第13話 白馬の王子
今日もまた王子は、目が覚めると朝一番にティーポットに手を伸ばした。会えずとも愛しい家族の姿を遠く眺めることは、既に日課となっていた。と、蓋を開けた途端、中から勢い良く無数の羽が飛び出した。
「っ!?」
それは小さな蝶だった。丸い銀の羽をはためかせ、何十羽という蝶達が夕立のような羽音を立てて、溢れるようにポットから飛び立ったのだ。
「なっ、何だ!?」
蝶達は散り散りに飛び去ると、どこへともなく姿を消した。王子はそれをぽかんと見送り、それから手にしたティーポットを見た。中を覗き込むと広間では、どこか見覚えのある美しい女性が、にこり、こちらを見上げていた。
◆◆◆
朝食の為に食堂へ降りると、そこには既に魔法使いがいた。
「おはよう、オドラデク」
しかし魔法使いは挨拶を返さず、腰を低く屈めたまま、その尖った鼻をふんふんと鳴らした。
「オドラデク?」
魔法使いはふんふん、ふんふん、何かを嗅ぎ分けようと鼻を鳴らし続けた。そうして食堂の中をぐるぐる回り、それから王子の周りをうろつき、ついには王子のさらさらの金髪に鼻を押し当てふんふんと嗅いだりするものだから、間近に魔法使いの顔が迫り、王子のいばらがまた伸びた。
「オ、オドラデク……」
「匂う、匂うぞ。どこからだ。何の匂いだ」
耳元で囁かれ、耳より胸がくすぐったくて、王子はきゅうっと目を閉じた。
「おはようございます王子様ー。すぐに朝食をご用意いたしますからね」
どこから現れたものか元気良くサラが飛び跳ねて、魔法使いはぱっと王子からその身を離した。王子はようやく深い息をつくと、左胸を押さえて魔法使いから目を逸らした。
「王子様、期待しててくださいね。今日のパンはイチヂクのジャムを……ってうわぁ、ご主人様!?」
突然むんずと掴まれて、サラはじたばた魔法使いの手の中でもがいた。魔法使いは鼻先までサラを掴み上げると、ふんふんと彼の匂いを嗅いだ。
「……サラ。今朝は何を食べた?」
サラはぷらんと首根っこを掴まれたまま、視線を宙に漂わせ、思い返して指を折った。
「えーと、トンボを二匹と、蝶が一匹です」
「蝶! どんな蝶だね、それは」
「銀の羽の、ちっちゃな蝶で……うげ」
魔法使いがぎゅうぎゅうとサラを締め上げたので、王子は慌てて止めに入った。王子がサラを引っ手繰ると、サラは王子の手の平でげほげほと咳き込んだ。
「何をする、オドラデク!」
王子の叱責を無視して魔法使いは、ぺちんと自らの額を叩いた。
「ああ、なんたる間抜けな召使いよ! サラ、貴様の喰らったのは鏡の魔女の眷属だ。鏡の魔女、ああ、なんと呪わしい女よ! この城の場所を、よりにもよってあの女に知られるとは。何故だ、何故嗅ぎつけられた!」
王子の胸を、ぞくりとしたものが走った。
先日、ポットから母に宛てた手紙。
あの蝶。
そしてポットの中の美女。
そうして王子は思い出した。彼女こそが鏡の魔女だ。隣国の宮廷魔術師だ。ポットの中で彼女は笑った。確かに、彼女は笑ったのだ。
食事を終えると王子は、手桶を持って地下室へと降りた。厨房の下にあるここでしか、王子は水を汲めないのだ。両手に重たい桶を持ち、よたよたとした足取りで石段を登りながら、回廊に据えられた扉や窓をちらりと見上げると、王子はさも残念そうに呟いて見せた。
「ああ、庭に出ることが出来たらなぁ。あの大きな井戸を使うことが出来たのなら、こんな思いをしなくて済むのに。それに、石畳を押し上げる勢いで伸びているあの雑草だって取り去ることが出来るし、苔むした噴水だって再び磨き上げられるのに。扉も窓も開かないとなると、僕にはどうにも出来ないな」
これには古びた扉も歪んだ窓もすっかり困ってしまったようで、もじもじとして小さく軋んだ。王子はくすりと肩を揺らすと、水がいっぱいに入った手桶を持ち上げ直した。
「はは、わかってるよ、冗談だ。意地悪言ってすまなかった。お前達だってあの魔法使いに、決して僕を外に出さないよう命じられているんだろう?」
錆びた閂が、申し訳なさそうにゴトリと揺れた。王子は苦笑して首を左右に振ると、再び石段を登り出した。
広間に出ると王子は、あふれそうな水をこぼさぬように慎重に桶を床に置き、絹のシャツの袖をまくった。王子がぴかぴかにしてやった窓は冬の貴重な日差しを出来うる限り王子に注いでやっており、彼の蜂蜜色の髪をひときわ眩しく輝かせた。その王子を見つけるなり、サラが慌てて飛び出した。
「王子様、また床磨きですか!? ほどほどにしてくださいね、掃除なら僕がやりますから!」
「その結果が、この荒れ果てた城だろう? いいんだ、どうせやる事もないし。体を動かしていたほうが気が紛れる」
それに、城内の様子をもっと詳しく調べておけば、この城から逃げ出す方法も見つかるかもしれない。そんな事を考えながら、王子はモップを水に浸した。
「駄目ですよぅ王子様! 僕がご主人様に叱られます!」
「オドラデクが? どうして?」
尋ねるとサラはぴょんと王子の肩に乗り、四本の足をぶらぶらさせた。
「王子様の手ががさがさになったら、ご主人様は悲しみます」
その言葉に、王子はぱあっと頬を染めた。
毎夜、魔法使いが眠るまでの間、王子が彼と手をつなぐ。それがこの城で王子に与えられた、唯一の仕事だったからだ。
ちくり。いばらがまた伸びた。
甘い痛みが刺さると同時に、王子の胸に不安が広がる。
いばらの魔法は、既に王子を蝕んでいる。その蔦は心臓に絡み根は深くまで張り巡ろうと足を延ばし棘は弱い場所を刺す。花が咲くと魔法使いはそう言った。今でさえこんなにも王子を惑わせているというのに、もしも魔法が成就して、花が咲いてしまったとしたら、一体どうなってしまうのだろう。
王子は握り拳を固くして左胸を押さえると、ぷるぷるっと首を振った。そうしてサラに笑いかけた。
「手には椿の油を塗るよ。あいつの母君のような、優しい手にしておく。それでいいだろう?」
その答えにサラはにこりと頷き、けれど次の瞬間、はっと表情を固くした。
「? サラ?」
王子の問いかけにも答えずサラは、糸を伝ってひょいひょいと窓際へ跳び、その小さな身を乗り出した。王子もその後に続くと窓から顔を出し、サラの視線の先――正しくは、サラの手繰る銀の糸が、窓を超え、尖塔を伝い、塀の上を過ぎ、更にきらきらと続くその先を追った。
「……あれは……」
遠く見える人影に、王子は小さく息を呑んだ。
城門をくぐる一頭の白馬。たなびく真紅のマント。黒髪を揺らし駆けて来るその人物は。
「ナーランジュ王子……」
王子が呟いたと同時に、空に黒い影が飛んだ。
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