第五章 呼んでいる海辺 3

 海が、光っていた。

 どこかで見たことがある情景だと、イルシンは思った。いつかどこかで、確かに自分は、この情景を見たことがある。

 暗い海の向こう、右側の――西側の水平線が、仄かに茜色を帯びて明るい。あちらに昼が去り、夜が訪れるのだ。だが、それとは別に、海が光っている。うねる波の下にいる無数の小さなモノ達が、光を放ち、岸辺に立つ少女の姿を青く柔らかく照らし出している。その青白い光は、彼女が〈高出力〉でテレパシー能力を使っている時に体から発せられる淡い光と、同じだった。

【今では、かなりUPOと交じり合ってるようですが、彼らが、この惑星の原住民です。陽光を吸収してエネルギーにしてるので、普段は皆(みんな)で潮の流れに乗ってるだけですが、夜前線が来ると、コロニー単位で昼半球へ移動するんです。その時、コロニー内で役割分担した互いへのコミュニケーション、つまりエネルギー伝達が活発化するんですが、その分、エネルギー変換の反応から散逸する光も増えて、こうして光るんですよ。本当は、昼季の場所でも周りが明るくて分からないだけで、多少は光ってるんですけれどね。何故、昼前線に追いかけられるほうでなく、夜前線に追いかけられるほうの生活を、サン・マルティン地表基地は選んだと思います? 夕季にだけ鮮明に見られる、この現象を継続的に観察するためなんです。ほら、「温かい海へ行こう」って皆(みんな)で歌ってる。これが、この惑星の――大地(ほし)の歌の主旋律なんですね。でも、それだけじゃない――】

 小柄で華奢な姿をした少女は、こちらに背を向け、ほっそりとした両腕を広げて、大気に溶け混じるように深呼吸する。

【海自体も、岩も、砂の一粒一粒でさえ、歌ってる――。皆(みんな)、エネルギー――気――、意識というほどじゃないけれど、精神(こころ)を持ってて、歌ってる――。これが、この惑星の、大地(ほし)の歌――。こうしてディープ・ブルーの力を借りると、とても鮮明に聴こえます】

 成るほど、意識を澄ませば、遠く近く、不思議な音程で響く歌が、辺りを満たしているのが分かる。

【ニコライも、あの時、ディープ・ブルーの力で、この歌を聴いてたんですね。そして、この大地(ほし)の一部になって、一緒に歌ってる……。父様や母様、皆(みんな)と一緒に……】

 柔らかな「声」に、少し涙が混じった。纏った白い服を正面から大きく風にあおられながら、少女は、大海原へ向かって手を広げ、全身で歌を浴びて佇んでいる。白い服は、過去の情景で見た白いワンピースがそのまま大きくなったもののようだ。その白い服が、ふっと動きを止め、少女の細い輪郭をなぞるように静まった。真正面の海から吹き続けていた風が止んだのだ。夜と昼との狭間、凪の時間の到来だ。

【この海辺は、狭間です。このまま海へ進めば、父様や母様、ニコライのいるところへ行けます】

 背を向けたまま、少女は決定的なことを告げる。

【でも、何故か、わたしはまだここにいる――】

 自問するような硬い「声」に、イルシンは居た堪れなくなって駆け寄ろうとしたが、あの時と同じように、体が動かない。そこへ少女は言葉を継ぐ。

【何度隔てられても、どんな彼方からでも、どんなに嫌われようとも、何度でも何度でも――】

 話しながら、少女はゆっくりと振り向く。

【手を伸ばしたい。出会いたい。分かり合いたい。どんなに隔てられても、どんな隔てを超えてでも、あなたの許へ行きたい。あなたへ辿り着きたい。あなたに触れたい。そう思うのは、おかしいでしょうか……?】

 真面目に、困ったように問いかけてきた、その顔が懐かしい。

【おかしくなんかねえよ。それはむしろ、おれの気持ちだ】

 イルシンは、必死に訴える。

【ユウ、おまえがいなくなるのは、嫌だ。頼むから、おれの前から、消えないでくれ】

 イルシンの、心の底からの言葉に、こちらへ完全に向き直ったユウは、大海原を背に、寂しく微笑んだ。

【あなたは、いい人です。生い立ちから人柄まで、最初から、よく分かってた。だから、わたしはあなたに接近してしまったんです。あなたのその気持ちも、わたしが、あなたを利用するために、いろいろとやり過ぎてしまったから生まれたものです。あなたは、UPOに親族を奪われた被害者で、同じUPO被害者のわたしに、同情したに過ぎません。あなたは、とても優しい人ですから。あなたが、『未知』は『敵』じゃない、UPOは『友』になり得る存在だ、と言ってくれたこと、とても嬉しかった。これからの人類宇宙に必要な人を、わたしは守ったと、誇りに思ってます】

