第11話 のばらの部屋
その朝王子は、一人ぶつぶつと文句を言っていた。と、言うのも廊下の窓はひどく埃がこびりつき、何度磨いてもなかなか元の透明度を取り戻そうとはしなかったからだ。せっかくの眩しい朝の光も、このガラスを通してしまうと、霧のかかる森のようにぼんやりと薄暗くなってしまうのだ。
「全く、こんなに手入れを怠った城で、よくも平気で過ごせるものだ。召使いがサラしかいないのならそれも仕方がないのかもしれないが、それにしたってこれは……」
と、風も無いのにカーテンがそよぎ、不安げに王子の肩を撫でた。王子ははっとして顔を上げると、優しく目を細め、小鳥にしてやるように指の背でそっとカーテンを撫ぜた。
「ああ、大丈夫だよ。お前達のことはちゃんと、綺麗になるまで掃除してやるから。約束したものな」
途端にふわりとカーテン達が窓辺で踊り、陽炎のように軽やかにはためいた。そんな彼らの様子に王子はくすりと肩を揺らすと、ふと、あの書斎を思い返した。
「僕に、必要なもの――か」
家具達には、そう、伝えたはずだ。自分に必要なものを与えて欲しい、と。
確かに、本が泉の様に湧き出てるあの書斎はとても興味深かった。自分が思う以上に浅学であることも思い知らされた。王子はもっと学ぶ必要があると、知識を蓄えるべきであると痛感せずにはいられなかった。
けれど、本当にあれが王子にとって今一番必要なものだったのだろうか? ひょっとしたら案内されたのは「書斎」という場所ではなく、そこに佇んでいた――。
そこまで考えて王子は、頭をぶんぶんと左右に振って、ぽわんと浮かんだあの男の姿を必死に脳内から追い払った。軽やかな金髪が乱暴に揺れる。
王子は花びらのような唇をきゅっと噛み締めると、熱くなった頬を誤魔化すように、ガラスを磨く手に力を込めた。
「確かに、僕にとっては必要だとも! あいつをどうにかしないことには、僕はこの城から還れないのだから! けど、それはあくまでそういうことだ。それ以上の意味なんかないし、僕があいつを必要としている訳が無いじゃないか! あんな、意地悪で、嫌味で、人を馬鹿にしてばかりで、それから……」
そんな王子の悪態に同意して家具達がカタカタとはしゃぎだし、どっしりとした柱時計までもがぐるぐると針を回すものだから、王子はますます調子づいた。
「そうとも、あんな嫌な奴! 大体、あんな性格だからこんな所で独りぼっちなんだ。それこそ……」
はたとして王子は言葉を切った。ほっそりとした指先で唇を押さえ、ぽつり、小さな呟きをこぼす。
「……独り身、なんだろうか……?」
その疑問に、家具達はだんまりを決め込んだ。
今現在城に一人で暮らしているからと言って、《これまで》もずっと一人きりだとは限らない。見た目は初老の男性に見えるが、相手は何せ魔法使い。何百年と生きていても不思議ではない。
彼がこれまでどのように人生を送って来たのか、王子は何も、何一つ……知らない。
実のところ王子には、この城の中で一ヵ所だけ、引っかかる点があった。
西の廊下の奥にある、白い扉。
素朴な小花と細やかな曲線模様が彫り込まれ、華奢で可愛らしい印象の白い扉だ。愛くるしい花飾りのそれはこの寂れた城において、とても浮いた存在に映った。
王子は城内でさえあれば、どんな場所にも行き来が出来た。外に通じる扉以外は、全てくぐることが許されていた。刃物が置かれている厨房や、魔法使いの寝所ですら、だ。
だのにひとつだけ、一ヵ所だけどうしても鍵が開かずに入れない部屋。それがあの、白い花飾りの部屋だ。
王子はそっと窓枠から降りると、膝の埃を払いのけ、廊下の奥へと進んで行った。
◆◆◆
白い扉は、今日も淑やかに佇んでいた。
ドアノブを回してみるも、勿論ドアはびくともしない。
扉に刻まれた花の彫刻をなぞるように、そっと指を添えてみる。健気にほころぶ小さな野薔薇。この部屋の中には、一体何があるのだろう。今は魔法使いしかいないこの城に、誰が住んでいたというのだろう。このような可憐な扉のその向こうに、一体、誰が――。
と、次の瞬間、王子は高く響く足音に気が付いた。石の廊下をつかつかと広い歩幅で進んでいく気ぜわしげな足音は、間違いなくあの長身の魔法使いのものだ。……それ以前にこの城には、あの魔法使いしか住んでいないが。
