第四章 終わる旅路 3

【あなた方の言葉で、おれのことを表現するのは難しいですが……、おれは全てのUPOの意思の集合であり、UPOは全て、おれそのものです。この姿は、おれの「声」を初めて認識した人間――ニコライが、おれの「声」から想像(イメージ)したものです。気に入ったから、ずっと使ってるんですが、多分、あなた方にとっても、何も姿がないより、このほうがいいでしょう?】

 切れ長の両眼で、ユウとイルシンを見据え、ディープ・ブルーは淡々と告げた。小柄で華奢、且つ知的なその外見が、イルシンの警戒心を緩め、同時に、怒りを掻き立てた。

(おまえが、ここの人達を殺したのか)

 直接的な問いに、ディープ・ブルーは、表情を変えもせず、答えた。

【ええ。彼らが、おれを勝手に体内に取り込み、免疫機構で攻撃してきたので、おれも反撃しました】

(殺さない方法はなかったのか?)

【ありましたが、その時は、殺さないでおく必要を感じませんでした。でも、今は、あなた方に興味を持ってます。おれを体に住まわせてる人間達や、おれに話し掛けてきたニコライのお陰で。だから、もしあなたがおれの一部を体内に取り込んだとしても、あなたを殺さずに脱出しようとするか、共生するか、あなたが嫌がるなら、おれの一部が死ぬほうを選ぶでしょう】

 ディープ・ブルーにとっての単体のUPOは、人間にとっての一つの細胞程度のものなのだろう。イルシンが納得したところで、ユウが問うた。

【あなたが、さっきから言ってる「ニコライ」というのは、ニコライ・ペトローヴィチ・クズネツォフのことですか?】

 ディープ・ブルーは頷いた。

【ええ。彼は、周り中の人間をおれに殺されながら、おれに敵意を向けませんでした。ただ、「何故殺す?」と訊いてきたので、「攻撃されるから」と答えたら、「ぼくはきみを攻撃しない」と言いました。そして、確かに彼はおれを攻撃せず、受け入れた。だから、おれも彼を殺さなかったんです】

(「友」になったのか……)

 イルシンは、つい先日アサに聞いたことを思い出した。そこへ、ユウが付け加える。

【ずっとテレパスの研究に携わってきた精神医学者が発表した論文にあります。人間の精神には、七歳で意識境界面が完全に形成される、と。〈精神的半透膜〉は、この論文をヒントに創った技なんですが、意識境界面とは、自己というものを定義付けし、他者と明確に分ける意識上の境界面のことです。因みに、意識境界面が完全に形成された後からテレパスになることはできず、意識境界面形成の前期段階でテレパシー能力が発現すれば自我不確立型テレパスになり、意識境界面形成の後期段階でテレパシー能力が発現すれば自我確立型テレパスになるそうです。サン・マルティンの悲劇で、六歳以下の子供がUPOに殺されなかったのは、この意識境界面がまだ形成途中だったので、UPOを「敵」と見なさず、自分の一部として受け入れることができたからなんです。そうして、その子供達は、当初、研究者達が意図した通り、後天性精神感応能力者(アンナチュラル・テレパス)となった。じぶんも、アサも、そうなんです。でも、ニコライは……】

【そう、彼は僅かなテレパシー能力を持つ平均的なナチュラル・テレパスでした。だからこそ、彼にはおれの「声」が聞こえ、おれの意思が感じられた。でも逆に、彼にはもう意識境界面がほぼ形成されてたので、おれと自分とを同一視することはできず、アンナチュラル・テレパスになることはできなかった。その代わり、彼はおれを「友」とした。つまり、自力で、あなた方の言う〈精神攻撃抗体〉を持ったのと同じ状態になった訳です。それから、おれと彼は、折に触れて接触してましたが、彼は、栄養失調による衰弱で死にました】

 ディープ・ブルーが突きつけた事実に、ユウの表情が硬くなる。そう言えば、先ほどから、ユウはずっと目を閉じている。今は、イルシンと目を合わせる振りをする必要がないということか。

【少し歩いて構わないなら、彼の墓参りをしませんか? ユウの望みは、それでしょう?】

 ディープ・ブルーが、まるで人間のような気遣いを見せて、提案した。

【負ぶって貰っても、いいですか?】

 ユウは振り向き、この開拓場へ来てから初めて目を開いて、灰色がかった水色の双眸をイルシンへ向けた。危うい制御で、辛うじて平静を保った顔。断れる訳がない。

(ああ、勿論だ)

 イルシンは答えた。


          ○


「宇宙連絡船より通信。航空高度に達したとのことです」

 通信席に座ったタイラ・ハル一等兵の声が制御室内に響いた。

「了解した、予定通り合流地点へ向かわれたし、と返信を」

 チャン・レイは重々しく命じた。

「了解。宇宙連絡船、こちら地表基地、了解した、予定通り――」

 タイラ・ハルが再び一言一句違えずに通信機に向かって話すのを聞きながら、チャン・レイは眉間に皺を寄せた。

 ここからが、本番だ。

 ホセ・エステベスを通常通り着任させてしまえば、ディープ・ブルーの存在なども明るみに出て、きっと何もかも手遅れになってしまう。チャン・レイには、精神感応科攻略部隊兵を甘く見るつもりは毛頭ない。シュヴァリエ中尉の提案では上手くいく可能性は低いのだ。独断専行を、後で責められもするだろう。だが、このサン・マルティン地表基地が政争の場になってしまえば、今まで、シュヴァリエ大将の庇護の下、隠されてきたことが暴かれてしまう。そうなれば、人類宇宙軍という組織は、二分され、下手をすれば、外からの圧力で縮小されかねない。

