レフレックス

馬籠セイ

第1話

ここで語られることはある人にとっては「真実」のことであるが、別の人にとっては「真実ではない」物語である。断言しておきたいのは、それが何かを捻じ曲げた嘘偽りであると誰かの妄想というわけではないということだ。そうであるならば、その前文の意味はどう捉えればよいのだろうか。嘘でも妄想でもないという時、それは事実と呼ぶべきだろう。しかし、事実が真実と等位記号で結ばれることは自明の理ではない。紛れのない事実が存在していても真実はいつも闇の中にある。私たちが感じることのできる世界なんてものは有限で、そこに存在している事実の集合体なんて私たちの心の大きさより、きっとずっと小さい。見える事実は周知のものになっても、真実が世間に広められるなんてことはない。そんな事実と真実の境界、あるいは純粋に理想的な混沌に迷い込んだのがこの物語の主人公・小野誠、17歳の高校2年生である。


小野誠は真実を探そうとしていた。それは、自身の名前の意味を探求する営みでもあった。そんな風に言ってしまうと彼は稀代の哲学青年のように聞こえてしまうが実際はそうではない。仰々しく真実と言ってもたいそうなことは殆どしていない。彼が行っていたのは高校2年生の彼が日常生活の中で無理なく出来るものだけだった。例えば、お年寄りに席を譲るとか、ご飯は残さず食べるとかそんなことでよかった。人として間違ったことをしないことが彼にとっての真実だった。そのような真面目な行動のせいか少し気難しいと思えるところがないことはなかったが、自らは決してしなかったが時には友達付き合いで校則違反の買い食いをするくらいの柔軟さを持っている少年だった。ただそんなことをする度に彼の良心は少しずつ痛め付けられていることを彼は見て見ぬふりをしていた。

そんな彼は誰からもごく普通と言われるような家庭に生まれた。両親は共働きで、小学校のころから公立の学校にずっと通っていた。周りには彼と同じように所謂「ごく普通」の環境で育った人々で溢れていた。しかし、そんな普通に囲まれた人生にも普通じゃないことなんていくらでも起こりうる。誠にそれが降ってかかってきたのは秋の風が心地よくなってくる頃だった。

その日、彼は人気のない夕暮れの砂浜を散歩していた。気持ちのよい風の吹く黄昏時で明日の学校のことなんかを考えていた。何度目かも分からないありふれた道のりだった。

いつでも普通は簡単に破壊されるのに人はその多くを覚えておくことが出来ない。或いは簡単に壊されている日常に気がついていないだけなのだろうか。そうはいっても、何気なく過ぎ去っていく日常の中にあるほんの少しの異常事態なんて自分に大きな被害がなければ忘れ去られ行ってしまうものだろう。対岸の火事を我がこととして消しに行く人なんていないのである。

いつも通り散歩をしていた誠はその砂浜で20代ほどの二人の男女が抱き合いキスをしているのを見かけた。情熱的に1組の男女が愛を育む光景。ドラマや映画なんかで観る家族と観るには少し恥ずかしいようなしかしそれを表にも出せないような、あの胸の中がざわつくシーンにそっくりだった。2人の人間が愛を育むありふれた光景である。

他の高校生男子であればその光景に魅惑されて見いってしまうだろうか。あるいは、その未知の刺激に耐えきれず逃げ出してしまうかもしれない。

しかし、彼の反応はそれらとは全く違った。彼はその場にうずくまり、吐いた。2人の間にまとわりつく激しい情動に、体の中が汚されるような気がしてそれに耐えられなくなったのである。それは、不可思議でもあった。彼は高校生であるから先程言ったみたいにドラマなどでこの手のシーンなど幾度となく見たことがあるはずであった。他の人の間に生まれた情動に魅力は感じなくとも、嫌悪していた自覚は全くなかった。そのため、自らに生じる感覚の理由を理解することが出来なかった。その得体の知れない知れない恐ろしさで、彼の血流は蠢き、脳内は真っ白になった。頭の中がグルグルと回り、何故か心地よい夢のような気分になって彼はいつの間にか眠ってしまっていた。

どれくらいの時間が経ったのだろう。気がつくと彼は全てが真っ白な世界にいた。それは大袈裟な比喩などではなく状況の克明な描写である。そこには汚れが存在しなかった。全ての人は白い服を着て、白い仮面をつけ、良くわからない白いものを食べていた。そこはとても美しく全てが「完璧」な世界であった。彼はそこを自分があの時に感じたどうしようもない気持ち悪さから逃げるために見ている夢だと思った。だって、それくらいにこの世界は奇妙だったのだから。


