第4話

 それは、葵から困ったように聞かされた話、だった。

「叔母の瑠璃が、伯母さんの所からやって来て、蓮に認知を求める気だって」

「ほ、本当に、そんな女の人が、いたんだね」

 雅が、何故か顔を険しくして、返す。

 反対にメルの方は、嬉しそうに頷いた。

「それで?」

「瑠璃叔母は、蓮としかそんな関係になっていないと主張するし、一応病院で検査したらしいんです」

 結果は、おめでたです、だった。

 しかも、性別まで分かる程に、育っていた。

「葵さんは、蓮に叔母を会わせることに消極的で。でも、結局会わせる方向には、行っていたと思うんですけど……」

 それより前に、瑠璃は何故か、セイに殴り込みをかけたのだ。

 殴り込みと言っても、セイが寝起きする家に行き、偶々帰っていた若者を、不意打ちした、というのが本当のところだった。

 その頃、セイは父親違いの妹を養っており、夜には戻って来ていた。

 幼稚園に通い始めた朱里を迎えに行き、戻って来たところを襲われた。

 ふいに襲い掛かった女に、若者は当然驚いたが、妹を抱えてとびよけ、きゃっきゃと喜ぶ朱里を抱えたまま、小柄な女の攻撃を避け続けた。

 その間に相手の事を把握すると、ようやく反撃に転じ、そのまま沈めようとした時、叔母を見失って探していた葵が、追いついた。

「やめろっ、セイ。その人は、妊婦だっ」

 動きを止め、若者は大男を見たが、その目は冷ややかだ。

「だから? 妊婦なら、小さい子に殴りかかっても、許されるのか?」

「違うっ、朱里に殴りかかったんじゃ、ねえだろ、お前にだっ」

「何で?」

 目を瞬いたセイは、見返した女を改めて観察した。

「嫉妬の目を受けるなら、朱里の方だろ? 蓮が可愛がってるし」

「その通りだが、違うっ。その嫉妬じゃ、ねえんだよっ」

 力説しても、セイの方は、何が何だか分からない様だった。

 が、瑠璃は若者を睨みながら、宣言した。

「私が先に、蓮をものにしたんだから、あんたは諦めなっ」

「……? どうやって、物にできたんだ?」

 物と言っても、色々ある。

一体、蓮がどういう物になったのかと、深く考えるセイに、女は更に言った。

「男女の仲になっても、その後深く慈しみ合わないと、意味がないんだよっ。子供が出来なかったあんたに、出る幕はないっ」

 胸を張って言い切る女を、セイはまだ目を丸くしたまま見ていたが、徐々に何を言われているのか分かったらしい。

 目を細めて、葵を見た。

「葵さん? あんた、何か変な事、この人に言わなかったか?」

「べ、別に、変な事じゃねえだろうがっ」

「変じゃないかっ。この人が、実際に私を見ても、女だと思っていること自体がっ」

 つい大きな声で言った若者に、瑠璃も朱里も驚いたが、セイは構わず葵に歩み寄る。

「大体、あれが、何百年前の話だと、思ってるんだっ? どんな意味を含んでいても、とっくに過去の話だろう? いい加減蒸し返すの、やめてくれっ」

 恐ろしい剣幕だが、葵は深い溜息を吐いただけだ。

「過去ってお前、本気かよ」

 驚いて見守っていた瑠璃が、まじまじと若者の体を見つめた。

「あれ? あんた、まさか、男っ?」

「……あんたらは、つくづく、怒らせるの、上手いな」

 出会い方は最悪だったが、その後は穏便だった。

「……そうか、過去なんだ、あの子にとっては」

 雅が呟くが、メルはその辺りの話は聞き流し、身を乗り出した。

「それで? ちゃんと、蓮とは会って、一緒に暮らしてるのか?」

「それが……会う前に、亡くなったらしいんですよ、瑠璃叔母」

「え、何で?」

 唐突な結末に、女二人が唖然とするのに、瑪瑙は首を振って答えた。

「分かりません。ですが、どうも息を引き取ったのが、この山だったようで……今は、葵さんのいた山に、眠っていると聞いています」

「あの山か……そう言えば、五輪塔が二つあったな」

 メルが、しみじみと頷いた。

「きっと、かわいい子が生まれたんだろうな、蓮に似て」

 惜しむ言葉を並べる女の横で、雅はその女に会った事があるか、思い出そうと天井を仰ぐ。

 話が終わった瑪瑙は、丁寧に暇を告げて帰って行ったが、すぐに別の来客があった。

「珍しいですね、あなたがここまで登って来るのは」

「久しぶりだな」

 目を丸くした雅に、曖昧に答えて客間に入って来たのは、同じくらいの年齢に見える若者だった。

 のんびりとした出で立ちの若者は、顔をメルに向けて立ったまま言った。

「蓮から、預かって来た」

 生まれなかった赤子に想いを馳せていた女が、我に返って若者を見上げた。

「あれ、鏡? どうしたんだ?」