(その前に、厄介な口を全て封じるしかない)

 ディープ・ブルーとコミュニケーションを取り、軍総本部へ、或いはエステベス大将側へ報告できるカヅラキ・ユウ、ソク・イルシン、そしてホセ・エステベス。三人ともの口を封じる作戦。チャン・レイの決意は既に固まっていた。だからこそ、カヅラキ・ユウとソク・イルシンを、このタイミングで先行偵察に出したのだ。間もなく、自分は八時間の休息に入る。ホセ・エステベスは大気圏内に入った。そこで、実行する。基地も開拓場へ向けて走行し続けているので、彼我の距離も縮まっている。休息の間に、そして、基地が到着する前に、事は成し遂げられるだろう。

 やがて、待機中の面々が、交代のため、制御室に集まってきた。基地副司令官のジャスミン・シュヴァリエ中尉も現れた。

 基準時間一六〇〇ひとろくまるまる時。いつも通りなら、報告と敬礼による勤務の交代が行なわれるその時、チャン・レイは司令官席に備え付けられたマイクロフォンを取って立ち上がり、全基地へ、厳かに告げた。

〈たった今、先行偵察先で、ソク上等兵が「敵」に通じたと、カヅラキ上等兵曹から精神感受で報告があった。この事態に対し、非常事態宣言レベルAを発令する。カヅラキ上等兵曹には既に、ソク・イルシンの銃殺刑の執行を命じた。理由は、人類宇宙軍法規第九章懲罰規程第一節処罰規定第八条[人類宇宙軍法規に対し重大な違反をした者は、銃殺刑に処す]である。同細則で、「重大な違反」の内容については、[作戦行動に支障を来たす命令違反、或いは敵対組織への内通]と定められている。ソク・イルシンの場合は、「敵対組織への内通」即ち、UPOとの過度な接触である。以降、当基地は、カヅラキ上等兵曹の任務遂行を支援する〉

「そんな……そんなはずありません!」

 驚きゆえの凍りついたような静寂を破り、悲痛な声を上げたのは、副操縦席から立ち上がったヴァシリ・クズネツォフである。

「あいつが……そんなことをするはずはありません! あいつは……本当にUPOを憎んでるんですから……!」

 通信席のタイラ一等兵も大きく頷いている。司令官補佐のマクレガー一等兵曹も、悲痛な眼差しでこちらを見ている。彼らも同じ気持ちなのだろう。この基地制御室の中の規律を保つためには、今少しの説明が必要らしい。レイは淡々と告げた。

「わたしもその点を買ってソク上等兵をカヅラキ上等兵曹と組ませ、特務班としてUPO調査の任務を与えていたのだ。だが、残念ながらソク上等兵は、精神感応でUPOに取り込まれた。最早彼は、われわれの知る彼ではない」

 だが、クズネツォフ上等兵は更に食い下がった。

「それでも! 銃殺刑というのは、重過ぎます! しかも、何の事情も聞かずにその場でとは! われわれはそこらの単なる武装集団じゃない! 人類宇宙軍なんですよ?」

「だからこそだ」

 冷然と、一段高い司令官席から、レイは青年上等兵を見下ろした。機会(タイミング)を逸すれば、全てが水の泡となってしまう。十五歳の時の自分の周りにあった全てが、あの波立つ海に消えたように。ここで問答をしている暇はない。急ぐのだ。

「人類宇宙全体の平和と安寧のために、人類宇宙軍は組織として強固でなければならない。軍規違反を少しでも見逃せば、人類宇宙軍という組織はすぐにその使命を果たせなくなるだろう。われわれは人類宇宙全体のために、甘さを捨てなければならない。特に、UPOはまだまだ未知の『敵』なのだ」

「……――了解しました」

 暫く黙った後、クズネツォフ上等兵は、意外にあっさりと引き下がった。交代の副操縦士も来ているので、これ以上抗弁するならクズネツォフを拘束させようと思っていたレイは、意表を突かれながらも、次の指示を出した。

〈各班は、全てのシフトの兵士で任務を分担し、戦闘に備えよ。基地は方向そのまま、時速を三十キロメートルに上げて前進! 加えて、宇宙連絡船に通信。UPOによる精神汚染が発生、宇宙連絡船は、直ちにプエブロ・ヌエボ開拓場跡へ向かい、ホセ・エステベス兵曹長はプエブロ・ヌエボ開拓場跡に到着し次第、UPOと過度な接触を持ったソク・イルシン上等兵への銃殺刑執行を支援せよ、と〉