「全員が同じように物事を身につけることが出来ます。悪事は存在せず、今日と同じような明日、明日と同じような明後日が来ます。」


そんな宣伝文句が大きく街の看板に書かれていた。夢のような気持ちの悪い文句だと彼は思った。でも、同時に理想の世界だと思った。そのような世界では誰も悲しまないだろう、悲しみは人々の違いと悪い心から生まれると彼は思っていたからである。ここにはそれがない。その代わりに大きな喜びもないのではないかそんな気もした。全員と全て一緒だったとしたら喜ぶポイントなんて分からない。例えなにかが出来たって喜んでみたってそれはみんなが出来ることであって謂わばデフォルト装備だ。スマホを買って電話が出来るなんて喜ぶ人はいない。

そして、僕をここに連れてきたのかもしれない「性欲」もここには存在していなかった。それをなぜ知ったかといえば宣伝文句の隣の看板にはこうあったからである。


「N02とM03による完璧な生産」


下にはこんな説明が付されていた。


「N02で生殖細胞が培養され、その細胞をM03で育み皆さんは生まれてきました」


つまり、N02という機械によって人工培養された生殖細胞からおなじくM03という機械によって子供が文字通り「生産」されているということである。人間によって統制された科学技術によって均質な子供たちが生まれる。これが永遠に繰り返される。つまり、この世界の人々はみなクローンなのだ。個性なんてものが一切ないこの世界らしいシステムである。個体同士で勝手に惚れあったりしないように性衝動についてもプログラムされているのだろう。下には更にこうあった。


「生まれてきた子どもたちはシステムが選んだ2人によって育てられます。」


誠は更にぎょっとした。ここには性の自由だけでなく恋愛や結婚、居住の自由すらないのだ。こんなシステム現代社会のあらゆる良心から逸脱している。そんな風に感じた。しかし、同時にこんなシステムをここの住人達は何食わぬ顔で受け入れている。とても不可思議なことだと思った。それもまた彼らに埋め込まれたプログラムなのだろうか。或いは、そんな人をクローンと「生産」し続けているのであろうか。とにもかくにも、こんな悪夢みたいな状況を普通に受け入れて暮らしている。誠にとってそれはもしかしたら核戦争を迎えること以上の恐怖であった。異常さを認識出来ない異常さというものが人間にとって一番恐ろしいのかもしれない。

こんな非人道的なシステムであったとしても、全員が受け入れるようにプログラムされていれば悪は生まれないのだろう。悪はそれを憎むものがいなければ生まれ得ないのだから。そんな狂ったような完璧なシステムがこの世界の全てであった。全ての命がある時を迎えれば尽き、とどこうりなく補充されていくそれが永遠に繰り返されるそれがこの世界の唯一の理だったのだった。

お面を被った人々その人たちは皆同じ服で同じお面を被っているため性別が分からない。誠は彼ら、または彼女らを勝手に「白の人」と呼んでいた。短絡的な命名であることは分かっていたがそれが、その時の彼にとって最もしっくりくるその人たちの「名前」だった。「穢れのない」その人たちを的確に形容しているように思えた。

彼はこの「白の人」たち世界で酷く浮いていた。当然である。彼だけが「違う」のだから。彼は白の人たちから迫害、そこまでいかなくとも「いじめ」そんな言葉で括られるような酷い仕打ちをされるのではないかと思った。彼が元々いた世界では「出る杭は打たれる」それが無矛盾にまかり通る世界だった。大小の争いの原因は辿っていけば意見の違う他人を受容できないそんなことに帰着していく。

しかし、驚くべきことに人々が彼に向ける視線は無関心であった。彼らは分からなかったのである。違うものを知らなかったのである。それ故に、「異物」に何もすることが出来ずただそれに関心を持つわけでもなく、かといって殺すでもなく適当な小屋を用意してそこに住まわせ、食事を与えて、ただそこに「置いて」いた。手錠も足枷も拘束らしいことは何もされなかったが、この世界で生きていく術を知らない誠にとって逃げるという選択肢は残っていなかったので、この仕打ちを甘受することにした。まるで外国から連れてこられた愛玩動物達が持ち合わせていた主体性を自然と飼い主に預けていくように、誠は白の人たちの世界に従属した。