「だから、使いだ。これを、お前に渡して欲しいと、蓮に頼まれた」

 差し出したのは、細い茶封筒だった。

 受け取ると、厚い割に軽い。

「? 何だ? 昨日会ったのに」

 首を傾げ、メルはその封を切って中を改めたが、封筒の中を覗きこんで、思わず声を上げてテーブルに放り投げた。

「な、何だ、これ」

 つい、身を引いた女の代わりに、雅が断りを入れて中を覗き、眉を寄せてその中身をテーブルに出した。

「……髪の毛? 蓮の、か?」

 呟きながら、何か固いものも入っているのに気づき、それも取り出してみる。

 この地の有名な銀行の、預金通帳だ。

 戸惑う二人に、立ったままの鏡月きょうげつが、のんびりと言った。

「そうか、何やら会った時に、身軽な気配があった。随分、思い切ったもんだな」

「これ、どういう事だ?」

「もう、お前の前に姿を見せないと、そう言う意味だろう」

 目を見張る女に、通帳を指さしながら続ける。

「お前の名で、通帳を作っていたのは知っていた。お前の、当座の生活費だ。もしもの為に、溜め込んでいた」

「す、姿を見せないって、どういう事だよっ」

「さあな。まあ、予想より早く動いたとは思うが、いずれはこうなると思っていた。そうするしか、お前たちとは縁が切れんだろう?」

 のんびりと言い、メルがぽかんと自分を見上げているのに気づき、首を傾げた。

「何を驚いてる? 元々、お前とは血が繋がっていないんだろう? ここまで面倒を見ただけ、孝行者だろう」

「そんなに、オレの事、鬱陶しかったのか……?」

 ぽつりと言う女にも、鏡月はのんびりと答えた。

「あれで、鬱陶しく感じん方が、異常だ」

「鏡さん、はっきり言い過ぎです」

 雅が、ついつい口を挟んだ。

 メルが、顔を伏せて黙り込んだのだ。

 こんな追い詰め方をされる、メルを見るのは初めてで、この後どういう反応をするかも想像できないし、それを宥めるのも初めてだ。

 雅は身構えながら、女がどういう動きをするのか見守っていたが、幸か不幸か感情をさらけ出す余裕は無くなった。

 メルの持つ携帯電話が、突然受信を告げたのだ。

 現代に馴染みまくっている友人に感心する雅の前で、メルは慌てて電話を取る。

 挨拶を交わし、相手の話を聞くと、女は首を傾げた。

「いいけど、ここで?」

 涙声で問うと、相手は何やら話し、メルは目を瞬いた。

「分かった、じゃあ、一度、そこに行くよ。喫茶、来夢でいいんだな?」

 雅も、聞き慣れた名の店だ。

 電話を切ったメルに、控えめに尋ねた。

「誰だったんだ?」

「うん……凌坊」

「ん? 誰?」

 聞かぬ名につい訊き返したが、鏡月が目を剝いた。

「お前、あの人と連絡とってるのかっ?」

 逃げ腰になった若者に、メルは意地悪く答えた。

「いけないか? オレの義弟なんだから、当然だろ」

「そ、それは、そうだが……」

「クリスを、呼び出してくれって。だから、行ってくるよ、あの店に」

 女は言いながら、封筒に入っていた中身を入れ直し、ポケットに入れた。

「……この事は、後でよく考える」

 自分に言い聞かせるように言い、メルはその場を後にした。

「……あの、鏡さん」

「ん?」

 残された雅が、静かに声をかけた。

「蓮は、どこに行ったんでしょうか?」

「単に、メルとの絶縁を、告げただけだと思うが?」

 気楽な答えに、雅は首を振った。

「そうでしょうか? 私たちと接していたら、嫌でもメルとは会ってしまいます。絶縁する気なら、私たちごと関係を断つ方が、手っ取り早いはずです」

「だろうな。だが、それで不都合があるか? 仕事でかち合えば、普通に接するだろうし、今迄とさほど変わらんさ」

 鏡月はのんびりと言ったが、女は納得できなかった。

 先程聞いた、葵の血縁の話と、蓮が付き合った女の話。

 そして今、葵と蓮が意図せず同じ時期に動き、葵の血縁者の隠れ場所が、同時期に判明した。

 偶然と言い切ってもいい、些細なものだ。

 だが雅は、この件を、放って置いてはいけない予感があった。


 夕方になってその場に戻ったセイは、周囲を見回して溜息を吐いた。

「……また、迷ったのか?」

 水月を休める場所に落ち着かせ、戻った後できっちりと葵と話そうと思っていたのだが、方向感覚がおかしいくせに、あの鬼は良く動く。

 本当は、今から昼までの間に、やっておきたいことがあった。

 その時期を過ぎたら、もう二度と出来ない事、だ。

 相手は夜行性のはずで、あの隠れ家に忍び込むのは夜が更けない内が望ましいのだが、話が持ち込まれてから今日まで、急ぎの仕事を片付けている間に、そんな慎重な動きをする余裕が、無くなっていた。