【これからの人類宇宙に必要なのは、むしろおまえのほうだろ……!】

 泣いてしまう「声」で、イルシンは懸命に説得した。だが、ユウは首を横に振った。

【わたしは、人類宇宙軍の道具でしかなかった。けれどあなたは、こうしてディープ・ブルーの助けまで得てる。あなたは、凄いです】

 灰色がかった水色の双眸に真っ直ぐ見つめられて、イルシンは戸惑った。

【「ディープ・ブルーの助け」?】

【はい】

 頷いて、ユウは嬉しげに説明する。

【今、あなたとわたしは、ディープ・ブルーの力によって、こうして会えてます。わたしも、ここまで来て初めて、鮮明に理解しましたが、わたし達の個々の意識は、海に浮かぶ氷山なんです。水面上に出ている氷山の一角が、顕在マニフェステイション意識・コンシャスネスとも呼ばれる表層意識。水面下に沈んでいる氷山の部分が、潜在意識。そして、その氷山を浮かべている海が、集合的コレクティヴ・無意識アンコンシャスネスです。心理学でよく示される模型モデルですが、つまり、互いに手を伸ばしたい、触れたいと願えば、集合的無意識を介して緩やかに繋がってるので、〈出力〉さえ足りれば、こうして会うことができるんです。これは、人類が今理解してる物理法則を超えてる、宇宙(そら)を渡る力です】

【宇宙(そら)を渡る力……】

 イルシンはユウの言葉を反芻した。不意に、自分を内包する、とてつもなく大きく深いものが感じられたのだ。

【はい、時空を超える力です。そして本当は、知性がある――つまり、ある程度の意思疎通(コミュニケーション)能力がある生命体は皆(みんな)、多かれ少なかれ、この力を――テレパシー能力を持ってるんです。UPOだけでなく、この惑星の原住民も、人類もです。人類も皆(みんな)、テレパシー能力の素養を持ってるんです】

【人類も、皆(みんな)……?】

 愕然とした思いで、イルシンはユウを見つめた。

【はい】

 ユウは波に素足を洗われながら、語る。

【わたしは、この惑星に帰った時、ここに父や母や友達、皆(みんな)がいると感じました。それは、勿論、皆(みんな)であった分子や原子、陽子や電子の一部がここにあるからというのもありますが、それだけじゃなく、微かに聴こえた大地(ほし)の歌から、宇宙(そら)の広がりと同時に繋がりを感じて、意識の奥底で繋がった皆(みんな)が、時空を超えて――宇宙(そら)を渡って、傍にいてくれる感覚を得たからだと思います。皆々みんなみんな、繋がってるんです。それなのに……、お互いに手を伸ばせば、会えるのに、分かり合えるのに、特に自由に動く体があると、自我が――独自性(アイデンティティー)が消えてしまいそうで怖くて、離れたがる、個を主張したがる。分かり合いたい、離れたい、その繰り返しが、太陽系時代の地球文明期、宇宙文明期、人類宇宙時代の分散文明期を経て、集合文明期を迎えてる、人類の歴史の真実なんだと思います】

 感慨深く述べたユウに、イルシンはもどかしく問うた。

【その、会えるってのは、夢でとか、幽霊になってとか、そういうことなのか? おまえは、やっぱり、もう……?】

 ユウは微笑んだまま頷いた。

【わたしは、〈催眠暗示〉を破るために、死を受け入れました。後は、この海の中へ行くだけです。肉体は、なくなります】

【行くな!】

 イルシンは怒鳴った。どうすれば、ユウにかけられた〈催眠暗示〉は解けるのか。どうすれば、本当の意味で、〈催眠暗示〉を破ることができるのか――。

【――あなたになら、可能ですよ】

 不意に、ユウとは異なる「声」――あの「少年の声」がした。目を上げると、ユウより少し向こう、淡く光る浅瀬の中に、ディープ・ブルーが佇んでいるのが見えた。少年の姿を装ったモノは、切れ長の両眼にイルシンを捉え、断言する。

【あなたはナチュラル・テレパスで、その能力は、《強制的精神感応(コンパルソリー・テレパシー)》とでも言うべきものです。だからこそ、ユウの〈記憶喪失〉を受けても、対抗して精神感応を行なって、辛うじて記憶を繋ぎ止めたんですよ。それに、以前にも、この惑星に降り立ったユウの潜在サブリミナル・意識コンシャスネスに精神感応して、この光る海の〈予知夢〉を見たでしょう?】

