第22話 白い花
月が、丸い月が、高く空に昇っていた。
ロイス王子はぼんやりとそれを見やると、瞬きも忘れてただ、涙が流れるに任せた。
竜が処刑されるとロイスの元へ、国王と皇后が訪れた。彼らは一人息子の無事を喜び、ナーランジュ王子に改めて礼を述べ、件の忌まわしい魔法がロイスから抜け出るのを待った。
けれど愛息子は正気に戻るどころか気がふれたように叫びだし、その小さな体からは想像もつかない力で兵士達を押し退けると、広場へ真っ直ぐ走って行った。そうして彼の後を追った両陛下とナーランジュ王子が見たものは、どす黒い血溜りの中、首の無い竜に縋って号泣する、か細い少年の姿だった。
それでも時が経てば元に戻ると、あの正義感の強い凛々しい王子が帰ってくると、彼らはそう信じていた。しかし真っ赤な陽が落ちても、一番星が光っても、そうしてこのように満月が空を照らしても、ロイスの胸には変わらずいばらが咲き続け、彼の涙が止まる事は無かった。仕方なく彼らはロイス王子を自室で休ませ、自分達は祝賀会へと向かったのだ。
ロイスはふらり、頭を垂れると、そっとその瞼を閉じた。手のひらを握り締めると、毎夜つないでいたあの痩せた指の感触が蘇った。
健やかな寝息。曲がった鼻。落ち窪んだ黄色い眼。長い爪。ごわごわの髪に、ごわごわのあごひげ。繊細で深い味わいの料理。埃まみれの書斎。意地の悪い声。名前を呼んで欲しかった。ロイス、と。いや、名前など呼ばれなくても良かったのだ。マヌケとでもウスノロとでも、好きなだけ好きなように呼んで構わない。ただ、傍にいて欲しかった。
しかしその願いも、今は二度と叶わない。
それを思い知るたびに王子の目からは涙が零れ、一層魔法使いが恋しくなるのだった。
と、ノックの音が響き、扉がゆっくり放たれた。現れたのはナーランジュ王子と、見たことの無い一人の少女。それはロイスと同い年くらいの、小柄で可憐な娘だった。けれどその湖のように澄んだ賢そうな瞳を見れば、それが誰であるのかは一目瞭然だった。
「鏡の魔女……」
「お加減はいかがですか、ロイス王子。いばらの魔法が解けないと伺いましたが?」
二人は静かにロイスの傍へ行くと、不安に瞳を揺るがせてロイスの顔を見た。ロイスは何も言わず、ただぼんやりと自分の手のひらを眺めていた。
魔女は白い手でふんわりロイスの前髪を上げると、その額を覗き込んだ。そうして驚いたようにぱちぱちと、何度も目を瞬かせた。
ナーランジュ王子が心配げに様子を伺う。
「どうなんだ、鏡の魔女。ロイス王子は……」
魔女は困ったように眉を寄せ、きゅっと唇を噛むと、ナーランジュ王子を見つめ返した。
「ナーランジュ王子、大変申し上げづらいのですがロイス王子は、」
しかし魔女の言葉を遮ったのは、ロイス王子本人だった。
「どうして気付かなかったんだろう。最初からいばらの魔法などかけられてはいなかったんだ。僕は僕の心で、あの魔法使いを愛していたんだ……」
魔女も、月も、ナーランジュ王子も、言葉をなくしてロイスをただ見つめた。ロイスももちろん、何も言わなかった。皆が重く苦しい沈黙に包まれた。ただ一人を除いて。
「王子様! 王子様!」
高く可愛らしい声に、ロイスは最初、空耳かと思った。
「王子様! ここですよ王子様!」
しかし次の瞬間その言葉と共に、銀の糸が垂れてきた。そしてその先には、四本腕四本脚の小さな少年!
