第5話

 そこに入った時、セイは昔の感情が、ぶり返すのが分かった。

 瑠璃の死の原因が、元を辿れば自分の取り逃がした奴らだと分かった時の、激しい後悔だ。

 思えばいつも、そんな後悔は付きまとう。

 今回は、この件も綺麗に消せる一石二鳥の話だが、ここに入ったセイは、それをぶち壊したくなる程の感情を、必死に抑え込まなくてはならなかった。

 薬品を置いているのか、小綺麗な小さな部屋に無造作に置かれた、容器の数々。

 時代に沿って、保存用のタッパが主だが、古いものは木箱に入って放置されていた。

 今は、敢て中を確認すまいと、若者はその部屋の中を進み、その奥へと足を運ぶ。

 扉を開けると、きつい薬の匂いが体を包んだ。

 ふらつきそうになる体を、足を踏ん張って支え、周りを見回す。

 聞いた通りの状況が、目の前にあった。

 十代から二十代の、若い女が数名、身じろぎせずに倒れていた。

 床に重なるように倒れているのは、何も部屋が狭いからではない。

 重なっている者たちは、既に生きていないと、一目で分かる状態だった。

 痣や傷が目立つその遺体の数が、この部屋に充満する薬と混じった匂いを考えると、異様に少ない。

 何故なのか考える気もなく、セイは部屋に足を踏み入れた。

 遺体の中に、明らかに腹から何かを引き出された形跡のある者がいたが、それも今は、見ない事にする。

 ここに来た理由は、いるはずの生存者の救出、だった。

 むせかえるような薬を吸いながらも、若者は聞いた通りの人数を探し当て、外へと連れだす。

 一度家内に戻って、ある細工を施すと、すぐに外へと出て来た。

 息のある女たちを見下ろしながら、セイはようやく薬から覚めるべく動いた。

 掌を地面につけたまま、肘を浮かして立てた右手を、足で思いっきり踏みつけた。

 骨の折れる、嫌な音が響くが、それで目を覚ます女はいない。

「確か、交番の場所は……」

 呟きながら、道順を思い出して女たちを抱えると、若者は暗くなった道を歩き出した。


 隠し玉は、恐らくは一番憎まれているはずの者の親族で、一番奴らを憎んでいるはずの者、だと言う。

 喫茶「来夢」にやってきたメルに呼び出され、薄暗くなった頃姿を見せた男が、凌の問いにあっさりと答えた。

「オレの、親族、か?」

「まあ、似たようなもの、だ。だが、見つけた時には、お前とは既に、似ても似つかぬ者に、なってしまっていた」

 聞いた弟が、目を剝いた。

「似ても似つかない、とは、どういう事だ?」

「狂っていた」

 息を呑んだ律が、つい言った。

「そんな危ない者が、水月と一緒に?」

「危なくはない」

「?」

 店内の全員が戸惑う中、クリスは出会いから話し始めた。

「その子に会ったのは、偶然だった。偶然、祖父が憂さ晴らしに使っている城に行くことになった時、だ」

 適度に距離を保ちながら、制御していたつもりが、出来ていなかったと分かった事案だ。

「祖父は、その子を、数年前から飼っているが、苛め抜いても変わりがなく、面白くないから部下にやったと、そう言っていた。当然だろうと思った。その時には、その子供はすでに狂っていたからな」

 静かに、自我を消し、その子供は何かを待っていたのだ。

「カスミが後にその城の現状を知り動いたが、祖父は逃げ足が速い。カスミの気配がした途端、そこを切り捨てた。その頃リヨウと結託し、私は彼らを監視下に置くことに、成功した」

