第2話 魔法使いのスープ
どんなに暗い場所にも、どんなに呪われた城にも、朝は平等にやってくる。
当たり前でありながら、その事実に少し驚く。
瞼の向こうから眩しく差し込む白い光に、王子は淡く目を開いた。
「おはようございます、王子様。ご気分はいかがですか?」
可愛らしい声に視線を落とせばベッドの脇、手の平に乗りそうな小さな小さな少年が、ちょこんと立って王子を見ていた。銀色のさらさらとした髪、サファイアのように澄んだ青い瞳。しかし彼が妖精などではないことを、王子は充分知っていた。
「ええと、サラ――だっけ? 君は一体何者なんだ? あの魔法使いに仕えているという事は、やはり小悪魔か何かなのか?」
「いいえ王子様、私は蜘蛛です。ご主人様の魔法で、人間の姿をいただきました」
言われて王子は納得した。サラの肩からは四本の腕が、腰からは四本の足が生え、それぞれがちょこまか器用に動いていたからだ。
「さあ王子様、ご支度なさってください。朝食は出来ておりますからね」
「朝食?」
そこで王子は、夕べの魔法使いの言葉を思い返した。
『そうそう、明日は六時に起きろ。我輩は朝食が遅れるのが嫌いだ』
「まさか僕に、あの魔法使いと同じテーブルにつけと言うのか?」
「ああ見えてご主人様は、そりゃあ料理がお上手なんですよ」
全く噛み合っていない答えに、けれど王子はそれ以上、文句を言おうとしなかった。どの道この魔術師の城では、王子に選択権等ないのだ。
小さなサラの後に付いて、王子は廊下を進んで行った。辺りには人影も気配も無く、物音どころか静寂すらも石の廊下に吸い込まれたかのように、ひっそりと、朝の空気だけが満たされていた。
見張りも無いこの状況でなら、逃げ出すことも出来るかもしれない。
一瞬、そう思いはしたものの、王子は黙ってサラに続いた。サラは小さな体で飛び跳ねながら、廊下を素早く移動していた。柱から壁から自由に飛び回るその動きはまさしく蜘蛛そのもので、足元から伸びる銀の糸が、朝日にきらきら輝いている。その先端が自分の小指の先にそれとなく括り付けられていることを、王子も実は気付いていたのだ。
王子は深く息を吐くと、改めてその顔を上げ、城内を見渡した。
天井は高く狂いのない釣鐘型を描いており、豪奢なシャンデリアが下がっていた。しかしそこに明かりは灯されず、代わりに蜘蛛の糸が垂れ、更にその上にはこんもりと埃が乗り、今にもこぼれ落ちて来そうだ。
廊下に面して並ぶ窓は天井に届くほど高く、それぞれに大きな色ガラスが張られていた。だが、素晴らしい技術で作り上げられた数多の窓も、いまや埃と油とで白く濁り、窓枠に刻まれた細やかな彫刻さえ、埃に埋もれて意匠が見えない。
石の廊下はどこまでも奥に伸び、異国の刺繍が施された珍しい絨毯が敷き詰められているが、床にも敷物にも灰色の塵が積もっており、折角の織物も元は何色の糸が紡がれていたのか判別できない。
一体どれくらいの間、放置されていたのだろう。先程から使用人どころか、生き物の気配が全くしない。ああ、それなのにどこからともなく、背後や頭上や肩越しや、ありとあらゆるところから、何者かの不躾な視線をいくつもいくつも感じるのだ。
食堂の扉が開かれると、長い長いテーブルの先に、魔法使いが立っていた。
埃で曇った窓から差し込む冬の陽射しは一層淡く白く見え、その光景の中でくっきりと浮かぶ黒い影は、雪の中に落とした燃えさしのようだった。たとえその枝切れを取り除いたところで雪には黒い煤が移り、もう、純白には戻れないだろう。
「おはよう、ウスノロ王子。ご機嫌いかがかな?」
「……良い訳無いだろう」
王子が仏頂面で答えると、魔法使いはさも愉快そうにくっくっと笑った。
「それに僕の名前はロイスだ。二度とそんなふざけた呼び方をするな」
「これは失敬、トンマ王子」
王子はカッと顔を赤くしたが、きつく唇を噛んだだけで、そのまま黙ってテーブルについた。魔法使いはその向かいに澄まして座ると、端のほつれたナフキンをうやうやしく膝に乗せた。幸いにも食堂だけは辛うじて清掃されているらしく、椅子の背もたれが色褪せていたりテーブルにヒビが入っていたりはするが、テーブルクロスにはきちんと
やがてカラカラと音を立ててワゴンが到着し、サラがその小さな体には似合わぬ驚くほどの手際の良さで、甲斐甲斐しく銀の
魔法使いの食事なんて、カエルのスープか目玉のソテーか。
想像するだけで王子は身震いし、けれど幼いながらも生まれ持っての自尊心を貶めまいと、できるだけ何食わぬ顔を繕った。
「お待たせいたしましたぁ」
サラが王子の目の前にコトリとスープ皿を置く。黄金色のスープに色とりどりの野菜。ふわりと漂うかぐわしい湯気。
思いがけない香りに、王子の腹の虫が鳴く。
「どうした、ヘッポコ王子。毒など入っていないぞ? 大事な人質に、そんな事はしない。第一我輩は、食べ物を粗末にする輩が一番嫌いなのだ。一国の王子ともあろう者が、まさかそんな不道徳なことはしまい?」
「っ、いただくさ!」
売り言葉に買い言葉、王子はスプーンを握り締めると、すいっと一口スープを飲んだ。
「……あ」
思わず漏れたやわらかな呟きに、王子はぱっと赤面した。
「ね、美味しいでしょ?」
グラスに水を注ぎながら、にこにことしてサラが見上げる。悔しいが王子は、それに反論できなかった。
昨日の昼から、何も口にしていない。そんな腹事情を差し引いても、肥えているはずの王子の舌を以ってしても、そのスープは非の打ち所がなかった。
奥深くまろやかなブイヨンに、美しく切りそろえた季節の野菜。軟らかく煮込まれた兎肉がほんのり浮かび、薫り高いスパイスが複雑に絡み合う。
ひとさじ口に運ぶたび、体がふわりと温まる。
優しく、深く沁み入るそれは、何故だろう、どこか懐かしい味がした。
(きっと、何らかの魔法を使っているんだ。でなければこんな味が出せるものか。あの、忌まわしい魔法使いに!)
そう思いながらも王子は、スプーンを握る手を休めることなど出来なかった。その向かいの席では魔法使いが、尖ったあごひげを撫で付けながら、そんな王子をにやにやと眺めていた。
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