 昔の様に、葵が唐突に、修羅場の真ん中に現れられては、困る。

 だからきっちりと話をして、帰らせようと思ったのだ。

 昼間にそれをしなかったのは、その場にいた今回の戦力が気にして、この件に巻き込まれてしまうのを恐れたためだ。

「……葵坊なら、さっき子供と、山の方へと向かったぞ」

 探すか放って置くか、考えていたセイの背に、静かな声がかかった。

 振り返ると、その山の方へと、目を向けたままの男がいる。

 若者と同じくらいの体格の男だが、服装は妙に古風で、着古した和服の袴姿だ。

 殆ど透けていないその男に、セイは尋ねた。

「ご存じなんですか、葵さんを?」

「お前な、凪沙と言う鬼娘を知っているのだから、その倅の事も見知っているかもとは、思わなんだか?」

 やんわりと笑った男は、直ぐに真顔になった。

「葵坊は、知ってしまったのか? 蓮が、凪沙を……」

「……」

「そうか、それ故に今回の件は、内密にと思ったのだな?」

「今回だけでは、ありません」

 済まなそうな声音に、セイはつい笑った。

 目的の場所に歩き出しながら、続ける。

「前回だって、内密にしたかった。今の状況は予想外ですが、万が一取り逃がす奴がいた時、恨みを買う者は、少ない方がいいでしょう?」

 そうしないと、守らなければならない者が多くなりすぎて、目が届かなくなる。

 守りの目から取りこぼされた者は、自我を壊すしかなくなるのだ。

「……その、葵さんと一緒だった子供と言うのは、まさか……」

「うむ、お前さんが、宿を世話していた少年だ」

 扱いを、間違ったようだ。

 セイは溜息を吐き、男が見ていた山の方を見た。

「良かった、あちらは狼の小父さんが休んでいる山です。疲れない程度に、あの人を足止めしていてくれれば、いいんですが」

「疲れない程度、か。お前さんの方が、疲れるかもしれんぞ」

 含みのある言い分に振り返った若者に、その後に続いて歩いていた男は続けた。

「例の物が、あの屋敷内のどこにあるのかも、分かったのだが……あれを絞るのは、時間がかかるように思う」

「絞る……そうですか。つまり、手のひらサイズでは、済まないって事ですか」

 すぐに察したセイに、男はもう一つ告げた。

「他の部屋に、厄介なモノが、ゴロゴロと転がっていたが、あれもどうかすると言うのなら、昼までに終わるかどうか、分からんぞ」

 主語もなく、曖昧な説明だが、若者は空を仰いだ。

 夕焼けが綺麗だな、と少しだけ考えてから、問いかける。

「その中で、持って行ける数は、分かりますか?」

「……そう言う選別をするなら、一つか二つに減るな」

「そうですか」

 声から感情が消え、男を見返した目も、感情を消していた。

「有難うございます。行き当たりばったりで探し回らずに済み、助かりました」

「礼には及ばぬ。言ったであろう? 私も、蓮の女子の件は、気になっていた。だから、久方ぶりに、この国に戻った」

 若者の変化を見ながらも、男は静かに返した。

「他に、手伝えることがあるか?」

 すぐに拒否されるかと思ったが、セイは躊躇った。

「お言葉に、甘えてしまっても、いいですか?」

 目を見張った男に、若者は今まで胸に秘めていた話を、吐きだした。

「……」

 傍目では一人、立ち尽くしているだけに見えるだろう光景だが、見とがめる通行人はまだまだらだ。

 話を終え、頼みごとを切り出すと、男は小さく唸った。

「ではお前さんも、水月の経緯を、知っていたのだな?」

 敢て知らぬ風を装って、少年の名を呼ばなかったのだが、そう言う必要はなかったようだ。

 黙って頷く若者は、話していた時の感情を、再び消していた。

「憎い存在の話は、分かった。お前さんは、そこまで憎みながらも、それを押し隠して今日まで来ていたのだな」

 黙ったままのセイに、男は微笑んだ。

「いいだろう、その頼み、引き受けた。そう言う話を聞いたからには、見届けてやらんとな」

 知らず伏せていた顔を上げ、若者は少しだけ表情を緩め、深々と頭を下げた。

 二つの一族を、一度に殲滅する計画が、始まろうとしていた。