「して、サラ。
姿こそ見えないが、廊下の角からしわがれ声が聞こえて来る。それに応えて可愛らしい少年の声が高く響いた。
「ここ数日は、城内の清掃をしているようです。まぁ、構わないかと思って好きにさせているんですけど……っと、」
サラは飛び出した曲がり角で王子の姿に気が付くと、ぴょこぴょこと跳ねるのをぴたりと止め、魔法使いの靴の上に慌てて逃げた。一方の魔法使いはそこに王子が居たことなど当然知っていたという風情で、ぴくりとも表情を変えないままに、黄色い目で王子を見下ろした。
「何をしておる、フヌケ王子」
その声に王子はぱっと顔を上げ、魔法使いの姿を見るなり――意識すまいとすればするほど――白い頬を薔薇色に染めた。
「ご主人様、いばらの魔法って、」
サラの小さな問いかけに、しかし魔法使いは沈黙を以って答えとした。故にサラも口をつぐんだ。
魔法使いはついと一歩前に出て、まごつく王子を問いただした。
「トンマ王子、この部屋に一体何の用があるのだ?」
「掃除を、しようと思ったんだ。けれど、この部屋だけどうしても鍵が開かなくて」
魔法使いから視線を逸らし、しどろもどろに答える王子。その心臓の音が聞こえているかのごとく、魔法使いはくっくっと低く不気味な笑いを洩らした。
「この部屋は特別だ。我輩を除いて、ただ一人しか入る事が出来ない」
ぎくりと王子の心臓がすくむ。
魔法使いのほかに居た、"特別な誰か"。
魔法使いは小さな王子の肩を押し退けると、そっとノブに手をかけた。そのままくるりとそれを回すと、なんたること、頑なに王子を拒んでいた扉は、音もなくすんなりと開いたではないか! そうして開かれた部屋の内部に、王子ははっと息を呑んだ。
「……っ!」
白いレースに春色のカーテン、花を模した柔らかな曲線のランプ。広い鏡台、香水瓶。化粧壷、手鏡、衣装箪笥。荒れ果てた他の部屋とはうってかわってこの部屋だけは、時を止めたように、美しいまま保たれていた。そう、まるで――主の帰りを、待つかのように。
「…………」
扉の前で立ち尽くす王子に、魔法使いはくしゃりと片眉を上げた。
「どうした、ドンクサ王子。何をぼんやりしておる。貴様はこの部屋を掃除するのではなかったのか?」
魔法使いにからかわれても、王子は肩を小さく震わせ、立ち尽くす事しか出来なかった。丸い頬は血の気を失くし、青白く透き通っている。
「……ここは、お前の奥方の部屋、なのか?」
かすれた声で、ただ一言。しかし魔法使いはぴしゃりとそれを否定した。
「ここは我輩のママの部屋だ」
途端にほうっと、王子が深い息をつく。足から力が抜けていく。けれど左胸は、まだ苦しいままだった。
「我輩に妻がいなくて安堵したかね、ハヤトチリ王子」
「っ、誰が! お前が結婚していようがいまいが、僕には関係ないことだ!」
王子は顔を真っ赤にして肩をいからせると、掃除用具を担ぎ直し、ずかずかと部屋へ入っていった。その後姿を見つめながら魔法使いは、声を殺して肩を揺すった。
王子が勢いよく窓を開けると、爽やかな空気が流れ込んだ。長いこと主を失っていた部屋に、幾年ぶりかの風が吹き込む。
思わず深呼吸をする王子の背後に、魔法使いの足音が近付いた。その魔法使いのぼろぼろのローブの裾の周りを、彼に踏まれないよう細心の注意を払いながら、とことことサラが付いて歩く。それから軽やかに柱へ飛び移ると、つつ、と銀の糸を垂らして、王子の耳元へ降りてきた。
「あっ、王子様、掃除するのはいいですけど、僕の糸は切らないでおいてくださいね。こすっからい盗人とか下級の使い魔とか、僕が食い止めているんですから」
侵入者を防ぐというより、脱走者を逃さない為の蜘蛛の巣ではないのか? そう思いはしたものの、王子は黙って頷いた。
王子は窓から身を乗り出すと、眼下に広がる景色を眺めた。西側の窓から外を見るのは初めてだ。王子の部屋の窓から青い山々が連なるのとは異なり、こちらからはなだらかな平地と、点在する農村が見て取れた。
真下を見下ろせば城の中庭も確認でき、石畳の隙間から雑草が生い茂る曲がった小道や、古い造りの城門や、尖った屋根の礼拝堂まで存在するのに気が付いた。
(……礼拝堂?)