 指摘されて、漸く、イルシンは、この情景を以前、夢で見たことを思い出した。ディープ・ブルーは、更に指摘する。

【ただ、あなたの能力は、まだ弱い。ユウを助けるには、もっと能力を高める必要があります】

【どうすればいい?】

 即座に問うたイルシンに、人間ではない存在はさらりと答えた。

【おれを、体内に受け入れれば、能力の大幅な底上げができます】

【イルシン、駄目です!】

 波打ち際から、ユウが叫ぶ。

【そんなことをすれば、あなたは、永遠に軍に身柄を押さえられることになる! 絶対に駄目です! わたしのことは、もう本当に忘れて下さい!】

 イルシンは、にやりと笑ってユウの真剣な顔を見つめ返し、言った。

【精々高く売り付けてやるさ。おまえの命に比べりゃ、安いもんだ】

【交渉成立ですね】

 ディープ・ブルーが、微笑んだ。


          ○


 イルシンははっと目を開けた。

「ユウ!」

 鋭く呟いた声が、そのまま自分の耳に響いた。現実だ。カーテンで囲まれた、最早馴染みの医務室の寝台に、自分は寝ている。

(夢、なのか……? おまえ、どうなったんだ……)

 自分は、ただ、都合のいい夢を見ただけなのだろうか。やはり、自分の知っているカヅラキ・ユウは、どこにもいないのだろうか。無力感や脱力感、喪失感が堪え難いほどに押し寄せてきて、イルシンは、半ば現実逃避で枕に顔を埋めた。

 ヴァシリが医務室に駆け込んできたのは、その約九時間後、一六三二(ひとろくさんふた)時のことだった。

「イルシン、起きてる?」

 親友のいつもより焦った声が、カーテンの向こうから聞こえて、悶々として九時間を過ごしたイルシンは上体を起こした。カーテンを開けて入ってきた同い年の青年の白い頬が、赤く上気している。

「ちょっと前に総本部からの指令が届いたんだけど、大変だったよ。チャン・レイ司令官が更迭されたんだ。UPOの精神汚染を受けてたらしいんだけど。でももう一つ驚いたのが」

 言いながら、ヴァシリは自らの腕端末を操作し、画面に、明日の全体礼の次第を出した。そして、中の一つを指差す。

[地表制圧科陸戦部隊所属ソク・イルシン上等兵を、精神感応科諜報部隊所属へ転属とし、兵長へ昇進させる辞令交付式]

 異動に関する情報が、事前に全体礼の次第に明確に示されることは珍しいが、そこには確かに、イルシンの諜報部隊への転属が示されていた。

「おれがテレパス?」

 イルシンは、俄かに夢の情景が現実味を持って蘇るのを感じた。

――【あなたはナチュラル・テレパスで、その能力は、《強制的精神感応(コンパルソリー・テレパシー)》とでも言うべきものです】

 確かに、ディープ・ブルーがそう告げたのだ。自然、顔に笑みが浮かぶ。

「おれも、くそ野郎達の仲間入りって訳か」

 つまり、あれは夢ではなく〈通信〉で、現実なのだ。ならば、自分は、ユウを救うことができる。

「すぐに、エステベス兵曹長に会えるか?」

 気が急くまま問うたイルシンに、親友は心配する顔で答えた。

「多分、事が事だから、時間ができ次第、向こうから来て説明してくれるとは思うけど……、文句でも言うつもり?」

「いや、ただ、聞きたいことがあるだけだ」

 ディープ・ブルーのことを言うのはさすがにまずいので、イルシンが言葉を濁すと、親友は複雑な表情で寂しげに言った。

「そう。精神感応科への転属は、納得してるんだ……。何でそんなに簡単に納得できるのか不思議だけど……、ぼくの知らないところで、いろいろあったんだね」

「いや、まあ、何と言うか……」

 口篭もってイルシンに、ヴァシリは精一杯という感じの笑顔を見せて応じた。

「いや、ごめん。困らせる気はなかったんだ。昇進おめでとう。また何か、昇進祝い考えて贈るよ。じゃ、また」

 軽く手を振って去るヴァシリの、悄然とした背中をカーテンの向こうへ見送った後、イルシンは寝台の上で起き上がったまま、忙しく頭を巡らせ始めた。自分とて、転属して親友と離れることは寂しいが、それ以上に、今はカヅラキ・ユウのことが気に懸かる。ホセ・エステベスは、はっきりと、「精神感応科診療部隊所属カヅラキ・ユウ上等兵曹という人間はいない」と明言した。人類宇宙軍の名簿は公にされていないとはいえ、極秘事項でもない。大将の息子であり、兵曹長たるホセ・エステベスが、調べればすぐ分かる嘘を吐くとも思えないが――。