「サラ……サラじゃないか!」
ロイスは狂喜して両手に彼を受け止めると、サラをぎゅっと胸に抱いた。魔法使いを失ったロイスが今最も会いたかったのは、他ならないこの小さな友達だったのだ。
ロイスは涙を零して再会を喜んでいたが、ふと我に返りサラを見つめた。
「えっ、でも、どうして? オドラデクの魔法が解けて、蜘蛛に戻ったんじゃ、」
「そんなヤワな魔法なぞこの我輩がかけると思うかね、トンマ王子」
ナーランジュ王子が、鏡の魔女が、そしてロイスが振り返った窓の外、テラスの手すりのその上に、確かに彼はいた、そこに立っていた。魔法使いは漆黒の翼をばさりとたたむと、痩せた指で尖ったあごひげを撫で付けた。
「おやおやお揃いで、皆々様。ごきげん麗しゅうオイボレ魔女、マケイヌ王子、……ロイス」
言葉など出なかった。ただただその胸にいばらが咲き誇り、溢れ返る花びらに喉が詰まって、ロイス王子は魔法使いに駆け寄ると、その痩せた首に抱きついた。魔法使いはずり落ちかけた自らのあごを両手で支えて位置を正すと、王子の首根っこを摘み上げて彼を引き剥がした。
「あまりしがみつくな、マヌケ王子。まだ首がくっついたばかりで据わりが悪いのだ」
「どうして生きて!? だってお前は確かに……そうか、心臓が!」
「ああ、てっきり我輩の胸に収まっているものと思っておったが、別の場所にあったようだ」
魔法使いのとぼけた答えに、ロイス王子はぱちりと目を見開いた。
「お前自身も知らなかったのか? 一体、どこに……」
「恐らく、ここだ」
そう言うと魔法使いは長い爪で、トンと王子の左胸を突いた。王子はただきょとんとして、自らの胸を両手で包んだ。
「……え……?」
「他に心当りが無い。我輩の
いばらが。
その棘が。
蔦が、葉が、花びらが。
こんなにもこんなにも美しいなど、いったい誰が思っただろう。
「さ、王子様、帰りましょう。僕、今日はくたびれちゃった」
ぴょこりと肩にサラが乗って、王子は目を細めて笑うと、首を傾げてサラに頬擦りした。魔法使いの髪の間からねじれた二本の角が覗き、腕が鱗に包まれる。そうして翼を広げると竜は、その首を低くかがめ、ロイス王子をぎょろりと見つめた。
「さぁ、早く乗れウスノロ王子。ぐずぐずするな」
ロイスはおろおろと、目の前の竜と蜘蛛、背後の魔女と王子とを交互に見た。
鏡の魔女はふわり微笑むと、白い手を目の高さまで掲げ、銀に輝く指輪を何度か擦った。
「これから百数える間だけ満月を隠し、この城の人々を眠らせましょう。その間にお行きなさい、ロイス王子」
ロイスはうろたえてナーランジュ王子の顔を見た。ナーランジュ王子はふっと笑うと、ゆるやかにかぶりを振った。
「そこな魔法使いの心臓を止めるには、ロイス王子、貴方を殺めなければならない。つまり魔法使いは、この国で最も安全な場所に心臓を隠したという事です」
「ナーランジュ王子……僕は」
けれどナーランジュ王子は笑みを浮かべ、その右手を差し出した。
「国王陛下と皇后陛下は、王子がいなくなったことを悲しむかもしれない。けれど父と母は、息子が愛を知ったことを、きっとお喜びくださるでしょう」
その言葉にロイスは、ただ黙って頷いた。そうしてナーランジュ王子と固い握手を交わし、名残惜しそうにその手を離した。
「行くぞ、オトボケ王子! せいぜい振り落とされぬよう気をつけることだな」
ばさり、大きな羽音と共に、竜の巨体が夜空に浮かぶ。黒い雲に黒い姿が重なり溶けて、けれどナーランジュ王子と鏡の魔女は、いつまでもいつまでも、その姿を見送っていた。
高く雲の上を飛びながら、王子は最後の涙を拭った。風に飛んだ涙の粒が、光って星に紛れて消える。垂れこめた黒い雲の上では深く澄んだ藍が広がり、満月が白く輝いていた。夜風に白い息を吐いて王子は、きゅっと竜の首にしがみつくと、その耳元で囁いた。
「オドラデク、僕には見える。おまえの胸にも咲いている。それは真っ白な花だ、星よりも月よりも
「小癪な、この我輩に魔法をかける気か?」
王子はくすくすと笑うと、黒く冷たい鱗にぴたり頬を寄せた。目を凝らせば暗い森の向こう、魔法使いの古城が見えた。
満月を覆った黒い雲は、百を過ぎても晴れなかった。それどころか雲は一層厚くなり、ついにはちらちらと、雪まで舞い降り出していた。ナーランジュ王子はそっと手のひらを差し出すと、そのひとひらを受け止めた。雪は熱に触れてすぐに消えたが、ナーランジュ王子はこう、思った。
ああ、まるで花びらのようだ、と。
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