「方向そのまま、時速を三十キロメートルに上げて前進」

 操縦席のローランド一等兵が冷静に復唱して、操縦桿を動かす。ぐうんと加速していく基地内が、ざわめきに満たされていく。そのざわめきに、タイラ・ハル一等兵の乾いた声が重なり始めた。

「宇宙連絡船、こちら地表基地。UPOによる精神汚染が発生、直ちに、プエブロ・ヌエボ開拓場跡へ向かい、ホセ・エステベス兵曹長は――」

 通信内容が、これまで同様一言一句違えられずに伝えられるか聞きながら、レイはマイクロフォンを置き、司令官席に再び腰を下ろした。横の副司令官席には、ジャスミン・シュヴァリエ少尉が来て、レイに敬礼し、腰を下ろした。その敬礼に応じて、一瞬視線を交わしてから、レイは前方の大画面を見据える。自分は、後戻りできない一歩を踏み出したのだ――。


          ○


【こんなの、全部嘘じゃない! ユウはそんなこと報告してないし、何で、あいつがディープ・ブルーに通じたなんてことになるのよ!】

 憤慨するアサに、エドウィン・ローランドを名乗る少年は、操縦席に座って硬い表情をしたまま答えた。

【ただ、現状において、誰もそれを証明できないってことが重要なんだよ。少なくとも、「過度な接触」っていう点においては、そう言われても仕方のない接触の仕方をしてると思うし】

【でも、あいつは別にディープ・ブルーの言いなりになってる訳でも、軍に敵対しようとしてる訳でもないのに!】

【ここから先、彼がどう考え、どう行動するかは分からないけどね。どっちにしろ、司令官閣下はそんなこと問題にしちゃいない……】

【そう、あいつとユウと、ホセって子を陥れるための狂言。でも残念、あたしが全部ばらしてあげる――】

【駄目だよ、《囁く鯨》】

 連盟警察局の少年は、穏やかに、困ったようにアサを止めた。途端にアサは、チャン・レイの思考を読むことができなくなった。周りにいる兵士達の思考も読めない。精神干渉も、何故かできる気がしない。ユウに〈通信〉を試みたが、それもできない。今していたこと、しようとしたことが、何もできない。ぞっとして、アサは栗毛の少年を見た。操縦桿を握った少年は、相変わらず他の兵士達同様、驚き緊張した面持ちを保ったまま、意識にだけは余裕を漂わせて、告げた。

【あっちはホセに任せて、きみはここにいるんだ。そのために、おれはきみを引き付けたんだから。チャン・レイには、しでかして貰ったほうが、おれとしてはやり易いんだよ】

 少年の表層意識の底辺には、軽い調子の表面とは裏腹の、冷然として揺るがない意志が横たわっている。――敵わない。

 アサは、自分の意識から、吸い取られるように気力が失われていくのを感じながら、遠く、チャン・レイが、ソク・イルシン銃殺刑の支援班を編成するよう命じるのを聞いた。


          ○


 開拓場から出て、予想外に柔らかな大地に、ユウの体重も上乗せした足跡を刻みながら、イルシンは、かつての「小さな脱出」を噛み締めるように、ゆっくりと歩いていった。やがて、その目の前に、それまでの大地の起伏とは異なる小高い丘が現れた。実際には、初めて見る、だが、見覚えのある丘。その滑り易く硬い表面を一歩一歩登って辿り着いた、海を一望できる頂上に、石を僅かに積んだだけの墓はあった。そこから見下ろせる窪地には、ぽっかりと洞窟が一つ口を開けている。以前、ユウに見せられた過去の情景に出てきたものと同じだ。ただ、ユウが見ていたものより、全てが小ぢんまりとして見えた。開拓場からの道程もそうだ。もっと、情景の中では、荒野の奥地へ歩いて行ったような感覚があったが、実際歩いてみると、ユウを負ぶって歩いても大して疲れもせず、開拓場からさほど離れていないことが分かった。丘の頂上から、開拓場の端の建物群が存外近くに見えるのだ。

(それでも、七歳以下のユウ達にとっては、過酷な道程と生活だった……)

 表情を暗くしたイルシンの背から降り、墓への数歩を歩きながら、ユウは告げた。

【でも、つらいことばかりじゃなかったです。皆(みんな)との生活には、楽しいこともあり、何より、未来(さき)への希望(ゆめ)があった……。それもこれも、全て、ニコライのお陰でした】

 そうして、ユウは、おもむろに墓の前にしゃがむと、積まれた石をどけ始めた。

(一体、何するつもりだ……?)

