第7話 自由な書斎
「ふん、家具どもを手懐けおったか、小癪な王家の血族が。我輩の書斎に何の用だ?」
「書斎?」
言われて王子はぐるりと室内を見回した。
王子の視線に併せて、燭台達が次々と炎を点していく。先程までもやもやとした暗闇に包まれていた室内は、途端に眩く、明るくなった。
そこは、ひどく手狭な場所だった。
確かに、古びた本棚が壁際にあるが、それは小さな王子の背丈ほどしか高さがなく、しかも一本しか置かれていない。他には鎧戸を締め切ったままの窓がふたつと、部屋の中央に小ぶりな丸テーブルがひとつ、椅子が一脚あるだけだ。ちょいと頑張って手を伸ばせば、椅子に座ったまま書架の本を取り出すことも可能だろう。
王子が師事していた宮廷魔術師は、それはそれは多くの蔵書を所持していた。王宮内の図書室はそれだけで迷路のような広さだった。
"魔法使い"の書斎にしてはあまりに小さな部屋に、王子は呆れた眼差しを向けた。
「書斎? これっぽっちのここが、お前の?」
憎き魔法使いへと吐き捨てながら、王子は手近な一冊を手に取った。が、瞬時に今の己の言葉を、恥ずかしく思うこととなった。何気なく手にしたそれは、城の学者でさえ解読に手間取っていた、貴重な古文書だったからだ。
王子は慌てて顔を上げると、簡素な本棚に並ぶ蔵書に目を走らせた。
分厚い数学書、天文学の専門書、歴史の本に、遠い東洋の言語で書かれた本。見た事も無い不思議な文字は、魔法の言葉なのだろうか?
目にした書物はいずれもひどく難解そうで、けれども大変興味深くて、王子はその瞳を輝かせると、思わず何冊かを手に取った。ああ、こんなにも心弾む瞬間はどれくらいぶりだろう!
くっくっと低い笑い声が聞こえて来て、王子ははっと我に返ると、慌てて腕に抱えた数冊の本をもとの本棚に戻そうとした。
「け、けれど、いくら希少な本を持っていたところで、たったこれだけの数では……」
と、言いかけた王子の言葉が、喉の奥でぐっと留められた。
無い。
本棚に、隙間が無いのだ。
腕に抱えたいくつもの分厚い本が、確かに収まっていた筈の、その空間が無いのだ。
王子は焦って棚から新たに一冊の本を引き抜いたが、美しい金の飾り罫が施された布張りの表紙を眺め、再び顔を上げた時には、既にその本のあった場所には、また新たな本の背表紙が何食わぬ顔で収まっているのだった。
ぽかんとする王子の背後でついに魔法使いが声を立てて笑い出したので、王子はその頬を夕焼け色に染め上げると、歯噛みしながら抱えた本を丸テーブルに叩き置いた。
してやられた。馬鹿にするつもりが、馬鹿にされていたのだ!
「で!? お前はここで何をしているんだ、魔法使い!」
「調べものだ。貴様こそ何故ここにいる、アサハカ王子」
問われて王子はたじろいだ。
まさか、逃げ出そうとして成り行きで辿り着いただなんて言える訳がない。それも、あの様な願い事の結果だなんて。
"僕に――今、必要なものを与えて欲しい"
「な……何だっていいだろう」
「そうとも、何だって構わない。我輩は学びを求める者を拒まない」
思わぬ台詞に、王子はきょとんとして魔法使いを見上げた。しかし魔法使いは既に王子への興味を失っており、あの古くて不思議な本棚から次々と書物を取り出しているところだった。
王子はしばし逡巡したが、好奇心に勝つ事が出来ず、丸テーブルに置いた本の中から一冊を手に取った。
日頃から様々な公務に追われ、その合間に歴史や経済を詰め込むのが、王子にとっての「勉学」だった。しかしこうして自らの知識欲のまま手を伸ばしてみれば、先人による大いなる知見はそのいずれもがきらきらと魅惑的だった。
手にした本は幼い王子には少し難解な内容であったが、星の動きを解説したそれは大変に興味深く、心惹かれた。王子は腰を下ろそうとしたが、この部屋には椅子が一つしかないことを悟り、取り急ぎその場に座り込むと、すぐさま書物を貪った。
最後のページを読み終えると、王子はうっとりとした溜息を吐きながら、紙面を閉じることすら惜しくてゆっくりとした所作で本を畳んだ。
「没頭する」とは、こういうことを言うのだろうか。
わくわくと弾むこの胸を、初めて出会った言葉達がぎっしりと埋め尽くしており、心地良い疲労感を与えている。
王子はふっと顔を上げると、先程から静かに読書に勤しんでいる魔法使いの顔を見上げた。魔法使いは色褪せた椅子に腰掛け、小さな丸テーブルに本を広げていた。小枝のように痩せた指で丹念にページをなぞり、落ち窪んだ目を時折鋭く細めている。
学者に聞いたことがある。
「魔法」とは英知の結晶であり、自然への畏怖であり、万物の
王子は音も無く立ち上がると、そっと魔法使いの背後に近付き、その肩越し、魔法使いの読んでいる古びた本を覗き込んだ。
『香草入り仔ウサギのシチュー 四人分材料』
「何の用だね、フツツカ王子」
レシピを真剣に見つめたままの魔法使いに尋ねられ、王子は絶句していたその口を慌てて開いた。
「あ、いや、……ウサギ?」
「うむ、折角秋に肥え太っても、年が明ける頃にはすっかり痩せてしまうからな。今のうちに食べておかねば」
至極当然のように語る魔法使いに、王子はすっかり調子を狂わされてしまった。この男は、この城で出会ったどの絨毯やシャンデリアよりも、全く訳が分からない。
眉間に深い皺を刻んでいると、ふいに魔法使いが振り返り、王子はぎくりと肩を揺らした。
「なんだ、我輩の動向が気になるのか」
王子は若草色の大きな瞳をますます大きく見開いて、カッと頬を赤くした。
が、すぐにそれが「魔法使い」を指すのではなく「料理」のことだと気が付いて、むせてもいない喉をわざとらしく鳴らした。
「その、少し、気にはなる。僕は調理風景など、見た事が無いから」
そう言えばサラが言っていた。この魔法使いはとても料理が上手であると。さもありなん、召使いがあの小さな蜘蛛の子一匹しかないこの城では、
「言ったろう、我輩は学びを求める者を拒まない」
「……どういう意味だ?」
「わからぬのなら愚鈍なままでいるがいい、ボンヤリ王子」
言うなり魔法使いが立ち上がり、つかつかと書斎を後にしたので、王子は慌てて腕に抱えた古い書物をテーブルに置くと、彼の後を追いかけた。
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