第18話 半月
洗った衣服をばさり広げて、王子は可愛らしい顔をくしゃりと歪めた。
見上げたのは青い空。雲の狭間に浮かぶ、白い半月。
『次の満月までには再び剣が持てるという事です』
「……サラは、誰かを好きになったことがある?」
尋ねられて蜘蛛少年はくるりと王子を振り返り、声を立てて大きく笑った。
「ありませんよぅ、そんな怖い事! 僕だってまだ死にたくありませんからね!」
少しばかりも甘くない返答に、王子はぽかんとサラを見た。木陰の下、サラは四本の腕でひょいひょい器用にレースを編んでいたが、王子があんまり見つめるので、その手を休めて王子を見上げた。
「僕ら蜘蛛はうっかりすると、交尾の前に雌に食べられちゃいますからねー」
「そんなんで、えっと、一体どうするんだい?」
「こっそり背後から近寄るとか、手早く相手を糸で巻いちゃうとか」
王子は感嘆の息を吐くと、尊敬の眼差しをサラに向けた。それに気付いてサラが誇らしげに胸を張る。
「へぇえ、そうか。お前達は大変なんだな。恋をするのも命懸けか」
「その点は人間だって一緒でしょ?」
言われて王子は目を丸くした。
「違います?」
王子はしばらく考えて、考えて、考えて、それでも何も答えられず、ふっと笑って洗濯物をぎゅっと絞った。
「わからないんだ。僕は、恋をしたことが無いから」
お妃候補と囁かれる姫君は何名かいた。しかし、王子の成人の儀は来年のこと。婚儀など、まだまだ先の話だと思っていた。
「でも王子様、いばらの魔法にかかってるんでしょ?」
途端に王子がぱあっと頬を染め上げる。
「こ、れは違うだろう!? だって、これは魔法、なんだから」
途切れ途切れにそう言うと王子は、ばさばさと洗いたてのシャツを風に広げた。いばらが王子を笑うかのように、胸で赤い花を揺らす。そしてそれと同じように、サラまでもがくすくすと笑い、そうしてくるくる糸を縒ると、再びレース編みにいそしんだ。
◆◆◆
『気付いていないとは言わせません、ロイス王子。私は貴方を愛しているのです』
ナーランジュ王子の告白が、何度も何度も胸を叩く。けれどその度に、王子が呪文のように呟くのはただひとつ、魔法使いの名前だった。
王子は読みかけの本を閉じると、思い切って立ち上がった。どちらにせよ、先程からこの本は1ページも読み進めることなど出来ていないのだ。
魔法使いの書斎に辿り着くと王子は、ノックもなくその扉を開けた。そんな不敬な行為にも魔法使いは、僅かに眉を上げただけだった。
「何か用かね、ブシツケ王子。眠るにはいささか早いが?」
王子は後ろ手に扉を閉じると、睨みつけるようにして魔法使いの顔を見た。そうして苦々しげに呟いた。
「……僕を抱け、オドラデク」
しかし魔法使いは今度は片眉すら動かさなかった。
「お言葉だがイロボケ王子、生憎我輩は男に興味は無い。乙女、そう、それもできれば黒髪の少女が望ましい。黒はとても色気のある色だからな」
「ふざけるな、オドラデク!」
たまらず王子は叫び出した。握り締めたこぶしが震える。
「僕は……どうしたらいいんだ。お前のことで頭がいっぱいなんだ。胸がいばらで刺されて痛いんだ。お前の魔法だろう? お前が何とかしてくれ、オドラデク……!」
「さて、ご要望に応えてキスのひとつでもしてやっても良いが、しかし王子よ、貴様はそれによって一層苦しむことになるぞ?」
古びた巻物を眺めながら、魔法使いがあごひげを撫でつける。王子は黙って上目遣いで、魔法使いの言葉を待った。
「何故なら貴様が欲しいのはキスではない、ましてや我輩の体でもない。我輩の心だからだ。そうだろう? ロイス」
ロイス。名前を呼ばれるとそれだけで体がびくんと硬直した。ぽろり、ぽろり。王子の白い頬に涙の粒がこぼれて落ちる。
「オドラデク……助けてくれ。僕のいばらは、どうすれば枯れてくれる?」
「魔法を解く方法はひとつ。魔法をかけた張本人を葬ることだ」
「できる……わけがない。僕がお前を、傷つけるなんて、できる訳ないじゃないか……!」
やれやれというように肩をすくめると、魔法使いは巻物を書物の山の上に置き、つかと王子に歩み寄った。泣きじゃくる王子の頬に、魔法使いの長い指が添えられる。魔法使いの唇が、王子の額に軽く触れる。
「おやすみ、ロイス。いい夢を」
「眠れるわけが無い!」
「ならば眠るまで、我輩が手を握っていてやろう。それでいいな?」
王子は魔法使いの目を見つめるとしばし逡巡し、けれどそのささやかな幸福に、首を縦に振るしかなかった。
さて、ここで一つ問題があった。すなわち、王子が眠るまでの間魔法使いが手を握るなら、魔法使いが眠るまでの間は誰が彼の手を握るかという事だ。
「眠れるわけが無いだろう」
王子がぼやくのも無理からぬ事だった。結局その晩魔法使いは、王子と同じベッドにもぐり込んだのだから。断ろうと思えば出来たかもしれない、けれど。
「……あと、七日……」
心地良さそうな寝息を立てる魔法使いの傍らで、王子は満月までの日数を数えた。
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