第14話 赤い花

 高い塔の上に、ひらりと舞い降りた長身の男。黒く広がるのはぼろぼろのマントか、それとも悪魔の翼か。ナーランジュ王子は手綱を引くと、塔の上の魔法使いを真っ直ぐ見上げた。


「忌まわしき魔法使いよ! よくも喜ばしい日に王国に災いを運んでくれたな。さぁ、ロイス王子を返せ!」


 全てを跳ね返す強い意志を表すように、陽射しに漆黒の髪が輝く。きりりとした眉に迷いはなく、澄んだ瞳は怯えることなく一直線に魔法使いを捉えている。

 ナーランジュ王子の堂々とした言葉に、しかし魔法使いはにやにやと、気味の悪い笑みを浮かべるだけだった。


「鏡の魔女め、どうせ差し向けるならもっと面白いモノを送ればいいものを」


 ナーランジュ王子は剣を抜くと、その切っ先を魔法使いへすっと向けた。


「ロイス王子を返せ。さもなくば私がこの剣で、貴様を成敗してくれる!」

「おお恐ろしい! 恐ろしい恐ろしい!」


 魔法使いは大げさに身を捩ると、さも可笑しそうにくっくっと笑った。


「全く恐ろしいものだな、ナーランジュ。身の程を知らぬということは!」


 魔法使いの双肩が盛り上がり、黒い翼が現れた。頭にはねじれた角がめきめきと生え、痩せた腕は太く醜く膨れ上がり、口からは牙が鋭く覗く。ロイス王子はたまらずに、モップを投げ捨て駆け出した。


 階段を駆け下り、廊下を走り、石の回廊に靴音が響く。息が切れ、喉が焼けたが、それでも王子は走り続けた。幼い頃からずっと親切にしてくれた、まるで兄のような存在。誰よりも優しく、美しく、眩しいまでに真っ直ぐなナーランジュ王子。その大切な人が自分の為に戦うなど!


 庭園に出る扉にはやはり魔法がかかっており、王子が手をかけるとガチリと鍵の音がした。王子は何度も扉を叩き、その体をぶつけてみたが、もちろんびくともしなかった。考えるな、考えるなと自分に言い聞かせ続けるものの、怖い考えは暗雲の様に王子の胸を覆っていく。ナーランジュ王子が殺されるのか? それとも、退治されるのは、あの――。


 汗が滲んで手のひらが滑る。扉の向こうでは蹄の音と、不気味な羽音が聞こえている!


「……開け……」


 震える声で、低く呟く。きつく結んだ拳を当てて、扉に額を押し付ける。


「開け、扉よ……この僕を誰だと思っている。見えないか、わからないか! 僕の胸に絡むいばらが!」


 大きな音をたて、弾けるように扉が開いた。突然注いだ冬の日差しが余りに白くて目が眩む。王子は感じた。ああ、まさにこの胸に、真っ赤な花が咲いたのだ!


「オドラデク!」


 口をついて出たのは、敬愛する王子の名前ではなかった。黒い影がよぎり思わず空を見上げれば、一頭の黒竜が舞っていた。


「ロイス王子! ご無事か!」


 遠くからナーランジュ王子の声が響く。ナーランジュ王子の剣の腕は確かだ、それはロイス王子もよく知っている。彼が魔法使いに勝てば、自分は晴れて王城へ帰れる。知っている、わかっている!


「オドラデク!」


 それなのに喉から出るのは魔法使いの名前ばかりで。


「ロイス王子、手を!」


 白馬が駆け寄り、ナーランジュ王子が腕を伸ばす。その腕に飛び込めば帰れる。そう思っていてもロイス王子は、指一本動かせなかった。足が竦む。馬が近づく。ナーランジュ王子の手がロイス王子の腰を抱こうとしたその瞬間、ロイス王子は目を閉じた。


 と、ふわり、体が浮いた。


 ロイス王子は恐々と、しかし心のどこかで期待を込めて、そうっと瞼を開いてみた。彼を支えている腕はナーランジュ王子のそれではなく、黒光りする鱗に覆われた、冷たい竜の脚だった。


「オドラデク……」

「忘れるな、ボンクラ王子。貴様は我輩のものだ」


 駄目だ。王子はそう思った。

 王子の胸にはいばらが根付き、それは心臓に絡みつき、ちくりちくりと王子を苛む。けれどその痛みは甘くて幸せで、王子は唇を噛んで涙をこらえると、竜の脚にぎゅうとしがみついた。


「……見えるか、オドラデク。僕のいばらは咲いてしまった」

「ああ、朝焼けのような真紅だ」


 ばさり、漆黒の翼が羽ばたいて、竜は、そしてロイス王子は、屋根よりも塔よりも、高く高く浮かび上がった。

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