 驚いて問うたイルシンに構わず、ユウは石を取り除け終わると、今度は素手で土を掘り始めた。

「おい、待て、墓を暴く気か……!」

 思わず声に出してしまってから、イルシンは慌てて口を閉ざした。被ったヘルメットの通信機に声が入って、基地に聞こえてしまったはずだ。だが、基地からは何の応答もなかった。

(妙だな……? 意味は分からなくても、多少は聞こえただろから、問い合わせぐらいしてきてもいいだろに)

 腕端末を見れば、一六一一ひとろくひとひと時。勤務交代の一六〇〇ひとろくまるまる時が過ぎて、タイラ・ハルではなく、別の通信部隊兵が制御室の通信席に座っている時間だ。いつも交代の時だけ目にする男の顔を思い浮かべて、イルシンは胸中で毒づいた。

(ハルと違って、いい加減な奴だ)

 イルシンが一人で焦ったり腹を立てたりしている間にも、ユウは両手を土まみれにして、懸命に掘り続けている。

【ここの気候は、一年を通してとても乾燥してますから、結構そのまま残ってますよ。まあ、だからこそ、海のすぐ傍に開拓場を作らざるを得なくて、至極容易に、おれが生まれたんですけど】

 傍観しているディープ・ブルーが、告げるともなく告げた。

 やがて、イルシンの恐れていたことが起きた。まずは、臭いがした。幾ら乾燥していても、全く臭わないということはないのだ。そして、ぼろぼろになった布に包まれた左右の手が、鈍い光沢を放つステンレスのハーモニカとともに、最初に土の下から現れた。

「ああ……!」

 ユウが、溜め息のような、泣き声のような、ただ感情が揺れるままの声を出し、胸の上で組まれているらしい、その両手に額づく。

「ニコライ、やっと、わたし、帰って来た」

 嗚咽の下から言うと、ユウは体を起こし、血の滲む手で、丁寧に、出てきた両手の周りを掘り進める。胸、肩、首、最大限丁寧に優しく土を取り除けて、布に覆われた顔が出てきた。覆っている布を、そうっと、ユウは剥がす。そこに躊躇いはない。きっと、ずっと長い間、こうすることを考えてきたのだ。

 現れた顔は、ディープ・ブルーが告げた通り、本当によく残っていた。肌の色こそ変色していたが、ニコライの、気品に満ちた美しい顔立ちは、やや頬がこけ、唇が乾燥している以外、ユウから〈入力〉された情景に出てきた顔、そのままだった。金髪も、そのまま残っている。閉じた瞼には、睫毛もあって、まるでたった今閉じられたようだ。

「ニコライ、ただいま。置いて行って、ずっと待たせて、ごめん――」

 七歳で別れた少年の両頬をそっと両手で包んで、ユウは囁き、それから身を引いて、溢れる涙を袖で拭った。乾燥して残っていた亡骸に涙を落とさないよう、最大限配慮しているのだ。

(ここに、アサも来たらよかったのにな……)

 自分も目頭が熱くなるのを感じながら、何となく思ったイルシンに、ユウが答えた。

【アサは、なかなかここには来られないでしょう】

 意外にしっかりした調子に、イルシンは鼻白む。ユウは、しかし、説明を加える前に、再び最大限丁寧に、ニコライ・クズネツォフの亡骸を元通り布で包んで、優しく土を被せ始めた。それは、掘った時同様、厳かな儀式のようで、イルシンは、じっと見守って立っていた。完全に土で覆った上に、ゆっくりと石を積み終えたユウは、立ち上がり、イルシンを振り返る。真っ直ぐイルシンに向けられた見えない両眼には涙が残っていたが、表情は、今までになく、すっきりとしていた。

【アサが警戒してた相手は、連盟警察局の捜査官です。訓練中に見かけたことがありますし、能力も高そうでしたから、まず間違いないでしょう。そう簡単に探れはしません。でも、アサがここに来なくて、よかった。今から、わたしがすることを、止められませんから】

 ユウの一人称が、上官として話している訳でもないのに、「じぶん」から「わたし」に変わったまま戻らないことに、イルシンは眉をひそめた。軍人としてではなく、私人として何かをするつもりだろうか。それに何故、連盟警察局の捜査官がサン・マルティン地表基地にいるのだ。

【いろいろ、あなたにも調べるのを手伝って貰って、漸く、謎が解けてきたんです】

 ユウは感慨深げに告げ、静かにそこにいる存在に意識を向けた。

【ディープ・ブルー、二つだけ、確認させて貰ってもいいですか?】

【幾らでも】

 黒髪を海風になびかせる、そんなことまで視覚的に装って見せながら、少年の姿をしたモノは頷く。

【おれは、そのために、この惑星で、ニコライの傍で、あなたを待ってたんですから。ここに至り、この場で、あなたがその結論を導き出すと、予知できたので】

【全てお見通しなんですね……】

 ユウは目を伏せてから、問うた。

【まず一つ目。アサの生存が隠され、アサの意識がずっとここにいたのは、アサの意志でもあり、そして、軍の意図でもあったんですね? そして、それを、あなたが手助けした】

【おれは、アサが望んだから、そうしたまでです。アサにとっての最優先事項は、ここにいることでしたから】

【やはり、そうですか。そんなに早く解明できるはずもないUPOについての情報が、封鎖解除後の資料の中に、一気に増えているのは、アサを通じてあなたが教えたからなんですね】

