第5話 魔法のポット

 あごの高さで切り揃えられた髪が、淡い日差しを受けて柔らかく輝く。王子は少しだけ跳ねた前髪を指先で整えると、鏡に映った自らの姿に、満足げに頷いた。


 大きな姿見を磨き終え、ようやく王子は、この部屋の全ての清掃を終えたのだ。

 相変わらず薄暗く陰気ではあったが、埃は払われ、曇りは磨かれ、連れ込まれた当日に比べれば随分居心地のいいものへと変わっていた。


 埃の舞う空気を入れ替えようと、王子は窓に手を掛けて、けれどもはたと動きを止めた。

 外へ繋がるあらゆる扉は、王子の行き来を許していない。それは窓とて同じこと。

 初日に散々阻まれた王子は、この日も当然開かぬと決めつけ、開いてみようとしていなかった。


「……なぁ、窓よ。僕に少しだけお前を開けさせてくれまいか。風を入れたいし、それに何より、このままではお前を内側からしか磨けない」


 王子が言い終わるか終わらないかのうち、金属音が――カチン!という、窓の錠が外れる高い音が響いた。びっくりして王子の肩が小さく弾む。

 半ば疑いつつも王子は、そっと窓枠を押してみた。すると王子の不安とは裏腹に、大きな窓はいとも簡単に外側へと開いた。王子は驚きに目を見開いて、窓から大きく身を乗り出した。が、窓が開錠してくれた理由を、すぐさまその目で知ることとなった。


 窓の外は、青空だった。


 王子の幽閉されている部屋は、城の高い位置にあった。

 窓の外には手すりもバルコニーも無く、ただただ平らな壁があるだけ。

 見下ろせば遥か下方にようやく森の木々が見え、それまではひたすらに石壁が続くばかりで、掴めるような窪みも足を掛けられそうな樋も無い。


「成程、逃がすつもりはない、か」


 誰にともなく苦笑して、王子は緩くかぶりを振った。それでもまだ、開けることを許してくれただけでも、この窓に感謝した。


 王子は改めて窓を大きく開放すると、広がる青空を抱き締めるように両手を広げ、ひんやりとした北風を胸いっぱいに吸い込んだ。冬の匂いが体中を爽やかに駆け巡り、王子はゆっくりと目を閉じた。

 遠く、ツグミの鳴き声が聞こえる。ゆっくりと瞼を上げて、眼下に広がる森を眺める。古城を囲むように茂る森の木々は冬尚青く、小鳥が飛び交う様子が見える。その向こうには小さな湖が陽射しを弾いてきらきらと輝いており、岸辺を超えるとなだらかな山々が連なっていた。

 さらさらとした髪を風に弄ばれながら、王子は窓枠に手をついて、ぽつり、小さく呟いた。


「こんなに良い城なのに、こんなに粗末に扱うなんて、お前達の主人はなんと勿体ないことをするのだろう。なぁ?」


 布巾を手に取り、窓の外側を磨いてやりつつ語り掛けると、まるで返事をするかのように、古びた蝶番がキィキィ軋んだ。


「サラ。サラはいないか?」

「はいはい王子様。お呼びですか?」


 王子の呼び声に応えて天井から絹のような糸がつつと垂れ下がり、それを伝って蜘蛛少年が降りてきた。王子は捲くっていたシャツの袖を正しながら、蜘蛛にひとつ、お願い事をした。


「ねぇサラ、僕に着替えをくれないかな」


 駄目元で口にした依頼だったが、サラはにこりと頷いた。


「はいはい、かしこまりました。僕もそろそろ、王子様の私物を取りに行かなくちゃって思ってたんですよねー」


 あっけらかんとしたサラの答えに、王子は若草色の瞳を見開いた。

 何か着替えが貰えさえすればそれで良かったのだが、まさか、王子自身の服を取りに行くと?