 その後、子供がどうなったのか、分からなかった。

 何かの折に、利用できるかもしれない子供だ、出来れば手元に置きたかったのだが……。

「カスミがその城を襲った時、その周囲にいたのは烏合の衆だったからな、巻き込まれて死んだのだと、諦めていた」

 諦めて、次の手を考え始めていたクリスが、その子供と再会したのは、五十年ほど後の事だった。

 場所は、例の城がある地の、町はずれの空き地だった。

 そこには昔、小さな小屋があり、見目のいい老婆が、孫と共に住んでいた。

 その時はもう、痕跡はなかったが、火事と共に二人の姿は、見なくなったと言う。

 その話に思うところがあったクリスは、その場所に行って見つけた。

 美しく成長したあの子供が、小屋のあったと思しき方向を向いたまま、空を仰いでいる姿を。

 足音に気付いたのか、子供はゆっくりと振り返り、首を傾げた。

 もう、子供と言うには育ち過ぎて、若者と言ってもいいが、五十年という月日を考えると、若すぎる容姿だ。

「……その状態で、寿命を失くしたか」

 呟いた男に、若者は首を傾げたまま答えた。

「寿命を失くしても、死ぬことは出来るはずです」

「まあ、そうだな」

 実際、父母どちらも、楽にではなかったが、死ぬことが出来た。

 あそこまで死に至らしめられても蘇れるのは、カスミぐらいだろうと、クリスは考えていた。

「こう見えて、私はもう、六十過ぎました。人間としての生は、終わらせてもいいはずです」

 自分の事なのに、他人事のように呟く若者に、クリスは少し考えて切り出してみた。

「その前に、恨みを晴らす気は、ないか?」

「? 恨み?」

 本当に思い当たらないように、若者は首を傾げる。

 内心驚きながらも、男は昔の事を語った。

 例の城に連れていかれる羽目になった原因を話すと、聞きながら小屋のあった方向を見つめた若者が、ぽつりと呟いた。

「そんな理由で? そんな、くだらない理由で、祖母は、あんな死に方を、させられたんですか?」

「そうなる、か」

「へえ」

 若者が、小さく笑った。

 初めて見せた感情だったが、クリスは何故か、背筋に寒気が走った。

「……忘れる事など、出来ないですよ。あの人の最期も、その時のあの男の顔も。だから、何もかもを殺す覚悟で、あそこで過ごしたのに……私では、あの男に近づくまでには、いかなかった。あんな機会は、二度とないでしょう。原因を聞いたところで、もうどうしようもない。恨むほどの話では、ないです」

 言いながらも、若者は微笑んでいた。

「あなたがやっている見張り、永遠に出来るものなんですか?」

「いや、適度に抑えるための餌は、必要でな。その餌の被害も、積もれば甚大だ」

「……」

 答える男への興味はすぐに薄れ、若者はそれでも一礼して、踵を返した。

 その後、暫く会う機会がなかったが、最近になって再会が叶った。

「だが、余り変わっていなかったな。放って置けば、いずれ自滅するだろうと言うくらい、狂っているように、見えたのだが」

 予想に反して、若者は昔と変わらぬ態度で、男に接した。

 不思議に思って、本人に疑問をぶつけてみた。

 すると、若者は少し考えて答えた。

「息継ぎの回数が、以前より増えたから、かもしれません」

「? 息継ぎ? そんな感覚なのか、お前の長患いの病に対する考えは?」

 驚いたが、同時に納得した。

 昔より多く、正気に戻る機会が出来た為に、それ以上悪くなっていないと言う事だろう。

 そう言う状態なのなら、自己の制御も可能かもしれないと、男は初めて計画を切り出したのだった。

「私が、お前の好敵手の再生を、試みているのを知ったその子は、報酬として頼みごとをして来た。材料集めには苦労したが、まあ、呪い付きだった子供よりは、楽な作業だった」