「お前達でも神を信じているのか?」
「何を言う、あれは我輩の神殿だ」
思わず王子が尋ねると、魔法使いが事も無げに即答した。サラがぴょこんと棚へと飛んで、主の言葉を補足した。
「ご主人様は近隣の村々から、神竜として崇められているんですよ」
「お前が!?」
驚いて頓狂な声を上げた王子に対し、魔法使いはあくまで淡々とそれに答えた。
「我輩ほど民衆に慕われる者もおるまい。何せ我輩は、民の為にこの偉大な力を発揮するのを惜しまないからな」
その割には礼拝堂も庭も荒れ放題だなと思いはしたものの、賢明な王子はそこには触れずにおいた。
「お前が民の為に働くなんて想像が出来ないんだが」
「何を言う! 政治には積極的に参加しておるぞ」
王子が目を丸くして見上げると、魔法使いは得意げに尖った鼻を天井へ向け、目を細めて枚挙した。
「宰相に呪いをかけたり、大臣に毒を盛ったり」
「あれらはお前の仕業だったのか」
思い当る話に王子は眉間に皺を寄せ肩を落とした。"黒の魔法使い"が何故、あれ程までに王都で忌み嫌われていたのか、王子は深く思い知った。
ふわり微かに空気が動き、王子がはたと顔を上げた時には既に、王子のすぐ隣に魔法使いが立っていた。魔法使いはぼろぼろのマントをたなびかせ、灰色のあごひげを撫で付けている。ちくりといばらが心臓を刺す。肩が触れそうな位置に気配がある、ただそれだけのことに息が詰まりそうになり、頬が温度を上げていく。
王子は魔法使いの顔をまっすぐ見ることなど出来ず、唇を噛んで視線を落とした。風がそよぎ、王子の軽やかな金髪を揺らす。
乾いた風に乗せた冬のにおいが、一層強くなっている。王子が攫われたあの生誕祭から、既に半月以上が過ぎようとしていた。
王子は視線を泳がせたまま、そっと魔法使いに尋ねた。
「オドラデク。どうしてあの日、城を襲った?」
「祝賀会に我輩を招待しないからだ」
その答えに、王子はぽかんと魔法使いを見上げた。
「それだけか?」
「それだけとは何だ! 国中の貴賓の中にこの我輩が含まれないなど、言語道断!」
魔法使いは胸を逸らして鼻を鳴らすと、大きな身振りで腕を組んだ。
「だって"黒の魔法使い"といえば、人間嫌いで有名じゃないか」
「それとこれとは話が別だ! たとえ来て貰えなくとも招待状を出すのが礼儀であろう。東の魔女だの湖の魔女だの、あまつさえ鏡の魔女さえ招待しておいて、この我輩を無視するなど、もっての他!」
ぷりぷりと怒る魔法使いに、けれど王子はぷっと吹き出した。
「何が可笑しい」
「いや。……来年の誕生日は必ず招待するよ。約束する」
と、魔法使いはふふんと鼻でせせら笑い、黄色い目で王子を見下ろした。
「それまでに王城に帰れるとでも思っておるのか、ノンキ王子」
「じゃあ、パーティをやり直そう。サラと、お前と、三人で。それでどうだ?」
王子の言葉に魔法使いは、尖った鼻の付け根に幾重にも皺を作った。長らく続く沈黙に、王子は不安に胸を詰まらせ、おずおずと魔法使いの顔を見た。
その時、突然甲高い声が聞こえ、王子は、そして魔法使いは、声のする方へ顔を向けた。窓辺ではサラが小さな体を弾ませて、銀の糸の端を元気いっぱい引いていた。
「ご主人様ー! 参拝者です、生贄です! 久しぶりのご馳走ですよー!」
嬉しげなサラの不穏な言葉に、王子が眉を顰めたのも致仕方ないことだった。
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