 サラはひょいひょいと飛び跳ねてテーブルを移動し、自分の背丈の倍はあるティーポットの蓋を開けた。そして何の躊躇もなく、そこに頭から飛び込んだ。

 王子は驚いてサイドテーブルに駆け寄ると、サラの潜った銀の食器を覗き込んだ。が、そこに蜘蛛の姿はなく、代わりに想像もしなかった景色が広がっていた。


「なんだ……これは……」


 ポットの底、くるりと丸い銀の穴から見えたのは、ロイス王子の生まれ育った、かの王城の広間だった。






「おい、魔法使い! どういう事だ、これは!」


 魔法使いが振り向くや否や、王子はティーポットをその尖った鼻先に突きつけた。


「何の話だね、モノグサ王子」


 王子は頬を怒りで染めると、ポットの蓋をカチンと開いた。中に広がる王城の景色。そこにはあの日、石に変えられた招待客達が、そのままの姿で凝固していた。


「僕をここに連れて来たなら、もう彼らを石にしている必要は無いだろう! 早く元の姿にお戻ししろ!」

「――この我輩に命令かね、ロイス。ああ、ロイス、ロイス、ロイス、浅慮な世間知らずの王子よ!」


 これまでのひょうひょうとした語り口とはまるで違う魔法使いの低い唸りに、王子は背筋がぞくりとした。みしり、ばきり、骨が軋むような気味の悪い音がして、魔法使いのマントの背中が不自然に盛り上がる。王子はそこで初めて、この忌まわしい魔法使いを怒らせてしまったことに気が付いた。


「ロイス、ロイス、ロイス! 貴様はどうしてまだわからぬ。貴様の命はこの我輩が握っており、貴様は只、見逃してもらっているに過ぎないという事を!」


 ばさり、大きな羽音とともに、魔法使いの背中から蝙蝠のような黒い翼が現われた。魔法使いの目が爬虫類のように黄色く光る。その口から鋭い牙が覗く。魔法使いの痩せた腕に黒い鱗が浮かび上がり、ごわごわの灰色の髪の間から、ひしゃげた角が伸び始めている。


 王子はその光景に気圧されながらも、負けるものかと目を逸らさずに、気丈にも魔法使いを睨み返した。じり、と後ずさりながら、ティーポットを持つ手に力を込める。そう、このポットの中では――王城では、大切な人達が石に変えられているのだ。父が、母が、臣下達が。そして親愛なるナーランジュ王子が。その事実が、王子に勇気をもたらした。


「すぐに彼らを解放しろ! さもなくば――」

「さもなくば何だ、ロイス」

「さもなくば――ええと、その……そう、さもなくば、もう、今夜はお前の手を握ってやらないぞ!」


 ぴくり、魔法使いの動きが止まった。


 すうっと黒い鱗が消え、牙が口の中に納まり、角もそろりそろりと髪の中へ姿を消した。大きな翼が折りたたまれ、ぼろぼろのマントがばさり、たなびく。


「それは困る」


 丸い目をきょとんとさせて、魔法使いが呟いた。

 王子はほっと息をつくと、強い瞳で魔法使いを睨みながら、ティーポットを突き出した。


「さぁ、早く皆を元に戻せ!」


 魔法使いは長い爪でひょいとポットの蓋を開けると、尖った鼻を突っ込んで、ふんふんと中の匂いを嗅いだ。それからふうっと長い息をポットの中へ吹き込んだ。


「さぁ、これでいいだろうヒレツ王子」


 魔法使いは忌々しげに呟くと、ポットを王子に投げて寄越した。王子は慌ててそれを受け止め、胸を高鳴らせ覗き込んだ。


「ああ……!」


 ポットの中では煌びやかな人々が、まるで今眠りから覚めたかのように、首を傾げたり、きょときょとと辺りを見回したりしていた。その中には、隣国のナーランジュ王子の姿もあった。


「ああ、ナーランジュ王子。良かった。本当に良かった……!」


 思わずそう口にすると、まるで王子の言葉が聞こえたかのように、ナーランジュ王子がこちらを見上げた。澄んだ瞳とぱちり、目が合う。


「ナーランジュ王子……」


『ロイス王子?』


 声は聞こえなかった。が、ナーランジュ王子の唇は、確かにそう刻んでいた。王子は思わずポットを両手で握りしめ、勢いよく顔を近づけた。と、その時。


「ただいま帰りましたー!」


 突然ポットから蜘蛛少年が飛び出して、王子は驚いてポットを落としてしまいそうになった。

 サラはぴょこぴょこ飛び跳ねると、ポットから衣類を引きずり出した。


「どんな服がいいかよくわからなかったから、適当に持ってきましたよ。えーと、シャツに、ズボンに、ベストに、そうそう靴下も。礼服は重たいからやめちゃいました」


 まるで手品のように、するするとポットから溢れ出てくる衣装たち。それらは間違いなく王城で普段王子が身に纏っているものばかりだった。


 王子はそれらを受け止めながら、サラに小さく礼を述べた。が、彼の心はここにあらず、ただ胸にナーランジュ王子の澄んだ瞳ばかりを思い返していた。

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