【アサの存在意義を作っておかないと、軍が管理してる彼女の肉体が心配でしたから】

 ディープ・ブルーを「友」とした者は、最強かもしれない。ただ聞くばかりのイルシンは思った。

【お陰で、わたしは姉に再会できました】

 感謝を伝えたユウに、ディープ・ブルーは表情を変えずに返した。

【おれは、あなた方の周りにいた人間達を大勢殺したから、そんなふうに思わなくていいですよ】

【それは、あなたのせいじゃない】

 ユウは強い調子で否定した。夕季の、赤色を帯びた日差しが、横から、その凛とした顔を照らしている。

【ディープ・ブルー、これからも、姉をお願いします】

(これからって、おまえ……)

 せっかく再会したというのに、何をまた別れるようなことを、と質そうとして、イルシンは、上空の音に気付いた。ヘリコプターの回転翼音だ。

「こちら先行偵察班。何故、ヘリコプターがもう一機来ている?」

 通信機で問うたが、やはり応答はない。どうやら、通信が切られている。本格的におかしい。

「一体、何が起こってるんだ……?」

 不信感も顕に呟いたイルシンに、ディープ・ブルーが直接答えた。

【あなたがおれと過度な接触をしたとして、チャン・レイという人間が先ほど、あなたの銃殺刑を決定したんです。ユウに、その実行を命じるという形で。あのヘリコプターには、それを支援するための「道具」達が乗ってます。ただ、チャン・レイの企てとしては、ユウがその妨害をするだろうから、同じく軍規違反で銃殺。ホセ・エステベスについては、その現場にわざわざ居合わせるように仕組んで、チャン・レイの命令に不服を唱えさせ、抗命罪で惑星メインランドへ強制送還、ということのようです】

 さらりと告げられた内容に、イルシンは瞠目した。

「は? 何でおれが銃殺刑なんだ? おまえと「過度な接触」って、それは、任務としてやってんじゃねえか! それに、何で、ユウやホセ・エステベスまで……!」

 最早、使いものにならない通信機を気にする必要もない。イルシンが叫ぶように問うと、今度はユウが、冷徹な表情と「声」で答えた。

【チャン・レイ司令官には、隠蔽しなければならない過去があるんです。それを探るのが、今回の、じぶんの極秘任務でした】

「『極秘任務』? 何だ、それは?」

 ひやりとする言葉に、イルシンが問うと、ユウは中空に視線を据えたまま告げた。

【《潜る鯆》という、じぶんの尤も顕著な能力は、相手に気付かれず、その潜在意識を探れるというものです。それで、じぶんはこの惑星に降りてからずっと、UPO誕生について、それに関わった疑いの濃厚なチャン・レイ司令官の潜在意識を、探ってたんです】

 背筋の凍る告白に、イルシンは言葉を失う。そんなイルシンを他所に、ユウは再びディープ・ブルーへ問うた。

【二つ目の確認です。人類に強いテレパシー能力を持たせる人工ウイルスは、故意に、ばらまかれたんですか? チャン・レイ司令官の潜在意識でも、そこだけは曖昧だった。それは研究者がやったことで、彼が直接やったことじゃなかったので】

 恐ろしい話ばかりだ。イルシンは混乱しながら、ユウの横顔を凝視した。既にUPOが軍の人工ウイルスを元にして生まれたことはアサから知らされた。だが、それが偶然でも事故でもなく、故意なのだとしたら――。

【ええ。故意でした】

 ディープ・ブルーの答えに、イルシンは地に膝を着きそうになった。軍は、自分達の所属する組織は、一体、何ということをしたのだ――。

【クヌート・アヒレスという軍所属の研究者が、飲料水用の貯水槽に入れたんです】

 ディープ・ブルーは、全てを見てきたように語る。

【開拓場の水道網の一斉点検が、全てを引き起こしました。クヌート・アヒレスは、資格を持ってるということで、飲料水用貯水槽の点検と清掃に応援要員として参加し、水溶性のカプセルに入れて密かに持ち込んだ人工ウイルスを、飲料水に入れたんです】

「何で、そんなことを……!」

 うめいたイルシンに、ディープ・ブルーは静かな眼差しを向ける。

【その人工ウイルスだけなら、そんなに脅威じゃなかったからです。空気感染はしないように作られてたので、制御はし易いものでしたし、人間に感染すれば、テレパシー能力が発現するかもしれないというだけの危険性でした。しかも、その人工ウイルスには、ある波長の光を浴びると発動する殺機構が組み込まれてたので、不測の事態が生じた場合にも対処できると、その研究者は踏んでたんです。何より、彼は多くの臨床試験がしたくてたまらなかった。当時は、四年に渡って続いたエデン内戦が終わったところで、軍内部では以後の方針を巡って派閥争いが激しくなっており、成果を出さなければ、テレパスを人工的に生み出すウイルスを創るという研究自体、打ち切られる可能性もあったんです。でも、彼の予想を超えた事態が起きてしまいました。開拓場の水道網の一斉点検の中で、海からの取水口にあった濾過機が、現場の作業手順の手違いにより一時停止してしまい、海水が僅かながらそのまま――原住民の生命体を含んだまま、飲料水用貯水槽に送られてしまったんです。そして、おれが生まれました】