白の人が持ってくる食事は誠が来たときに見たそれだった。それはこの世界にしかない特別な食べ物らしい。少なくとも前の世界では見たことがない。例えるなら食パンのような味がする気がする。でも、そんなあやふやな感覚になるそんな食べ物だった。驚くかもしれないが誠は毎日食べていたものについてそんな感想しか持つことが出来ずにいた。同じものしか食べないのなら味なんてものはどうでもよくなるのかもしれない。個性とかいうものは良くも悪くも優れたものと劣ったものを必要とするものだ。何かと比較することなしに何かを褒めることも貶すことも出来ない。食パンのような味がするなにかは、食パンのような味がする何か以上の評価も以下の評価も下されることのないそんな特別な場所に位置していた。

そんな食事を持ってきてくれる人の姿を誠はあの日まで性格に記憶できていない。というのは、白の人はみんなクローンで同じ見た目をしているため、それが同じ人なのか違う人なのか分からなかったのである。食べ物と同じように、人だってみんな同じだと分からなかった。そもそも、お面なんてつけていたらもし僅かな違いがあったところで気がつくわけがない。これは同じ衣装を着た大所帯のアイドルグループのメンバーがわからないという程度のことではない。今起こっているのはメンバーの顔がみんな同じのアイドルグループっていう事態である。例えその人がいくら好きだとしても、そんなのはやっぱり意味不明である。そこにはもはや好きな「あの娘」は存在していない。それはもはや、有象無象の「あの娘」の不完全な残像が存在しているに過ぎないのだから。食べ物には元々関心をの薄かった誠でもやはり人間が皆「同じ」なんて事態は「同じ」人間として受け入れ難いと感じていた。

「事件」が起こったのは彼が白の人の世界に来てから2週間ほどたった後、同じ味にも姿にも慣れ始めてきた頃である。お昼になって、いつものように食事が運ばれてくる。そんな時だった。偶々緩まって長くなっていた靴紐を、食事を運んできてくれた白の人が踏み姿勢を崩し派手に顔から転倒してしまったのである。

顔から転んだ「その人」が痛そうに顔を上げるとお面が割れていて、その人達の顔を初めて見ることが出来た。誠がその顔を見て初めて持った印象はただ美しいということだった。肌は雪のように白く鼻筋は通り、口は適度に小さく、輪郭は丸すぎす角張り過ぎず整っていた。彼が特に印象的だったのは「その人」の目である。その目は二重で大きく何もかも映してしまうのではないかと思われるくらいに澄んでいた。彼がその人の顔をまじまじと見つめているとその人は状況が理解できないのか不思議そうに彼の顔を見つめていた。その人の目から注がれる視線は彼の心の最も繊細な部分をひどく焼いた。真皮まで焼かれてしまうのではないかと思うくらいに視線の温度は高かった。しかし、正確に言えば彼の心は勝手に焼かれていたにすぎなかった。その人の視線は端から見れば特別に何かを訴えるほど強くなかった。安易な物言いが許されるのであれば、彼はその人に見惚れていたのだろう。実際がどうであろうと、その人の顔は彼の人生で最大の衝撃であったし、今まで見た人間の顔とは絶対的に違う何かを感じさせるものだった。彼が見た人間の顔で最も美しいものの1つに違いなかった。

しかしながら、それはとても強い気持ちのはずだったのに、誠はその理由を言葉にすることが出来なかった。そんな中でも、誠はそれを単純に「恋」というにはあまりにも稚拙だということだけは確信していた。彼がその人の顔に見惚れていたのは確かな事実である。しかし、美しいものに見惚れることを全て恋というなら恋は特別なものではなくなってしまう。少なくとも彼はそう思っていた。それは、テレビや映画の容姿端麗な人達全員に恋を一々していたら人間はみんな大の浮気者だ、と彼がそう感じていたからだろう。彼はメジャーなアイドルが好きだった、俗にいう推している状態だっていっていい。高校に入学したころに友達に勧められてはまってしまった。その後2年ほど出演番組や掲載雑誌は欠かさずチェックし、イベントにもライブにも少ない小遣いをやりくりしながらなんとか参加していた。高校生らしい慎ましやかなファンで、彼女が彼の絶対的な生きがいだった。彼の生きる意味と言ってしまえば大げさだったが、それに匹敵するくらいの存在になり得るくらいに彼は彼女が大好きだった。でも、そんな彼女への真っ直ぐな想いは恋ではなかったと彼は信じているし実際そうだっただろう。それから3年後、まだグループを卒業したばかりの彼女が若手イケメン俳優と電撃結婚したって彼は悲しくなかったし、彼女へ落胆の声をSNSに投稿する一部の「悪い」ファンとは対称的に、彼の真面目な性格もあって推しの幸せを純粋に祝う「模範的な」ファンであり続けたのだから。彼はアイドルファンとしての道を全うしたのだった。