 本当に、来ていたのか。

 そんな顔で、葵が義父の顔を見つめた。

 ウルの方も、婿の顔を穴が開くほどに見つめ、嫌そうに顔を顰める。

「お前、何しに来た?」

「あんたこそ、何でここにいるんですか?」

「関係ないだろうが」

 素っ気ない大男に、葵は目を細めた。

「関係なくないでしょうが。ちゃんと、お義母さんには、言って出て来てるんですか?」

「オレはガキじゃない。それに、お前の様な方向音痴でもないからな。一々、女房に断りなぞ、入れる必要ないだろうが」

 言い放ったウルを、男は疑いの眼差しで見続ける。

「な、何だ?」

「あんた、何やってるんだ? お義母さんや、朱里に黙ってやらにゃいけない、何をやってるんだ?」

「その件は、口にするわけにはいかんな」

 大男が答える前に、水月が答えた。

「秘守義務が、あるんでな」

「仕事って事ですか? あんた、まだ中坊の年だろ? あんたの保護者って、その年でそう言う事させる人じゃ、ないでしょう?」

 律のことも、よく知っているようだと笑い、少年は頷く。

「あいつ経由の、仕事じゃないんだ。お前、こいつとその女房の話、どこまで聞いてる?」

「え……どこまで、ですか?」

 聞いた話によって、話せる範囲も決まると考えた少年の問いに、葵はきょとんとしてから答えた。

「結婚する前に、一応聞いてますよ。この人たちは、死んだはずの人たちで、この人はセイを、父親として、育ててくれたんだと」

「……この世に戻った経緯も、聞いてるのか?」

 目を剝いて驚く大男に構わず、内心驚きながら少年が更に問うと、葵はきょとんとしたまま頷いた。

「ですけどそれは、お義父さんにもお義母さんにも言うなと、セイに口止めされてるんで、その辺で」

「? 何で、口止めするんだ? 事情は、こいつの事情だろう?」

「さあ。オレたちが内輪の話をする時は、この人たちも夫婦揃ってることが多いですから、お義母さんにその事情がばれねえ様にだと、勝手に思ってるんですけど」

 ウルが変な顔になった。

「ライラにも、事情は話しているんだが……妙な口止めをしたもんだな、セイは」

 首を傾げるウルの前で、水月は目を細めた。

「ん? どうした?」

「いや、気にしても仕方ない事を、つい考えてしまっただけだ。それより、お前の事情は? 話で聞く限り、思いつめる事案のようだったが?」

 葵が詰まった。

「いや、こっちだけ事情を話せってのは……」

「オレたちのは仕事だ。お前の話は、個人の件だろう?」

 にやりとする少年に、ウルは何とも言えない表情になった。

 これは、言いくるめる方法としてはまだ序の口だが、この程度で言いくるめられるのが、葵と言う男だった。

 というより、思いつめすぎて煮詰まっていたのか、男は深い溜息を吐いた。

「伯母が、教えてくれたんです。昔、滅ぼし損ねた一族の隠れている場所が、判明したって」

 あっさり吐きすぎじゃないのかと、水月が内心呆れる前で、葵は顔を歪めた。

「昔、邪魔しちまったから、あいつがオレに知られたくねえ気持ちは、分かるんです。でも、聞いたら、いてもたってもいられなくなっちまって……」

「邪魔? 足手まといならともかく、邪魔をしたのか。どんな?」

 少年は、男の重い口を上手にほぐしながら、事情を聞きだした。

 葵は、珊瑚と名乗った叔父の出会いも含め、一族の事情を話し出した。

「その一族とは、お前のお袋の親族の事だろう? お前、そんなに憎いのか?」

 ウルが目を細め、話を遮って尋ねた。

「……当初は、思い当たらなかったんですけど、あの人たちの挙動を見てて、疑い始めたんです」

 母親が死んでから数日後に、親族を名乗る男が訪ねて来た。

 普通に嬉しく思って、一族の元に身を寄せたが、ほんの数か月の間で、違和感に気付いた。

「一定の力を持つ者しか認めねえ、そんな一族で、人間と混じった者やその子すら、平然と下に見る人たちだった。オレはまだ、ましな方だったが、他の同じ立場の子供たちや、力を持たねえ人たちは、肩身が狭い思いをしてたみてえだった」

