第16話 鏡の魔法
あの銀の蝶が飛び出して以来、王子はティーポットを開けていなかった。父や母を慕う以上に、魔法使いへの後ろめたさの方が勝ってしまったからだ。だからその朝、王子の着替えの袖に引っかかってカチンとポットの蓋が開いたのは、全くの偶然だった。
「あ」
思わず洩れた声と同時に、ポットから一羽の蝶がひらり、舞った。銀の羽、銀の鱗粉。その蝶はひらひらゆらゆら飛び回ると、ふわり、鏡に吸い込まれた。
「っ!」
驚いた王子が息を呑んだのと同時に、鏡が水面のように揺れた。やがてそれは形を成し、そうして、
『……ロイス王子……』
ナーランジュ王子を映し出した時、ロイス王子は心臓が止まってしまうかとさえ思った。
◆◆◆
『ロイス王子、ご無事でしたか』
「……ナーランジュ王子こそ。お怪我は。お加減は宜しいのですか?」
震える声でロイスが問うと、ナーランジュ王子は哀しげに淡く微笑んだ。
『貴方を失った胸の痛みとは比べようもありません』
それを聞いたロイスの胸も痛んだが、それにはいばらの花の甘い香りは伴わなかった。
「僕のために、そんな大怪我をされて……なんとお詫びを申し上げたらよいか」
『詫びるのは私の方です!』
突然の強い口調に、ロイスはびくりと震えた。
『私は貴方を救えなかった。あの魔法使いと対峙していながら、何も……!』
そう言うとナーランジュ王子は苦しげに眉根を寄せ、小刻みに肩を振るわせた。ロイスは慌てて鏡に駆け寄ると、触れられるかどうかわからないまま、鏡に映るナーランジュ王子の肩に手を添えた。彼の両手は、そして両足は、今だ包帯に包まれている。
「申し訳ありません、ナーランジュ王子……全ては僕の責任です」
ナーランジュ王子はそっと腕を上げると、鏡越し、ロイスの手に触れた。
『ロイス王子。貴方を救いたいと思ったのは私の心が命じたもの。それ以上の何もありません』
きっぱりとした言葉に、ロイスが目を見開く。
「ナーランジュ王子……?」
『気付いていないとは言わせません、ロイス王子。私は貴方を愛しているのです』
ロイスの瞳が揺れた。ナーランジュ王子の指が銀の鏡を辿り、ロイスの髪に触れる。
『ロイス王子……』
ロイスははっとして身を引くと、頬を薔薇の色に染めて、その視線を斜めに落した。ナーランジュ王子はほのかに顔を赤らめて、困ったように苦笑した。
『ご心配をおかけしましたね、ロイス王子。ですがこれでも、鏡の魔女の癒しの魔法で、随分と良くなったのですよ。次の満月までには再び剣が持てるという事です。ですから王子、どうぞそれまでお気を強く持って、今しばらくご辛抱ください』
「え?」
ロイスが顔を上げるとナーランジュ王子は、きらきらとした強い瞳でロイスを真っ直ぐ捉えた。
『必ず貴方をお救いします。待っていてください、ロイス王子』
その言葉を残してナーランジュ王子の姿は、銀のさざなみと共に鏡に消えた。ロイスはただ呆然と、その場に立ち尽くすのみだった。
◆◆◆
その晩ロイス王子は、いつものようにベッドの脇で魔法使いの手を握り締めながら、ふっと大きな窓を見上げた。ひび割れたガラスの向こうには、零れ落ちそうな星々と、細く弓なりに反った三日月。
『次の満月までには再び剣が持てるという事です』
ナーランジュ王子の言葉が思い返され、ロイス王子はぎゅっと両目をつぶると、首を左右にふるふる振った。それからゆっくり瞼を開けると、すうすう寝息を立てる魔法使いをふっと見やった。
ひしゃげた眉毛、尖った鼻。ごわごわの髪、つんと反り返ったあごひげ。美しさなんてどこにもない、なのに何故この魔法使いに、こんなにも胸が痛むのか。
わかっている。これがいばらの魔法なのだ。
王子はそっと魔法使いに顔を寄せると、引き寄せられるようにその唇を重ねた。
それは、ほんの一瞬ではあったが。
王子ははっとして身を起こすと、耳まで顔を赤くした。そして慌てて席を立ったが、その場から逃げることはかなわなかった。魔法使いが、その手を強く握り締めたからだ。
「っ!」
「話が違うぞ、コシヌケ王子。我輩が眠るまで手を握っている約束だ」
魔法使いはベッドに横たわり目を閉じたまま、いつもの調子でそう言った。王子は羞恥で真っ赤になり、淡く涙ぐみながら、もう消えてしまいたいと思った。強く手を引くが、魔法使いは決してそれを離そうとはしなかった。
「……オドラデク……お願いだから……」
王子がふるふると首を振る。さらさらの金髪もまた揺れる。胸のいばらは大きく育ち、王子の心だけでなく、彼の頭からつま先まで、体全てを支配していた。けれど王子は痛みよりも、泣きたくなるほど温かいものを、その胸に感じていた。
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