その人が美しい顔でこちらを見つめる理由が誠と全然異なっていることに気がついたのはしばらくしてからだった。誠はそれに気づいてはっとした。その人達にとって自分と全く同じ他人の顔を見るとか見られるなんてことはあり得ない行為だったのである。その人は人生で初めての体験に驚くと同時に恐怖を感じていたのだろう。僅かにその手が震えていることに気がついた誠は焦ったようにその人の顔から目を反らし焦った調子で、

「ごめんなさい。」

とだけ、早口で言って何もなかったみたいに床に落ちてはいたけどまだ十分に食べることの出来る食パンもどきを頬張った。緊張していたからか変におどけて見せようとした顔が引きつっていることにも気が付かず誠は食パンもどきを夢中で頬張っていた。

その人も誠のそんな行動に少し笑みを見せたかとも思われたが、すぐに後ろを向いて足早に駆けていってしまった。脱兎のような一瞬の早業だった。

誠は急いで詰め込んでようやく細かくなってきたパンを飲み込みながら開けっぱなしの戸口をただ見つめていた。

どれくらい見つめていたのだろう気がついたら夕方になっていてまた食事が運ばれてきた。いつもは恐ろしいほどに同じ手順で手早く行われるはずの配膳が少しもたついていたので誠は昼間の人がずっと運んでくれていたんだという気がした。昼間のことで少し動揺しているのだろうかそんな気がした。しかし、それは誠のそうあってほしいという欲望にすぎない。その人は傷のない綺麗なお面をつけていたから昼間についた顔の傷だって確認できない。それに、いつもより少しくらい配膳が遅くなることなんて誰にでも起こりえることだ。そもそも、今目の前にいる人が昼間の「その人」だったからといって何かが変わるなんてことはない。少し配膳がゆっくりでもそれが終わればその人は昨日までみたいに帰っていくし、誠は同じ様にそれを食べるだけだなのだから。特別な「事件」が起きたなんて思っているのは誠だけで、その人たちにとっては蚊に刺されるぐらいの出来事なのかもしれないのだ。自意識過剰なんて世の中で一番恥ずかしい。誠はそう思っていた。自分に注目が集まっていると思うことも、それを相手に求めていることも、そんなナルシシズムの権化みたいなことは誠には耐えることが出来なかった。『山月記』の李徴なんて誠が理解できない人物、ぶっちぎりの一位に高校1年生の時に学習して以来君臨し続けている。

そんなことを考えていたので誠は夜が深くなっても落ち着かず寝付けないでいた。「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」、そんな『山月記』のフレーズが脳内にリフレインし続けていた。そんなことをしているうちにそろそろ眠らないと思った誠は天井を見つめながら円周率を数え始めた。小さいころから暗記が好きだった誠にとって円周率の暗唱は精神安定剤みたいなものだった。どんなに辛い日も円周率を数えてさえいれば安心して眠ることが出来た。しかし、今回はいつもとは違いなかなか寝付けない。それに焦燥感を感じながら誠は数え続けた。正確には誠は100桁しか覚えていないので100桁数え終わったらまた最初ん戻って何度も何度も唱えているのである。明け方になっていつもよりもずっと長く円周率を数えてやっと疲れ切った誠は寝てしまった。その頃には流石にここは夢ではないという意識はあったから夢で眠という初めに抱いていた矛盾とは戦わなくなっていた。人の慣れというものは恐ろしいものである、自らの生死に関わらなければ明らかに狂った世界だって受け入れられるものだ。

しかし、誠が目を覚ますと彼はあの砂浜の上にいた。時間は空が真っ暗だったので初め正確に分からなかったがスマホを確認してみると倒れた日の22時16分だと分かった。おそらく気を失ってから5時間くらいしかたっていない。2週間ほど異世界にいたような気分の誠にとっては不思議な感覚だった。

