第19話 竜の約束
さて、ふた月も生活すれば、さしもの王子にもこの城の勝手が掴めてきた。例えば時計が気まぐれであるとか、絨毯は気位が高いとか、食器達は自己主張が強いとか、そういう事である。食事のたびに、常にサラが様々な食器を満遍なく活躍させているのにも、こういう理由があってのことだったのだ。誰もが心得ていることではあるが、彼らの機嫌を損ねるのは、あまり賢いやり方ではない。
それらを踏まえた上で王子は、その朝、まだ日が昇らぬうちに、西の扉を訪れた。この扉は城の中で最も古く、故に情にもろい事に、王子は気が付いていたのだ。
「扉よ扉。お願いだ、僕を通しておくれ」
そっと飾り金具を撫でながら囁くが、扉はやはり鍵がかかったままだった。けれど王子は辛抱強く、この古びた扉に語り続けた。
「扉よ、賢い樫の木よ。今夜はついに満月だ。きっと、ナーランジュ王子はここに来る。もちろん、魔法使いを倒して僕を取り返すためにだ」
王子の声は震えていた。樫の扉は重く沈黙を守っている。
「だからその前に僕は、帰らなければ……この城を去らなければならない。あの二人の戦いを回避するには、それしかないんだ」
この決断はもちろん王子自身が下したものだ、それは月が円く膨らむのと同じ速さで王子の胸を占めていった強い決意だ。だからこそ王子は、満月までの日々を、今までと変わらぬように過ごしてきたのだ。蜘蛛と共に城の清掃に勤しみ、魔法使いと共に読書をし、魔法使いの手料理を食べ、手を握って魔法使いを寝かしつけ。もう二度と訪れないであろう日々を、二度と咲かないであろういばらの花を、その胸に静かに深く刻みつけるために。
いばらの棘は今までの比ではなく王子の心臓をきりきりと締め上げ、まるでその花に逆らう王子を責めているかのようだった。王子は俯くと、その額を冷たい扉に押し当てた。
「……頼む、扉よ! 早く開いてくれ! オドラデクが目を覚ます前に、僕の心が裂ける前に!」
本当は心のどこかで、鍵など開かなければ良いと、王子はそう願っていたのかもしれない。しかし扉は小さな音を長い廊下に響かせると、ゆっくり、僅かな隙間を開けた。
「……ありがとう……」
王子は扉に心からの謝辞を述べると、そっと扉を押し開けた。
朝もやに包まれた裏庭を、王子は静かに歩き出した。
再び逢うことは無いであろう魔法使いの姿を思い返す。その目を、長い指を、意地の悪い声を。ああ、許されることなら、いばらの命ずるまま、花の咲くままにいられたのなら!
靴音を響かせ真っ直ぐ進む王子の足が、しかし城門の前で止まった。そこに、彼の姿を見たからだ。
「どこへ行く気だ、ボンクラ王子」
白い朝もやの中、魔法使いの黒い姿は不気味なほどくっきり浮かび上がり、まさにそれは王子が幼い頃から聞かされていた「忌まわしい黒の魔法使い」そのものであったが、王子は恐れとは全く反対の気持ちで、すっかり泣きたくなっていた。
「オドラデク……」
「この我輩から逃げられるとでも思ったか、アサハカ王子。さぁ、早く部屋へ戻れ」
しかし王子は更に足を進めると、立ちはだかる魔法使いを真っ直ぐ見上げた。
「そこを退いてくれ、オドラデク。僕は帰らなければならない」
一歩踏み出した王子の肩を、魔法使いの左腕が押し留める。長い爪が食い込んだが、王子は肩よりもその胸に痛みを感じていた。しばらくそうして対峙していたが、先に折れたのは案の定、王子の方だった。
「……今日、ナーランジュ王子がここへ来る。わかるだろう?オドラデク。人は、過ちを繰り返さない。あのナーランジュ王子が、何の策も無く再び戦いを挑むとは思えない」
「これは滑稽! この世間知らずの王子は、我輩が、あの気障な気取り屋に負けると思っているらしい!」
「そうは思わない! 思わないから怖いんじゃないか。もうあの方に、あんな怪我をさせるわけにはいかない……!」
思わず王子が声を荒げると、魔法使いはにやにやと、意地の悪い笑みを浮かべて王子を見下ろした。
「ふん、そんなにあのナーランジュが大切か」
「お前以上に大切なものなどあるものか!!」
ついに王子の目から大きな涙が溢れ出した。王子は魔法使いを睨み上げると、こぶしをきつく握り締めて肩を震わせた。
「全てはいばらの魔法のせいだ! お前の元を離れるのが、こんなにも苦しくなるなんて! ナーランジュ王子の敗退を、密かに願ってしまうなんて! お前が僕を、ずっとずっとこの城に縛ってくれたら、どんなに幸せだろうかなんて……」
ぽろぽろとこぼれる涙を拭いもせず、王子はただ、魔法使いを見た。
魔法使いは少しばかり考え込み、長い爪でくるくると宙に円を描くと、王子の小さな鼻の頭をつんと突付いた。
「つまりこうだ、我輩があのオスマシ王子を傷つけることなく戦いに勝てば良いのだな?」
その言葉に王子はきょとんと、魔法使いの黄色い眼を見つめ返した。
「できるのか?」
「我輩は約束は守る男だ」
そう言って魔法使いはばさりとマントを翻し、誇らしげに顎を逸らした。たまらず王子はその胸に飛び込むと、ぼろぼろのマントにしがみついた。しゃくりあげながら王子は、けれどもやっとのことで、ひきつる喉から言葉を出した。
「お前がかけた魔法だ。お前が植え付けたいばらだ。けれど花を咲かせたのは僕だ、僕のいばらだ。そうだろう? オドラデク……」
魔法使いはそれには何も答えなかった。
けれどその朝の食事は、かぼちゃのスープも、楓糖の練りこまれたパンも、バターがたっぷり染み込んだ焼き林檎も、すべてが王子の好物ばかりで、王子はその胸のいばらを、少しくすぐったく感じる事となった。
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