「まさか、こいつら以外にも、似た境遇の奴らがいるって事か? 勘弁してくれ」

 凌が、心の底から嘆く。

「もう打ち止めにできるはずだ。お前にも苦労を掛けたな」

「いや、それはいいが、何で水月を向かわせるかね。呪いが解けていない奴とは、共闘できないぞ」

「それが目的で、あの子供を使う事にしたのだ。カスミがな、丁度呪いが強い部位を持っていた。少しで良かったのだが、全部貰えたので、ここまで早く作り上げられた」

 それでも、使える部位を見つけるのに、苦労した。

「お前は、高みの見物でもしておけ。明日中には、奴らも消える」

「……」

 不服ではあるが、昔の失敗があって、強く反論できない。

 凌は溜息を吐いて、頷いた。

「事が終わったら、教えてくれ」

 現場には確認に行けないが、自宅で待機しているリヨウにも、現状を報告しなければならないだろう。

 クリスは静かに頷き、不意に、手持無沙汰で立ち尽くしていた妻を見た。

「ところでメル、その、ポケットの中の文は、誰からもらった恋文だ?」

「へ?」

 急に話を振られてきょとんとした女に、男は静かに近づいて顔を寄せる。

「まさか、他の男からもらった恋文を、肌身離さず持っているわけでは、ないだろうな?」

「な、何を言って……あ、これ。そうだっ。クリス、お前に相談がある」

「ん?」

 急に勢いづいた妻に、今度はクリスがきょとんとしたが、続く言葉で動きを止めた。

「蓮が、オレと絶縁するって、こんなものを寄こして来たんだっ。一度話し合いたいから、あいつを探してくれっ」

 茶封筒を開いて中身を見せながらの訴えに、夫の反応は薄い。

「……蓮、と言うと、カスミの孫の?」

「オレたちにとっても、ひ孫だろっ?」

 ぎこちなく女から顔を逸らし、男は天井を仰いだ。

「お前は、蓮とは親しいのか?」

「今更、何を言ってるんだよっ。ヒスイに引き合わせたのも、知ってるだろ?」

「ああ……」

 急に歯切れが悪くなった兄に、凌は思わず言っていた。

「まさか、蓮が、隠し玉なのか? それとも、囮か?」

「何を、脈絡のない事を……」

 すぐに否定する男を、弟は目を細めて見る。

「あんた、姉貴の前だと、とことん隠し事が出来ないよな」

 だから、メルを見張ると言う離れ業をしないのだ。

 そこまで気にかける程好いているはずなのに、他の女に手を出して、カスミやコハクまで産ませた理由が、未だに不明だ。

 固い表情のまま、そっぽを向く夫の顔を覗きこみ、メルが首を傾げた。

「そうなのか? なら、そこに行けば、蓮と会えるのか?」

「いや、やめた方がいい。絶縁したいのなら、好きにさせればいいだろう」

「オレが、一方的に絶縁されるのは、嫌なのっ」

 いつもより、可愛らしい甘え声で、メルは言い切った。

 男は真顔で妻を見下ろし、神妙に頷いた。

「分かった。そこでの事が終わったら、一度お前に会うように言ってみよう」

「本当? さっすが、クリスっ。頼りになるう」

 喜んで飛びつく女と、それを喜びながらも、周囲を気にして真顔を装う男。

 相変わらずだなと、凌が呆れている中、それまで黙っていた男が、溜息を吐いた。

「ったく、何をする気かは知らんが、生半可な事で望みが叶うと、あいつは考えてるのか? この点は諦めろと、口を酸っぱくして言っていたんだがな」

 そんなセキレイの呟きに答えるのは、隣に座るシュウレイだ。

「仕方ないよ。伴侶がいるならまだしも、たった一人で過ごすのは、意外に苦しい。私は平気な方だけど、特にあんな男の体質を遺伝したら、もう伴侶を探す気にもならない。他の壁ならぶち壊せても、寿命と不老の壁は、ちょっと固すぎるよね」

 子供は欲しいんだけどなあ、と半ば嘆きながらの言葉を聞きながら、残りの男女は黙り込んでいる。

 その内の律は、蓮と言う名を聞いて、妙な考えが頭をよぎった。

 数年前に、セイからある依頼を受けた。

 近畿の辺りにいたはずの、ある一族のその後の行方を探って欲しい、そんな依頼だった。

 律の雇い主の妻の実家でもあったその一族の行方は、意外にも巧妙に隠されていて難儀したが、最近二つの候補に絞れた。

 それをほんの二日前に、セイへと知らせたばかりだった。

 雇い主の夫人、楓も気にしていたので一応知らせたが、勿論自分で動くようなことはない。

 だが、その夫に収まる狐の方は、どうだろうか?