しかし、そんな不思議を悠長に考えている暇などなかった。こんな夜遅くに帰宅すれば大目玉は必須だし、遅くなった理由がカップルのキスシーンを見て気絶していたなんて言えるはずがない。だとしても、どうすればよいのか。取り敢えず家の方向に向かいながら走り出したけどその脚の動きとは対称的に心は家に帰るのを拒絶していた。

そんな時だった。誠は初め信じることが出来なかった。目の前にあの人、白い人が現れたのである。しかし、その人はお面をしていなかった。あの美しい顔を外の世界に晒しながらゆっくりと誠の前に歩み寄ってくる。

「ビックリした?こっちで会うなんて思ってなかったでしょ?私も悩んだんだよ。こっちにいくかどうかさ。でも、可哀想になっちゃってせめて今の君には伝えておこうかなって思ったんだ。たとえ、全部がなかったことになったとしたって」

その人がそんなことを話している間、誠はただ呆然として立ち尽くしているだけだった。あの人に会えたことはなんだか嬉しい気がしているけれど、状況が飲み込めなかったし、最後の「全部がなかったことになったとしたって」というのが気になった。自分がなかったと思っている白の世界から信じられないことに人が来ているのにそれがなかったことになるなんて。まるで、良くできた騙し絵ではないか。騙し絵だと知らないうちは存在を認識出来なくても分かってしまえば認識は容易だ。しかし、良くできた騙し絵はもはや現実と分かたれないそうしたらもはや騙し絵ってこと自体がなくなってしまうのではないかそんな気がしてならない。ないと思っているのにある、あると思っているのにない、まさに誠の頭の中はそんな混乱の中にあった。

すると更にその人は語りかける

「知りたいの?知りたくないの?大丈夫だよ。忘れちゃったことを忘れちゃえば何もなかったことと一緒なんだから。だったら、知った方がいいんじゃない。どうせ今からだったらいつ帰っても同じだけ怒られるんだし。」

前半部分はよく分からなかったけどその人のいう通り今から多少遅くなろうが状況は変わらないのは事実だった。だったら、話を聞くのが得に決まっている。そう思った誠は、

「教えてください。あなたは誰であの場所はどんな場所なのか。」

自分でもこんなドラマみたいな台詞を言うときがくるなんて思わなかったから、言った後に少しだけ恥ずかしくなった。

「主人公に僕はなれない」、生まれつきの内気で遠慮がちな正確からそう思っていた誠にとってはそんな「どこかで聞いたような」言葉1つ1つが恥ずかしかった。よく考えて見ればそんなことを恥ずかしがること自体が一番恥ずかしいことだという簡単なことにも気がつけないほど誠は驚きと興奮の中にあったのかもしれない。

そんな誠を全く気にしない様子でその人は語り始めた。

「わかった。教えてあげるね。簡単に言うとさっきまで君がいた世界は君の中、もっと正確に言ったら本来人間が触れることの出来ない心の本当の奥底なの。」

全く意味が分からないのでこう尋ねる。

「それはどういうことなんですか?じゃあなんで今本当はそこにいるはずのあなたとこここで会えているんですか?」

「不思議だよね。あと、君は勘違いしてるかもしれないけどここは君が倒れた場所じゃないよ。ここは君が倒れていた場所が君の中に移植された時空間。君の心の奥底の存在が到達できる最も外側の空間だよ。」

「でも、ちゃんと本物ですよ。他の人だって車だってちゃんといるし、両親からの連絡だって沢山来てるじゃないですか。」

「あはっ、勿論、移植したからそうなるよ。賢そうな見た目してるのに案外君はお馬鹿さんなのかな。」

何だか失礼な人である。それに、お馬鹿さんなんて本当に使う人を初めて見た。

「笑わないでくださいよ。だっておかしいじゃないですか。これがもし本当に僕の心の中だったらどうしてこうも現実がこんなに僕の前に正確に存在しているんですか。夢とかかって普通そういうのぐちゃぐちゃじゃないですか?」

「確かにそうだね。でもね、そうしたら私がここに存在している説明が出来なくなるよ。夢に出てきた人が現実世界に現れて不思議なことを語りかけるなんて、そっちの方がよっぽどフィクションじゃない限り無理じゃない。」

