王子はサラからグラスを受け取ると、ワインを少し口に含んだ。そしてすぐさま話題を変えた。


「そういえば魔法使い、お前の名をまだ聞いていなかった」

「イートリード。ノイシュタイン。グセルズズ。オドラデク」

「……そんなにあるのか」

「全部、人間が付けた名だ。どれでも好きなもので呼ぶが良い」


 王子はグラスをコトリと置くと、おずおずとひとつの名を口にした。


「……オドラデク」

「ふむ、良い名だ。それはママがつけた名前だ」


 王子は知らずほころんで、そうして魔法使いから目を逸らした。

 オドラデク。

 胸の中で呟くと、何故かくすぐったい気持ちになった。けれどもその淡い気持ちは、すぐに不安へと取って代わった。


「オドラデク。僕をどうするつもりだ? 僕はいつまで囚われているんだ? それとも既に王国に、何らかの要求をしたというのか?」


 しかし魔法使いはうさぎ肉を口いっぱい頬ばり、それからワインを飲み、付け合せの野菜をむしゃむしゃと食べ、またワインを含み、それからやっと思い出したかのように、王子の若草色の瞳を見つめ返した。


「何、貴様にかけた魔法が成就するのを見たいだけだ」

「いばらの魔法か?」

「いばらの魔法だ」


 瞬間、王子の心臓が跳ねた。


「貴様もそろそろ自覚しているはずだ。自分の胸に、美しい花のつぼみが膨らみつつあることを」


 知っていた。感じていた。泣きたくなるほど甘い蕾が、この胸に小さく芽吹いたことを。


「オドラデク、僕は……」

「デザートを頼む、サラ。そう、洋ナシのコンポートだ」


 王子は花びらのような唇を噛み締め、ただ膝の上でぎゅっと、握り拳を固くするしか出来なかった。

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