 口止めはしていないから、当然蘇芳にもそれは伝わっているだろう。

「……」

 その先を想像して、律は溜息を吐きたくなった。

 ここで嘆きを表に出したら、話さなくてはいけなくなるから、咳払いで誤魔化す。

 敵に回しては厄介な人が、この店の中には多すぎた。

 ゼツも話を聞くうちに、ある可能性に気付いたが、未だ黙ったままのロンが気になって、確認の言葉を切り出せない。

 代わりにカウンター内で、珍しく軽食や飲み物を用意していたライラが手を止め、口を開いた。

「……その目的を達成したら、戻って来るんですよね?」

 クリスは、女を見返した。

「このまま、用なしと判断することは、ないですよね?」

「もしそうなら、お前さんも、生かしては置けんが」

「……」

 真顔で返され、ライラが目を見開いたが、言葉を返す前にメルが言った。

「お前、脅し過ぎ。この子もミヤと同じで、私の友達なんだから、何かやったらもう会わないぞ」

「う、やらない。あの狼も、無事戻るはずだ」

 メルは、初めて愛した女だ。

 だが、そんな感情より何より、他の女との間に作った子供たちにも、嫉妬せずに接してくれる妻に、多少の負い目を感じていた。

 これ以上いたら、余計なことまで話してしまいそうだ。

 クリスはそう判断して、早々に暇を告げようと口を開こうとした時、準備中の札のかかった扉が、外から開かれた。

 ライラが接客の顔で、謝罪の言葉を投げる前に、客が誰かに気付いた。

「雅さん」

「今晩は。準備中になってるけど、いいかな?」

 優しい笑顔で尋ねる女に、メルが目を丸くした。

「どうしたんだ?」

「うん、ちょっと気になることがあって、色々聞いて回ってたんだけど……出かける前に、どうしても直接会いたい人が出来たんだ」

 陰りのない笑顔で言いながら、雅は閉められた扉の方を見てぎょっとする律に、笑いかけた。

「水月君は、お元気ですか?」

「あ、ああ」

「それは、良かった」

 頷く女の様子で、これがただの社交辞令だと察し、律はつい、凌の方を見てしまった。

 雅も丁度その見目のいい男を見止め、笑顔を濃くする。

「あなたが、凌さん?」

「あ、ああ。お前さんは……」

「雅と言います。あなたの事は、何度かお見掛けしていました」

 軽く頭を下げた女に、凌は躊躇いながら挨拶を返す。

 気のせいかと戸惑う男と雅を、ゼツは顔を引き攣らせて見比べる。

「実は、あなたにお願いがあるんです。向こうについてから、ウルさんの方にも、同じお願いをするつもりなんですけど」

「? ミヤ、お前、あの狼が何処にいるのか、知ってるのかっ?」

 メルが口を挟み、ライラもつい身を乗り出した。

「どこにいるんですかっ?」

「君も、朱里ちゃんも、動かずに待っているのが、最良の治め方だよ。あの子も旦那さんを追って行こうとしてた。駅で捕まえて、宥めて帰したけど」

 優しい声音で言い、雅は居場所に関しては口に出さない。

 そして、言葉は女たちに向けていたが、目は凌を見据えたままだ。

「……」

「願いとは、何だ?」

 その雰囲気に、ゼツが身構えている前で、凌が気楽に見える問いを投げた。

 雅は優しく微笑んだまま、切り出した。

「一発だけでいいんです。顔かたちが変わる位の強さで、殴らせてもらえませんか?」

 店の中の数人が、悲鳴をかみ殺した。


 微笑んだままのその言葉に、小さく悲鳴を上げてしまったのは、店の外にいた若者だった。

 あの後、気のない鏡月の返事に雅が何やら考え込み、暫くして山の住処の戸締りを始めた。

 ついそれを見守っていた若者が、何気なく問いかけた。

「帰るのか?」