「言われればそうですけど、なんだかおかしいんですよ。こんな夢みたことがない。」

それでも、その人はそれでも落ち着き払った顔でこう返す。

「夢じゃないよ。現実だよ。でも、本物の現実でもないよ。君の心の中だからね。」

この発言は全くもって意味不明である。夢ではなくて、現実なのに本物の現実ではない。本物だから現実ではないのだろうか。誠の中というか世間の常識に180度反している。こんなに澄ました顔でこんなことを言える人がいたことに驚きである。

「こいつ、矛盾したことを堂々とっておもったよね。」

この人頭のおかしいことを言いながら、冷静に心まで読めるのだろうか。そんなことを思っていることになんて、勿論構わずにその人はすすめる。

「心なんて読むのは簡単だよ。僕は君の心の奥底の一部であって全てだから。でも、君が私の心を読むのは不可能だよ。だって、君は本来私たちに触れられないはずなのに強いショックで心の奥底に事故みたいな形で入り込んでただけだからね。」

内が外を分かって外が内を分からない。普通逆ではないだろうか。包み込んでいる方が内部を把握しているという方がしっくりくるし、そうでないと社会は成り立たない。

そんなことを考えていることを分かっているはずのその人はそんなこと気にしていないようだ。これが僕の奥底にあるものだとしたら僕は相当性格が悪いなと誠は思って何故だか笑えてきた。

「失礼だし、それに笑ってるの自分自身だよ!」

心が読めるのは本当らしい。

「あと、君、ずっと見当違いなこと考えてたね。私らが君に無関心だったのはどうしたらいいか分からなかったからじゃなくて刺激を与えて君をあれ以上動揺させないようにするため。それに、君の顔を見てたのは見られることに戸惑ってたからじゃなくて、あれが君をここから出すトリガーでそれを君自身が発動させたことに驚いたからだよ。」

何が何だか全く分からないの。動揺させないためは逆に怖かったから失敗の気はするけど分からなくはない。しかし、トリガーを自分で発動させたというのは到底理解出来ない。あの時転んだのは白い人が靴紐を踏んだからで誠に原因は万が一にもなかったのだから。

その人は続ける、

「あそこはあくまでも君の内部だよ。本来触れることの出来ない領域でもそこに君がいる限り君があそこで起こる全てのことのきっかけになるの。あそこの場合は君がここについて知りたいと思うことがトリガーってもしものために予め設定されてた。心の奥底は存在だけでは君にとって無害でも知ろうとすれば劇物だからね。勿論これは誰の心の奥底でも同じだよ。」

確かに、あの異様な雰囲気やその人の飄々として掴み所のない感じは危ないだろうと思う。それに、昔から人が一番怖いと言われてきてるのだからその最も内部が危険なのは頷ける話である。しかし、全てが自分がきっかけとなる世界で自分の知らないことが起きるということは少し不思議な気もした。自分だけが知らない世界の鍵が自分自身なんていうのはRPGとかゲームの世界みたいなものだろうか。とは言っても、ゲームの世界には誰かがそれを教えてくれる攻略本があるけど、今回は違う。決定権は自分にあるのに他の人やその理が未知の世界、赤ん坊が世界に産み落とされたような状況に近いようにも思える。

あの世界は、ゲームなのかリアルなのか、ゲームはリアルではないのか。プレイする主体はリアルでもその世界がリアルではなければリアルと呼べないのか。誠の思考は前に行ってきたところや行ったことがないのに行った気になっている場所を堂々巡りしていた。

「リアルかどうかなんて関係ないよ。夢か現か、現実か非現実かなんてどうでもいいんじゃない。全て自分のことなんだから、本当だと思ったら全部本当だし、嘘だと思ったら全部嘘なんじゃない。」

「確かにその通りかもしれない。」

誠は白い人のそんな大雑把な意見に何故か納得してしまった。

白い人はそれを読み取り、話を核心へと移していく。

「これからが本題だよ。あの世界は君の心の奥底って言ったよね。心の奥底っていうのはその人の強すぎる願いによって出来上がってるの。そこではその人の理想が実現されるんだ。そうしないとその人の心は願いに押し潰されて壊れてしまう。だから、別の場所でどんな形でも発散させなくちゃいけないの。」

欲望を溜め込んでいけないというのはよく聞くはなしだが、あんな禍々しい世界が自分の願いなんて驚きである。クローンしかいない無味乾燥な世界なんてつまらないに決まっているのに。

