妹の友達

 記憶喪失の俺が学校に通い始めて、すでに数日が経過した。学校生活に関しては、信二や香織が気遣ってくれているおかげで概ね順調だ。


 まだまだ慣れないこともあるが、それもこれから徐々に慣れてくるだろう。


 残念なことに記憶に関しては一向に戻ることがないが、元々長丁場になることは覚悟の上だ。焦るつもりはない。


 そして今日も何事もなく学校終えた俺は、普段ならこのまま自宅に直行するところだが、今回は少し寄り道をすることにした。


 目的地は家とは反対方向にある駅前のスーパーだ。俺はそこに今日の夕食の材料を買うために向かっている。


 我が家の食卓を預かっているのは愛佳だ。だから普段は夕食の買い物も愛佳が行っているのだが、今日は事情があって俺がその役を担うことになった。


 というのも、どうやら愛佳は今日委員会があるらしく、帰りが遅くなるとのことだ。なので、代わりに買い物に行くよう頼まれて現在に至る。


 記憶喪失になる前もスーパーに行ったことがあるのか分からないが、今の俺は記憶喪失。当然ながらスーパーまでの道など知るわけがない。


 幸い俺は方向音痴ということもなかったので、スマホで場所を把握することで、多少時間はかかったが何とかスーパーまでたどり着いた。


 駅付近にあるスーパーなだけあって大きく、中は人でごった返していた。客は年齢にバラつきこそあったが、大半が女性だったので男、それも学生となると目立って居心地が悪かった。


 必要なものを記したメモ紙を預かっていたので、何を買えばいいのか分からないなどということはなく、買い物は順調に進んでいった。


 カートに載せた買い物カゴにメモ紙の内容に従って、どんどん商品を入れていく。メモ紙のおかげでスムーズに買い物を進めていったが、


「「あ……」」


 商品を取ろうとしたところで、同じものを狙っていた他の客と手がぶつかってしまった。


「す、すいません……」


「いや、俺の方こそごめんなさい」


 ぶつかった手の主である相手の方を見て謝罪する。愛佳と同様の制服を着ていることから、同じ学校の女生徒のようだ。


 蒼色の長い髪と瞳がまず目を惹き、まるで人形のように整った顔立ちは見惚れてしまいそうなほど美しい。


 多分記憶を失ってからの二ヶ月の間で出会った女性の中では、断トツで可愛い。


「え……お兄さん?」


 謝罪を終えたので気を取り直して買い物を続けようとしたが、隣からそんな声がしたのでつい振り向いてしまう。


 女生徒は俺の方に視線をやりながら、驚きの表情をしていた。俺に何かおかしなところでもあるのか?


「あの、お兄さん……ですよね?」


「……誰?」


 まるで知人と話すような感じで声をかけられても見覚えのない人だったので、逆に訊ねてしまった。


「はう……!」


 情けない声と共に、女生徒が表情を今にも泣きそうなものに歪めた。けれど、それでめげることはなく会話を続けようとする。


「……私は加納かのう玲奈れなって言います。同じ学校の一年で、お兄さんの妹――愛佳の友達です」


「愛佳の?」


 なるほど、だから俺に話しかけてきたのか。いきなり話しかけてきたからいったい誰なのかと思ったが、そういうことなら納得だ。


「お久しぶりです、お兄さん。……やっぱり愛佳の言ってた通り、記憶喪失なんですね。私のこと、分かりませんよね?」


「そうだな。悪いけど、君のことも覚えてないんだ。ごめんな」


 愛佳から聞いていたようなので、話が早くて助かる。


 しかし向こうは俺のことを知ってるのに、俺は相手のことを知らないというのはやはり申し訳ない気持ちになる。


 やっぱり、記憶はできるだけ早く戻さないといけないな。


「い、いえ、お兄さんが悪いわけじゃないんですから謝らないでください!」


 加納さんは両手を目の前で振って、慌てた様子でそう言った。


「それにしても、愛佳から退院していたとは聞いてましたけど、こんなところで会えるなんて驚きました。……あ、遅くなりましたけど退院おめでとうございます、お兄さん」


「ああ、ありがとう」


 退院を祝福する言葉に、素直に感謝を返す。


「……ところで、お兄さんはどうしてこんなところに?」


「見ての通り買い物だよ。今日は愛佳が委員会で遅くなるってことで、夕食の頼まれたんだ」


「そうだったんですか。愛佳はよく見かけることがありましたけど、お兄さんはそうじゃなかったから珍しいとは思っていたんです」


 加納さんは納得を示してくれた。


「実は私も、お兄さんと同じような理由なんですよ。私も夕食の買い物でここに来ました」


「へえ、加納さんも俺と一緒なのか。もしかして、料理は加納さんが作るのか?」


「はい、そうですね。両親は共働きで家をよく空けている上に、下に妹がいるから私が作ってます」


「そうなのか……偉いな、加納さんは」


「そ、そんなことありませんよ。私以外に作れる人がいないから仕方なくですし、簡単なものしか作れませんから、大して手間でもありませんし……」


 褒められたのが照れ臭かったのか、多少頬を赤らめながらも謙虚な姿勢を見せる加納さん。


 俺も愛佳にばかり任せていないで、料理とか覚えた方がいいのかもしれない。愛佳ほど上手くできるかどうかは、別の問題だが。


「「…………」」


 話題が尽きたところで、再び互いの間を沈黙が支配した。周りは他の客たちでザワザワと騒がしいのに、俺と加納さんの間だけまるで周囲から切り取られたかのように静かに感じる。


 これ以上特に話すこともない。なら買い物の続きをしなければと、この場を立ち去ろうとカートを押して移動しようとしたが、


「あ、あの……!」


 加納さんのやや張り上げた声に、思わず足を止め振り向いてしまった。


 加納さんは俺と視線を合わせると、恐る恐るといった感じで形のいい唇をゆっくりと動かす。


「……また今日みたいにお話をしてもらえますか?」


 なぜいちいちそんなことを訊くのだろうか? ちょっと話すぐらいで、俺は別に怒ったりしないのに。


「ああ、それくらいならいくらでもいいよ」


 そう答えると、加納さんの表情がパっと輝いた。何が嬉しいのかよく分からないが、そういう反応をしてくれるとこっちも微笑ましい気持ちになる。


「あ、それと妹の愛佳と仲良くしてくれてありがとうな」


「い、いえ、私の方こそ愛佳にはいつもお世話になっていますから……」


 感謝の言葉にはにかむ加納さん。その会話を最後に、俺は今度こそその場を離れた。

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