「入るぞ」

 唐突に、そのホセ・エステベスの声が聞こえ、カーテンが開けられた。ヴァシリが言った通り、急いで説明に来てくれたらしい。浅黒い肌の少年兵曹長は、寝台脇の椅子に座ると、すぐに話を切り出した。

「もう既に知っているかもしれないが、おまえは、明日の〇八〇〇まるはちまるまる時を以って、精神感応科諜報部隊へ転属となり、同時に兵長へと昇進する。何故そうなったか、情報を開示する許可が下りたので、これから知らせる。暫くの間、黙って聞け」

 そうして、次に響いてきたのは、空気振動を介さない「声」だった。つまり、それだけ極秘の内容だということだ。

【まず、精神感応科への転属で分かるように、おまえにはテレパシー能力があると認められた。悪いが、おれはこの基地内の〈通信〉は全て〈傍受〉している。それで、おまえが九時間前に〈通信〉していた内容及び、その〈通信〉先についても、ある程度掴んで、軍総本部に報告した。結果、おまえの異動と昇進が異例の早さで確定した訳だ。おまえの能力は脅威だ。その能力をすぐにでも掌握したいというのが軍の本音だ】

(ユウは、今、どうなってるんだ)

 イルシンは、最も知りたいことを問うた。

【救命函の中で、無理矢理生かしている状態だ】

 少年兵曹長は率直に告げる。

【精神感応科諜報部隊所属葛木夕カヅラキ・ユウ上等兵曹は、軍にとっても貴重な存在だからな。そう簡単に死なせはしない】

(「諜報部隊所属」……?)

【ああ。彼女は諜報部隊兵だ。診療部隊所属というのは、この基地で諜報活動をするための、偽の肩書きだった。だから、「精神感応科診療部隊所属カヅラキ・ユウ上等兵曹という人間はいない」んだ】

 さらりと説明して、ホセ・エステベスは椅子から立ち上がる。全く、食えない少年だ。

「さて、行くぞ。おまえは、明日の辞令交付式の後、すぐにメインランドへ出立だからな」

「どこへ、行くんですか?」

 面食らって問うたイルシンに、ホセ・エステベスは軽く眉をひそめて言った。

「海辺だ。『夢』の最後に、『彼』から言われていただろう?」

 あの「夢」すら、〈盗聴〉されていたのかと、イルシンは驚きつつ立ち上がった。


          ○


 「夢」の中と同じ、凪の時間の海辺に着くと、停めた小型浮上艇からホセが先に降りた。続いてその後部座席から降りたイルシンは、ホセを追って、波打ち際へ歩く。サン・マルティン地表基地に配属されてはいても、一度も近付くことのなかった海。近付くことの許されなかった海。そこでは、「夢」の中同様に、青白い光を発するUPO達が波間でたゆたっていた。

――【本当は、ユウからの口付けが良かったんでしょうけど、今は無理なので】

 そんな前置きをしてから、ディープ・ブルーはイルシンに教えたのだ。

――【この惑星の海水を飲めば、簡単におれを体内に取り込むことができます。この惑星でおれを取り込んでから惑星メインランドへ行けば、丁度おれがあなたに定着した頃にユウと出会って、おれが底上げした能力で、彼女を助けられるでしょう】

「覚悟は、いいか?」

 ホセ・エステベスが、真剣な眼差しでイルシンを見据えて確認した。

「そんなもの、とっくに決めています」

 短く答えて、イルシンは波打ち際に膝をついた。実のところ、まだ少し、気持ち悪いという感情が残っている。だが、ユウの命には代えられない。イルシンは両手で青白く淡く光る海水を掬って、口に含み、ゆっくりと飲み下した。体温より少し冷たい海水が喉を下り、食道を通り、胃の腑へと落ち――。暫く待ってから、特に大きな変化はないのかと、拍子抜けした思いでイルシンが立ち上がった時、それは、聴こえ始めた。

 歌だった。言葉としては聞き取れないが、旋律があり、思いが伝わってくる。

【温かい海へ行こう――。温かい海へ行こう――。一緒に行こう――。一緒に行こう――】

 それは、「帰っておいで」という言葉にも似た響きで、イルシンを包み込んだ。大海原から立ち昇り、大気へ広がる歌。そして、その歌に、砂も石も、惑星全体が、唱和しているのだ。

「大地(ほし)に満ちる歌……」

 呟いたイルシンに、同じ歌を聴いているのだろう、ホセが無言で頷いた。

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