第4話 命よりも大切なもの
夕食もまた、魔法使いの手作りだった。そしてそれは朝食同様、悔しくも、王子の心を温かく充たすものであった。王子は鴨のグリルにとろりとかかったソースの深い味わいを胸の中で反芻しながら、自室へと戻って行った。
さてここで、大抵の人がそうであるように王子もまた、現実に気付き顔をしかめることとなる。つまり、ひとつ充たされるとその他の点でも満足したくなったのだ。
美味しい食事で腹が膨れた彼は、そうなると今度は、この自室の荒れ様が気になって仕方なくなった。
カーテンは破れ、家具には埃が溜まり、歩くたびに塵が舞い上がる。絨毯にはシミがつき、窓は割れ、鏡は真っ白に曇っている。
廃墟と呼ぶのも生易しい、これではまるで幽霊船だ。
ベッドもじっとりとカビ臭く、いくらくたびれ果てていたとは言え、よくこの寝床で眠れたものだと、王子は我ながら感心した。
「サラ――サラ!」
蜘蛛の少年を呼んではみたが、彼からの返答は無かった。王子は嘆息すると、窓の外、白い月を見た。
まだ、そんなに遅い時間ではない。ならば多少であれば、自分にも掃除くらいできるかもしれない。
王子はひとつ頷くと、埃まみれの部屋を出た。昼間に城内探索したおかげで、清掃用具のありかくらいは把握できていたのだ。
慣れないながらも懸命に床を磨いていると、にわかに廊下が騒がしくなった。
「サラ! サラはおらんか!」
突然ドアが開け放たれ、王子はびくりと振り返った。魔法使いは胸の前で長い爪をカチカチかち合わせると、黄色い眼でぎょろりと王子を見下ろした。
「やい、ドンクサ王子。貴様、サラを知らんか?」
「知らないな。僕もさっき呼んだけれど、出てこなかった」
王子は短く答えると、再び清掃に取り掛かった。ベッド脇のサイドテーブル、あとはこれを磨き終えれば、ひとまず、今夜は落ち着いて眠れそうだ。
魔法使いは苛々と室内を歩き回り、ごわごわに逆立つ髪の毛をかきむしった。
「毛布だ、毛布がどこにもないのだ! 我輩はあれがないと眠れん!」
何を子供みたいな、と言いかけて王子が魔法使いに顔を向けた瞬間、魔法使いが耳をつんざくような金切声を上げた。
「なっ、何だ一体!」
「毛布! 毛布! 我輩の毛布!」
言うなり魔法使いは王子の腕にしがみ付き、その手から雑巾を奪い取った。
「……なんだ。これ、布巾じゃないのか?」
「このズボラ王子! ドンカン王子! よくも我輩の毛布で掃除なんてしてくれたな! どうしてくれる! 一体どうしてくれるのだ!」
魔法使いの狼狽ぶりに、王子は一瞬胸がスッとしたが、しかし次にそれは後悔へと変わった。魔法使いが膝から崩れ落ち、その落ち窪んだ丸い目から、ぽとぽとと涙を落としていたからだ。
「おい、お前……」
「どうしてくれるアンポンタン王子。これは我輩が人間だった頃の、たったひとつ残された思い出の品なのだぞ。ママの手を握っていなければ眠れなかった我輩に、ママが与えてくれたふわふわの毛布なのだぞ」
魔法使いの手にあるのは、小さく擦り切れ、灰色に汚れた、ぼろぼろの布切れであったけれど。
「どうしてくれる。毛布も無い、手を握ってくれるママもいない。我輩はどうやって眠ればいい」
くすんくすんと痩せた背中を丸める男に、さすがの王子もいたたまれなくなった。
王子は膝を伸ばし立ち上がると、しゃがみこんだままの魔法使いを見下ろした。
「その、すまなかった。まさかお前にとって、そんなに大事なものだとは思わなかったから。謝るよ」
それでも魔法使いのすすり泣きは治まらない。王子はすっかり弱ってしまって、おろおろと部屋を見回した。サラの姿はどこにも無い。
「……わかったよ。じゃあ、お前が眠るまで僕が手を握っていてやる。お前の母君の代わりに」
そう言うと魔法使いは、震わせていた肩をぴくりと止めた。
怒らせたか。
そう思って王子は身構えた。
が、魔法使いは王子を振り返ると、丸い目をぱちくりとさせてこう言った。
「ひょっとして王子は優しいのか?」
王子はそれに答えられる訳もなく、ただ曖昧に首を傾げた。
◆◆◆
やかましいイビキも、耳障りな歯軋りも無かった。
魔法使いはただすやすやと、気持ち良さそうに眠っていた。その頬に、淡く笑みさえ浮かべて。
「……仮にも人質だぞ? 僕は……」
ベッドの隣で座る王子が、思わず脱力してうな垂れると、彼の美しい金髪がさらりと揺れた。魔法使いの痩せた指は、しっかりと王子の手を握り締めている。
ちくり。
左胸に痛みが走り、王子は僅かに眉を顰めた。
これが、王子が最初に感じた、いばらであった。
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