【開拓場で用いられるあらゆる水は、全て、海水を逆浸透膜で濾過して賄われてたので、最小のウイルスですら混入は不可能なはずでした】

 ユウが硬い「声」で語る。

【一方、海に棲息してる、UPOの元になった生命体は、バクテリアに似てはいても、人体には全く悪影響のないモノでした。けれど、光をエネルギーとして利用し、コロニーを形成して動く際には知性を発揮するその生命体に、人工ウイルスが感染した結果、殺機構の波長の光が効かない、人類を殺す意思を持った病原体――UPOが誕生してしまったんですね、故意と手違いによって】

【その通りです】

 ディープ・ブルーは他人事のように肯定した。

【その研究者――クヌートとかいう人は、どうなったんですか?】

 問うたユウの「声」には、殺気が滲んでいるように感じられた。しかし、ディープ・ブルーの返答には、その殺気すら凌駕する底冷えがあった。

【おれが感染して殺しました。彼と意識を繋げたので、おれはおれの誕生について知ったんです。彼は、おれに憎悪を向け、凄まじい後悔の念を擁きながら死にました。――あなたが復讐するべき相手は、もういないんです】

【マルセル・シュヴァリエが、その研究者に指示をした訳じゃないんですね?】

【ええ。マルセル・シュヴァリエは、研究施設の責任者だったチャン・レイの報告で、クヌート・アヒレスが独断で人工ウイルスを流出させた可能性を知り、その事実を隠蔽してるだけです】

【それもまた罪ですが、そうですか……】

 ユウは、ほうと息をついた。その華奢な肩から、急に緊張が消えたように見えた。だが、上空からは、容赦なくヘリコプターの回転翼音が迫ってくる。イルシンはユウの手首を掴んだ。

「ユウ、とにかく逃げるぞ! ここにいたら、おれもおまえも殺されるんだろ! この丘の向こう側に回れば、一度射線を遮れるから、その間に距離を稼げば、まだ何とか――」

「〈対象〉、ソク・イルシン。〈鈍化〉」

 ユウが唐突に唱え、イルシンの体が殆ど動かなくなった。〈鈍化〉というのは確か、体を麻痺させる軍公式の精神干渉技だ。そう、精神感応科兵について調べた時に、見て、覚えた――。

【逃げる必要はありません。今となっては、わたしの目的も、対象も、ただあなたですから】

 ヘリコプターの騒音を問題にしない「声」で意味不明のことを告げ、ユウは、ゆっくりとイルシンを見上げた。見えていない双眸が、しっかりとイルシンの顔を捉える。

【精神感応科兵のわたしは、上官の命令に絶対に逆らえないんです】

 その言葉の意味するところは、つまり――。

(――おまえが、おれを、殺すのか……?)

 イルシンは、凛とした表情を湛えたユウを見下ろし、驚きと悲しみを込めて問うた。



 ヘリコプターの回転翼音が聞こえる。見上げると、オフィス街に林立する廃墟のビル群の間に、輸送用の大型ヘリコプターが見えた。開拓場の向こうへ降下していくようだ。

「あそこか」

 呟いて、ホセは宇宙連絡船から自分とともに降ろされた小型浮上艇ホヴァークラフトの座席に跨った。

 宇宙連絡船が安全に着陸できるような土地は限られている。着陸に適していた合流地点ではなく、急にプエブロ・ヌエボ開拓場跡への降下を命じられたので、操縦士は仕方なく、今は整備されていない、開拓場跡の空港へ連絡船を着陸させた。そしてホセは、命じられた任務のため、一人降り立ったのである。

【カヅラキ・ユウ上等兵曹、状況を報告せよ】

 〈通信〉で呼びかけながら、ホセは速度計の針が振り切れる速度で、小型浮上艇を走らせ始めた。


          

 ヘリコプターは、イルシン達がいる丘ではなく、その麓へと降下した。騒音が止み、辺りに静けさが戻る。

「やはり、この丘の急斜面は、重たい装備の自動機械オートマトン・兵士ソルジャーを降ろすには、向いてないようですね」

 ユウが呟いた。現れた自動機械兵士達は、扁平な胴体に八本足が生えた蜘蛛型(スパイダー・タイプ)だ。機関銃などを装備して、攻撃対象と攻撃方法を入力しておけば、自動的に任務を遂行する自動機械兵士の中でも、移動速度の速い型(タイプ)だ。人間ではないので、当然、テレパシー能力も効かないはずだ。精神を持たない兵士達は、続々とヘリコプターから降りてくる。数は三十体ほどもいるだろうか。

「あいつらは、おれだけでなく、おまえも殺しに来たんだぞ……!」

 イルシンが喘ぐように確かめると、ユウは、やはり無理をしていたのだろう、ひどく消耗して脂汗の浮かんだ顔で、今度は空気を介さずに伝えてきた。

【チャン・レイ司令官は、ある意味正しいんです。わたしという精神感応科兵の運用試験として、これは大事な状況設定ですから。――精神感応科兵でも、諜報部隊兵と診療部隊兵は、精神攻略技を教えられず、例え使えたとしても、使うことを全面的に禁じられてます。これらは、単なる命令じゃなく、精神感応科兵となる際に施される精神攻略技〈催眠暗示〉によってそうプログラムされてるんです。今も、命令違反はできないので、「あなたを銃殺刑にするために、〈鈍化〉を使う」と〈自己暗示〉を――】