「あんな退屈な世界っておもったでしょ。大丈夫だよ。あれくらい狂ったうちにすらはいらないさ。同じような世界を持ってる人なんてごまんといるよ。」

その言葉に安心した反面、あの人がいう狂った世界が恐ろくなってくる。

「君の願いはみんながルールを守って楽しく普通に暮らすこと。それで、それが極端に実現されてしまった世界が生まれ目しまった。要するに真面目だっただけ。私たちの顔は多分だけど君がなりたい顔だよ。だから大体の人の世界の人の顔は容姿端麗になりがちなの。変化しないのは相当なナルシストか無欲な人の世界だけだから安心して。」

きちんと説明されると、こんどは自分の世界観の極端さに恐ろしさを感じてしまう。異常ではないと言われようが、自分が異常と感じてしまうことを自分が持っていることなど恐怖でしかない。あんな世界は間違いなく小説とかフィクションで見るディストピアだ。

「怖がらなくてもいいよ。どうせ忘れてしまうんだから。」

忘れてしまうとはなんなのだろうか。それがずっと引っ掛かっている。聞いてみようとする前に先にその人に答えられてしまった。

「忘れてしまうっていうのは、全てを知ることと同時に起こるんだ。中途半端に知ってるだけじゃ忘れられないし君は自分の中から出れない。よく分からないけど、そういう決まりなんだよね。」

本当である。忘れさせるなら知っている度合いなんて無関係だし、そもそも心の奥底に入ってしまうことをトリガーにして抜け出させてしまって勝手に忘れさせてしまえばいいだけである。こんなに回りくどい方法なんて取る必要はないのだ。

そんな心を読んでだろう、その人はこう言った。

「でも、私はこう思うんだ。そもそも人が心の奥底に入るというあり得ない行為を打ち消すには、奥底について知ってその狂喜でその人を苦しめた後にそれを忘れさせるならっていう更に大きな矛盾が必要なんだって。」

矛盾に対抗出来る矛盾とはなんなのか、逆にそれは正攻法で矛盾していない気がする。それがまた矛盾ならばよいのだろうか。答えのある問題ではないのはなんとなく分かっていもそんな考え事は尽きない。

しかし、ではまだ自分が知らないこととはなんなのだろう。

「あと僕が知らないことって何ですか?」

これは待ってくれていたらしい。

「それは。心の奥底に来てしまった理由だよ。」

それはカップルのキスを見て気持ち悪くなったから。不思議だったがそんなところだろうが、それくらいのことで心の奥底にいくなんておかしい。日常に普通に存在しえる状況なので、もしそれがきっかけになるのだとしたら、心の奥底を人間に触れられないようにしておく手間と対応が大変すぎる。

考えられるのは、恋人とかその人にとって絶対にキスをみられたく人のそれを見たくない人のそれをみてしまった場合である。しかし、誠には好きな人も恋人もいなかったからそれはありえない。もしも、大好きなアイドルのSちゃんだったらあり得なくはないけど・・・まさか、そうなのか!

「そのまさかだよ。君は余りの衝撃に倒れちゃって心の奥底にいっちゃったって訳。私たちも驚いたよ。そんなことあるなんてさ。想定してるわけないじゃん。」

何も知らない僕に怒らないでくれよと思いつつ、誠はそのことを聞いて自分自身でもそれがきっかけで心の奥底に自分が飛ばされてしまったことに驚いた。アイドルが、Sちゃんがそんな対象としても好きだったなんて自覚してなかったし、それが理由だと言われると、ガチ過ぎるみたいで恥ずかしい。実際にガチ過ぎるから言い訳は出来ないのだけど。やっぱり、今まで自分の中にあったアイドルファンとしての自分像が一気に崩壊して形を失ってしまう気分だった。それは別に悲しいことではなかった。アイドルを恋してしまうほど好きになってしまう人なんて少なくないし、推しには分をわきまえて何もないように隠し通せばいいだけなのだから。

しかし、そんな人たちを心のどこかで馬鹿にしていた自分自身を知って悲しくなった。真っ直ぐに生きようとしていた自分が人を馬鹿にするなんてことが悲しかった。偽善者だった。酷い悪人と糾弾されるよりも中途半端な善人と言われることの方が何倍も辛かった。裁かれる罪を償わされることより、裁きもされない心の中の罪悪感を抱え続けることの方が過酷だと誠は感じた。小さな針で良心を刺され続けているような感じだった。