「いいえ。ちょっと、気がかりが出来ましたので、出かけます」

 そうかと頷き、帰りそびれていた鏡月も、一緒に山を下りた。

 挨拶もそこそこに、女が走り出した。

 何事かと、思わず追いかけて行った先は、この地の小さな駅だった。

 その駅で、切符を買っていた朱里を捕まえて、引き留める。

「私が、責任を持って、葵君は連れて帰るから、君は家で子供たちと一緒にいなさい」

 理由を言わずにそう切り出され、朱里は何か言いたげだったが、女はきっぱりと言った。

「葵君がもし、何か失敗をして、誰かの毒牙にかかっていたら、君まで危ない」

「そんなっ」

 そこまで大事なのかと青褪める女に、雅は優しく首を振った。

「取り越し苦労だとは思う。でも、最悪な事態は考えておかないと。君は、葵君にもしもの事があったら、子供二人を、守らないといけないだろう?」

 話が飛び過ぎてはいるが、朱里の動揺は長くは続かなかった。

 すぐに立ち直り、大きく頷いた。

「君一人で不安なら、ライラさんの所に行けばいい。お父さんはいないけど、それ以上に頼りになる人たちが、今は傍にいるみたいだから」

「いえ、大丈夫です。そうですよね、私に事情を話さない時点で、危険な事に飛び込もうとしていると、そう考えるべきでした。私は、子供たちと、あの人の帰りを待ちます」

 言い切った女は、真面目な顔で雅に頼んだ。

「あの人を、よろしくお願いたします」

 切符をその場で払い戻し、朱里は家路についた。

 それを見送ってから、雅は小さく呟く。

「さてと、あの家で、捕まってくれるかな」

 何のことを言っているのかは分からないが、完全に帰りそびれ、そのくせ話しかけるのも億劫だと、鏡月は黙ったまま女の動きを見守った。

 次に向かったのは、ある大企業の社長の豪邸だった。

 十数年前に塚本つかもと家の長女を娶り、後継ぎにも恵まれた若い社長の家だ。

 雅が向かったのは、その豪邸の中にある一戸建てだ。

 藤田と表札がついた、その家のチャイムを鳴らすと、すぐに女が出て来た。

 黒髪で長身な所は雅と同じだが、色気の度合いが各違いだ。

「あら、珍しい」

「御免なさい、こんな訪ね方して」

「いいけど、家の者が、何かやらかした?」

 首を傾げながら、女は若者の方を見る。

 女と鏡月双方が少しだけ驚いたが、どちらも何も言わず、雅の言葉を待った。

「聞きたいことがあったんだ、あなた自身の事情で」

「?」

「最近、蘇芳さんとは、連絡とってる?」

 藤田家の女が目を瞬いた。

 不思議そうにしながらも、頷く。

「ええ。つい昨日、電話があったわ。もう少ししたら、気兼ねなく夫婦で旅行が出来るから、その時に会いに来るって」

「昨日? どうして気兼ねなくなるのかは、訊いた?」

「いいえ。でも、想像は出来るわ。楓さんの所の実家、ちょっとおかしいらしいの。その折り合いがつく目途が、立ったんじゃない?」

 鏡月は、雅の意外な情報源に、目を剝いていた。

「そう……目途が、ついたんだ」

 動揺する若者には構わず、女は礼を言った。

「有難う。急に来て、御免ね」

「いいけど……どうかしたの?」

 何やらおかしいと、藤田家の女が気にするが、雅は笑って首を振り、直ぐに家を辞した。

 足早に進む女の背に、鏡月が声を投げる。

「やめて置け。お前、自分の因縁話にも、まだけりがついてないだろうが。他人の因縁に係るな」

「他人じゃ、ありませんよ」

 振り返らず、雅が答えた。

「蓮が、あそこにいるのなら、セイだって行ってます。蓮が、どういう折り合いをつける気かは知りませんが、あなたが呆れるようなやり方なんでしょう? あなたは呆れるだけでも、セイは違いますよ」