 そこで、苦しげに顔をしかめてから、ユウは続ける。

【でも、そこに一つ抜け穴があります】

 自動機械兵士達が、装備された機関銃の銃口をこちらへ向けて、発砲を始めた。弾が届くには、やや遠いが、射程距離に入られるまで後僅かしかない。しかし、その機関銃の騒音の中、精神感受技〈通信〉で伝わってくるユウの「声」は、空気振動とは全く別の次元で、イルシンに届く。

【「しろ」という暗示は条件反射を組み込むことで比較的簡単にできますが、「してはいけない」という暗示には、「した場合、こうなる」という恐怖の暗示が必要なんです。その恐怖には、やはり、生物が最も恐れる、命を失うということが使われる。けれど、生物は時に、己の命より他を選ぶことがある。その場合、「してはいけない」という暗示は、効かないんです。だから、命令違反ができ、攻略部隊兵じゃないわたしも、一度だけなら、命と引き換えで、精神攻略技が使えるんです】

「おまえ、何をするつもりなんだ……? 『まだ、しなければならないことがあるので』死ねないんだろ……!」

 動きにくい口で何とか叫んだイルシンに、ユウは肩で息をしながら言った。

「大丈夫です……。皆(みんな)にも助けて頂きました。全てうまくいきます」

「『皆(みんな)』……? 『皆(みんな)』って誰だ! それよりおれを動けるようにしろ! おまえを抱えてこの丘の向こうへ回れば、まだ逃げ切れる――」

 焦るイルシンに、ユウは告げた。

【あなたの御友人達を含めた、皆(みんな)です。ニコライの眠るこの丘へ、あんな無粋なものでは、近付くこともできません。この丘の麓は、開拓場の大人達が、この惑星用に開発した土壌改良細菌を、わたし達がニコライの指揮の下、大切に蒔いた土地ですから】

 その言葉が終わらない内に、発砲しながら前進を始めた自動機械兵士達の八本の足は、イルシンが予想外に柔らかいと感じた、空気を含んだ土に次々沈み込んで、行動不能に陥っていった。重機関銃を装備した一体三百キログラムという重量と接地面の小さな足が、仇となっているのだ。

【その土壌改良細菌は、今や、おれの一部です】

 ディープ・ブルーが説明を付け加える。

【ニコライの体を守るため、この丘にだけは一切侵入しませんでしたけど、周りへは九年かけて、相当広がりましたよ】

【この惑星を形作る無機物有機物全て――その皆(みんな)とわたしが、あなたを守ります、イルシン】

 ユウは、脂汗の浮かんだ顔で、不意に微笑むと、格闘技の教練通りの動きで、イルシンに足払いをかけた。〈鈍化〉で動けず、呆気なく後ろ向きに倒れるイルシンの肩と頭を小柄な全身で支えて、そっと硬い地面に下ろし、傍らに座って、ユウは伝えてくる。

【……本当は、あなたともっと分かり合いたかったんですが……、時代がまだ、それを許さないんでしょう。「しなければならないこと」――ニコライのお墓参りを果たすことと、全ての謎を解いてUPO誕生の真実を知ること――は済みました。アサのことは、ディープ・ブルーがこれからも守ってくれるでしょう。わたしの心残りは、もうあなただけです、イルシン。あなたを、これ以上、軍の闇に巻き込みたくはない】

「もう充分巻き込まれてんだよ! おれがおまえを守るから、早く、この〈鈍化〉っての解け!」

【いいえ】

 ユウは、静かに告げる。

【あなたの友人と約束したんです。わたしの命に替えても、あなたを守る、と】


          ○


「何だ、あそこの土は! それに何故、自動機械兵士に、重機関銃など装備させている! 軽機関銃で充分だろうが! 蜻蛉型(ドラゴンフライ・タイプ)も、何故投入していないのだ!」

 サン・マルティン地表基地制御室に、司令官チャン・レイの怒鳴り声が響いた。前面の大画面には、チャン・レイ自身の指示で、一体の自動機械兵士が撮影眼(カメラ・アイ)で捉えた状況がそのまま映し出されており、UPOに感染されたというソク・イルシンが、小柄なカヅラキ・ユウによって何らかの手段で足止めされ、やがて足払いされる様子とともに、自動機械兵士達が、空気を含んだ柔らかな土に足を取られ、もたついている様子が見て取れた。