 ある疑いを持った時、そんな人たちにそこを出る事を勧めたのだが、断られてしまった。

今考えれば、肩身が狭いって言う生易しい思いではなかったのだと気づけるが、当時そんな事を考えられる程、世間ずれしていなかった。

ただ、胸に沸いた疑いで頭が一杯で、出来れば一族から遠ざかりたいと、それだけを考えて逃げ出したのだ。

逃げ出してから頭が冷え、後悔した。

「あそこに、お袋の無くなった首が、あるんじゃねえかって。それなら、見つかるまでは、あそこにいた方が、良かったんじゃねえかって、そう思い当たった時には、その一族の居場所が、分からなくなってました」

 一族が、身の危険を感じて、逃げたからではない。

 葵が、そこにたどり着けなくなっただけ、だった。

 その証拠に、あの殺戮の場に出た時、昔のままの風景が広がっていた。

「中々、堂の入った方向音痴なんだな」

 感心する水月の傍で、ウルが目を細めたまま、尋ねた。

「その昔の件で、セイはお前が、ここに来ることを良しとしていないわけか。よっぽど、酷い邪魔の仕方をしたんだな」

 葵が黙って、肩を落とした。

「母親の仇を前に、暴れ過ぎたか、逆に血縁を傷つける事を躊躇って、セイを止めたか。どっちだ?」

「……」

 葵は顔を伏せて、首を振った。

「……違ったんです」

 もう、吹っ切れた事だ。

 だが、誰かにこれを話すのは、これが初めてで、その反応が怖くて、男は顔を上げられなかった。

「お袋に止めを刺して、首を持って行ったのは、あの人たちじゃなかった」

 その真実を知った時、その真意を確かめる前に、葵は取り乱していた。

 取り乱して、頭の中が、真っ白になってしまったのだ。

 気づいた時は、セイに襟口を攫まれて、地面を引きずられていた。

 一緒に来たらしい者たちに首尾を告げ、別れた後に若者は短く呟いた。

「気が触れたなら、何で、向こうを襲ってくれないのかな……」

 その一言で、自分がセイに襲い掛かって、返り討ちになったと知り、青くなった。

 つい、自分の感情に流されて泣いていたが、その涙も見事に引き、その場で土下座してしまう。

「まあ、いいよ。数は減らしたし。それより、あんたの母上の話の方だ。あそこまでばらされたんなら、本当のところを知った方が、いいだろう?」

「お、教えてくれるのか? つうか、お前、聞いてんのか?」

「聞いてるけど、私からは話さない。本人を呼び出したから、歩いている間に行き会うだろ」

 聞けば、その当人を呼び出す使いを、珊瑚に頼んだらしい。

 おろおろする葵が逃げようとするのを、セイはうまく宥めながら江戸へと向かい、その途中で呼び出された若者と、顔を合わせた。

「その若者ってのが、お前の母親を殺した奴、か?」

 葵が頷いた。

「で、お前のよく知る、顔を合わせるのが、辛くなる相手だった、と」

 再び頷く男に、水月は尋ねた。

「じゃあ、ここに根付いた奴らは、関係ないのか?」

 葵は、強く首を振った。

「事情を聞いたら、確かに止めを刺したのも、首を隠したのもそいつだったが、その前に村の奴らを煽って、お袋を襲わせたのは、その人たちの一人だったんです」

 恨みはあるが、やはり汚い呼び方が出来ない男に、少年は目を細めて相槌を打った。

「そうか。つまり、居場所を突き止めるつもりではあるが、その後は悩んでいると言う事か?」

「……あいつの手を、煩わせるのも、気が咎めると言うか……」

 大男と少年が、黙って顔を見合わせた。

 こういう、優柔不断になっている者がいると、どんな計画にも支障が出る確率が多くなる。

 だが、この婿が、妙に頑固な一面があるのは、ウルもよく知っていた。

「……今なら、例の奴らもいないだろうし、その囮となる者も来ていないだろう」

「ああ。いくら何でも、そこまで気は早くないだろう」

「なら、行ってみるか?」

 顔を上げて目を丸くする葵に、水月は念を押した。

「ただし、その家内には侵入しないぞ。騒ぎが起きては、オレたちの仕事の方に障りがある」

 真顔の少年に、男も真面目な顔で、深く頷いた。

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