「……」

「セイが動くのなら、姉貴分の私が動くのも、自然です」

 きっぱりと言い切る女に、鏡月は呆れて溜息を吐いた。

 雅は、殺戮を好まない女、だった。

 それが、いつからだろうか。

 姐御と言う呼ばれ方が、妙にしっくりくるほど、腰が据わったのは。

 やれやれと首を振り、仕方がないと雅と並んで歩き出したが、その行き先に気付いて立ち止まった。

「お、おい? 何で、そこに行くんだ?」

「メルの気持ちも、再確認しておきたいんです」

 蓮と、一度話し合うと言うのなら、一緒に行った方が手っ取り早いとも思っている雅は、足取りが遅くなった鏡月を置いて、その店の前に立った。

 数人の人がいるようだ。

 見知った男女が数名と、知らない男が一人。

 そして、気配と話し声のみでその存在に気付けた、知らない男が一人。

「……」

 扉の前で立ち止まった雅は、メルの旦那が話し出した話に、つい聞き入っていた。

 追いついた鏡月も、その話に表情を硬くする。

 話が終わり、会話も途切れた頃を見計らい、女が扉に手をかけた。

 若者は慌てて呼び止めようとしたが、雅に漂う空気の冷たさがそれを途中で止めさせた。

 優しい笑顔を浮かべたまま、雅は店へと入り、急にとんでもない願いを申し出たのだった。

 本当なら、店に飛び込んでその場で雅を宥めたいところだが、喧嘩を売った相手が、それを躊躇わせている。

 鏡月が頭を抱える中、店の中で固い声が聞こえた。

「ミヤ、名案ですが、あの馬鹿親父の方は、オレに任せてはもらえませんか? 完全にぼこぼこにしてしまいますけど、殺しはしませんから」

「ぜ、ゼツ君っ?」

 ライラが、悲鳴を上げるような声で、その名を呼んだ。

「あの人の事情は、もう知ってるんでしょうっ?」

「ええ」

 女の問いに、ゼツはきっぱりと答えた。

「ですが、これは別件ですから」

「……そうね、別件だわね」

 やんわりとした、男の声が答えた。

「ろ、ロン?」

 凌の戸惑いに構わず、ロンはゼツに言った。

「でもあなたは、そこの社長さんをお願いできる? あたしが、この件で殴れそうなのは、あの狼位みたいなの」

 そこの、と指された男が、息を呑むのが聞こえた。

「いや、させないよ。この子これでも、虚弱なんだ。殴られたら、一月は立ち直れない。そうなったら、会社が危ないから」

 男の姉の返しはふざけているが、意外に真面目な声だ。

 それだけ、その三人の空気が、尋常ではない。

「おい、殴られる事情があるなら仕方ないが、その事情に、全く心当たりがない」

 三人の空気が、また変化した。

 一人は呆れただけだが、ゼツと雅の空気が更に冷たさを帯びた。

「思い当たらないんですか? 大した人ですね」

 大男が言い、女も続く。

「教えてあげるのも、嫌なんですけど。せめてもの救いは、あなたとあの子がまだ、顔を合わせていない事ですね。今後もないなら、いいんですが」

「?」

 戸惑っている男に、怒りを向ける気が失せたのか、雅は息を吐いてからメルを見た。

「蓮の居場所が、分かったよ」

「へ?」

 メルは目を丸くしただけだったが、クリスは目を剝いた。

「何だと? どこで漏れた?」

「漏れたとか、そう言う問題の話ではありません。その囮とやらが蓮なら、この時期に動きがあった事態が係わっていると、そう予想できただけです」

「囮、なのか、本当にっ?」

 妻が叫ぶように言い、クリスは首を竦めた。

「心配せずとも、カスミの孫なのだぞ。すぐに元気な姿を見せるはずだ」

「元気じゃなくなることを、させる気かっ?」

「おびき寄せるのに、都合のいい子供と言うだけだ、他に意味などないっ」

 あんまりな言いように、メルが目を剝いた時、低い声が言った。

「都合のいい子供、ですか。確かに、水月もあの子も、蓮と言う子も、あなたにとってはそうでしょうが……」

 低いながらも、静かに言った律は、クリスを見据えた。

「例え、あなたが蘇らせたとしても、それだけの為に、短い人生を終えさせる理由には、ならない。だから、あなたが言った言葉には、ほっとしています。事が終わったら、家に戻しても、いいんですね?」

「勿論だ。だが、本人がそれを望んでいるかは、分からんぞ。特に、あの子は」

 狂ってしまっている、隠し玉。

 自分の望みを叶えるには、一番望まれない事をする必要があるはずだ。

 律はそう言う男を見返し、小さく笑った。

「雅、お前さんが知っている、蓮と言う子が向かっている場所、私も行こう」

「本当ですか? 助かります。その鬼たち、力はなさそうだけど、数は多そうなので、邪魔されるのが、難儀だと思っていたんです」

「よし、行こうっ。何をする気かは知らないけど、まずは話し合ってからじゃないとなっ」

 話が、その場所へ行くことにまとまりつつあり、クリスは顔を顰めた。

 ただ、女房の呼びかけに応じただけなのに、計画が水の泡になりかけている。

 だが、男は焦りを表に出さず、店を後にする妻を含んだ男女を見送った。

「……話が、見えなくなったんだが」

 残された凌が、ぽつりと呟いた。

 同じく残ったセキレイが、姉と顔を見合わせて妙な顔になっている。

 その様子を見ながら、ライラが昔の男に声をかけた。

「あなたとの間にできた子、どうなったと思う?」

 静かな問いかけに、凌も静かに答えた。

「今更、確認するのか? お前が死んだ後、オレはお前のお袋の元へと行ってみた。ウルの奴が、あの人の元へと連れて行ったと言う、お前の弁を信じてな。だが……家ごとなかった」

 正しくは、家を焼き尽くされた跡があった。

 遺体も、発見した。

「子供は、あの小ささだぞ。あんな、年老いていたとはいえ、お前のお袋さんを完全に焼き尽くすような業火では、欠片も残らないだろう」

「……そう」

 ライラは悲しそうに微笑み、男を見た。

 昔のような怒りは、感じられない。

 助けられたはずの子供を、取りこぼしてしまったのが、長く気を病ませていたのかもしれない。

「……この件が済んだら、あなたに紹介したい子がいるの」

「? 突然、何だ? お前の娘に会えとでも?」

「そうじゃないわ。でも、絶対会って欲しい子なの」

 微笑みながら切り出すライラを見守り、セキレイが溜息を吐いた。

「ようやく、対面の話になったか。長すぎる」

「良かったねえ。もう一世紀くらい、跨ぐかと思ってたよ」

 シュウレイも、長閑に微笑んだ。

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