「ということで、全てを知った君はあと1分くらいで全て忘れるよ。トリガーを失くすために衝撃のキスシーンの少し手前まで時間を巻き戻してそれを見ないようにしてあげる。超法規的措置だよ。今度は上手くやってね!」

言いたいだけ言ってすぐに忘れさせるなんて僕は心底性格が悪いらしい。しかも、超法規的措置の使い方だってこれでは救われるのはSちゃんみたいな言い方である。でも、スキャンダルは見ない方がいいと思えば僕にとっても超法規的措置なのかもしれないと、誠は思って少し頬が緩んだ。それに、上手くやるのだって本来はアイドルのSちゃんの方ではないのか。アイドルに恋人なんかいないと本気で信じてはいない誠であったが隠す努力くらいはしてほしいと思う。でもそれは、不思議とイライラとした気持ではなかった。今度は上手くやれよというSちゃんに対する摩訶不思議な親心のような気持であった。忘れてしまうからなのか、ショックが大きすぎたからなのかSちゃんのキスに対する衝撃はもう消えていた。

そんなことを考えているとあの人の気持ちを全く無視したみたいな変に甲高い声が響く。

「そういうことだから、じゃあね。バイバイ!」

その人が何故か笑顔で手を振っていた。最後まで勝手な人だった。絶対に記憶に残らない、拍子抜けしてしまうくらいに明るい「バイバイ」を言ってくるなんてただの自己満足ではないか。正確には勝手なのは、人の別れの挨拶に細かい文句をつける誠自身なのだがこの際細かいことは彼にとってどうでもよかった。何もかも吹っ切れてしまったのか、何故だか不思議と明るい気持ちになって誠は手を振っていた。大好きなSちゃんのスキャンダルとかそれを見て失神してしまった自分自身とかモヤモヤとしたもの全てが夜風に吹かれて闇の中に消えてしまっていったような気分だった。


秋の風が心地よい夕方に誠は砂浜を歩く。少し何か頭がボーとしていたような気もするけれど、誠はいつも通り歩いていく。しかし、突然何かを思い出したように彼は急に反対方向に走っていった。今日は大好きなSちゃんが表紙を飾った漫画雑誌の発売日だったのを忙しさにかまけて忘れていたのであった。

しかし、書店に着いてみるとその雑誌は置いていない。誠はどうしたものかと焦ってスマホを見ているとやっと気がついた。発売日を1日間違えていたのだ。しっかりものの誠にしてはありえないミスだったが仕方がないので商品を一通り見たふりをして知り合いの店員と気まずくならないようにして帰った。

書店まで走って疲れたので砂浜に戻ることはついぞしなかった。ふと、明日は雑誌とテレビ出演両方あるじゃないかと思い出す。そうすれば彼は無敵だった。それを思い出した、誠は書店でのショックなんかすぐに忘れて意気揚々と家路を急いだ。この記憶は間違っていなかったらしい。

誠は移動中はSちゃんの所属しているアイドルの曲を聴くのが定番のルーティーンだ。その日は先週に発売されたばかりの新曲を聴いててみようと思いスマホでその曲を選ぶ。新曲のタイトルは「レフレックス」。その歌ではこんな歌詞が響く。


レンズ越しで見た世界は必ずどこか歪曲しているよ。

たとえそれが、それがどんなに本当らしく見えたとしても。

「ありのまま」なんてことはあり得ないだろう。

どんなに美しい夢も醜い現実も僕らはレンズ越しにしか見れないのだから。

だから、他人と比べて傷ついてしまうのかな。

でもね、想像して欲しいんだ。

何もかも正しく見えてしまったら僕たちは何が美しくて何が醜いのかきっと同じになってしまうよ。

それは自然でありながら不自然な世界だね。

分かりやすい明るい光に幻惑されて、本当に見なくてはいけない「本物」を見失ってしまう悲しさと心地よさに包まれている。

それはとてもキラキラしすぎているから、夢の美しさは夢から覚めてしまわないとわからないのかもしれない。

でも、夢が美しいとか何が美しいか、本物かなんて誰が決めるのだろう。

自分なのか他人なのか。どちらなんだろう。

そんな問答自体が衒学趣味のナルシシズムなんだろうかなんて思えてしまう。

答えはいつも心の一番奥底にあるって知っているのに、そこには未だ辿り着かないままだ。


何も掴めないような微かな光を求めるような歌詞を体に染み込ませながら、誠は地面を強く蹴った。





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