 制御室内にいた兵士達は誰も司令官に答えなかったが、その時、自動扉が開いて、勤務の交代で姿を消していたヴァシリ・クズネツォフが再び現れ、大画面の状況を見て言った。

「やはり、あの辺りの土地は土壌改良細菌によって、よく耕されていますね。プエブロ・ヌエボ開拓場にいた皆さんの執念とでも言うべきでしょうか」

 亡き人々への賞賛とともに、自動機械兵士への嘲笑が込められた言葉に、チャン・レイは司令官席から立ち上がって、ヴァシリを睨みつけた。

「クズネツォフ上等兵、きさまは、こうなることが分かっていたのか」

 そう考えれば、ヴァシリがあっさりと引き下がった理由も納得がいく。だが、返答は、予想を超える内容だった。

「当たり前でしょう。ぼくは、この基地の副操縦士ですよ? 予定進路の状況は調査済みです。だから、ついでに、工作班の連中と協力して、自動機械兵士達に、一番重い装備を着けさせました。装備について、細かいご指示はありませんでしたからね」

「きさまも、銃殺刑になりたいか!」

 声を荒げたチャン・レイに、金髪の青年は普段見せない冷徹な表情で告げた。

「自動機械兵士は、初期設定通り、司令官たるあなたの命令しか受け付けず、最後まで忠実でしょう。でも、人間の兵士は、違うんですよ」

 ヴァシリの語りに呼応するかのように、また自動扉が開いて、タイラ・ハルやダグラス・マクレガー、整備班の面々や工作班の面々が雪崩を打つように入ってきた。一様にチャン・レイへ鋭い視線を向ける彼らを背景に、ヴァシリ・クズネツォフは宣言した。

「幾ら軍規で縛ろうと、人間は、最後は自分が信じたもののために戦うんです。あなたとイルシンでは、比べようもない。この基地に、あなたの味方はいませんよ」

「少なくとも、わたくしは今も、司令官閣下に従っています」

 静かな口調で、副司令官席からジャスミン・シュヴァリエ少尉が言った。

「だが」

 ヴァシリは怯まない。

「あなた方の指令を聞く人間は、もういませんよ」

 その宣言に抗議する者は、いなかった。


          ○


「命になんか替えなくていい! 分かんねえこと言ってねえで、早くおれを動けるようにしろ!」

 イルシンはユウに怒鳴り、そして自動機械兵士達へ向かっても怒鳴った。

「UPOは、『敵』じゃねえ! 『未知』は『敵』じゃねえんだ! UPOは確かに多くの人間を殺した。けど、おれは過度に接触したから分かる! UPOには意思があって話ができる! 『敵』だったとしても、『敵』をいつまでも『敵』にしとくのか、『友』にできるのか、それが人類全体にとって重要なことだろ! UPOは、人類が宇宙に出て初めて出会った、『友』になり得る存在なんだ!」

 自動機械兵士達が得ている映像や音声は、基地へそのまま送信されているはずだ。そこに一縷の望みを託してから、イルシンは再びユウの説得を試みた。

「一旦出た銃殺刑の命令はそう簡単には撤回されねえ! 司令官は、すぐに次の手を打ってくる! それまでに、まずは丘の向こう側へ行くんだ!」

【大丈夫です、全て、消えますから。イルシン、ほんの数日間でしたが、本当に、ありがとうございました。あなたと過ごした時間は、とても、とても、満ち足りてて、幸せでした】

 噛み合わない会話も、基準時間にしてみれば、刹那のことだった。傍らに座ったユウは、一瞬微笑むと、それまで開けていた両眼を閉じ、上体を屈めて、動けないイルシンの額に、出会った日と同じように、ひんやりとした額を押し当ててきた。

【皆(みんな)、力を貸して――。〈対象〉、石一信(ソク・イルシン)上等兵及び石一信(ソク・イルシン)上等兵と関わった当宙域の全人類。〈範囲(レンジ)〉、葛木夕(カヅラキ・ユウ)上等兵曹に関する記憶。――〈記憶喪失(アムネージャ)〉】

 優しい「声」が、その効果を伴って、イルシンの脳へ届く。瞬間、イルシンは、青白い閃光とともに白く拡散していく何かを感じた。抗い切れない。

(ユウ! ユウ! ユウ……!)

 懸命に呼びかけながら、イルシンは急速に気が遠くなるのを止められなかった。そして意識を失う直前。触れたままのひんやりとした額を通じて、微かにディープ・ブルーの「声」が伝わってきた。

【あなたも、アサと同じで、ずっとこの惑星に囚われてた。もう、解放されたくなったんですか? もっと前に、額から額や、手から手じゃなく、口から口でこの彼に接触してくれてれば、唾液に混じって上手く感染してあげられたのに。そうしたら、彼をもっと簡単に守ってあげられたのに。本当に、彼に、何も残したくないんですね……】

 そう、ささやかな感動以外は何も――。彼は、これで自由だ――。白く拡散していくが、満足げに答えた。


          ○


「何だ……?」

 着陸した宇宙連絡船から降り立ったホセは、夕季の赤く染まりつつある空を仰いだ。大気全体が震えるような、初めて感じる意識が惑星に満ちている。

(これは、まさか、カヅラキ・ユウの独自技か……?)

 宇宙連絡船が安全に着陸できるような土地は限られている。着陸に適していた合流地点ではなく、急にプエブロ・ヌエボ開拓場跡への降下を命じられたので、操縦士は仕方なく、今は整備されていない、開拓場跡の空港へ連絡船を着陸させた。そしてホセは、急に命じられた任務のため、一人連絡船から降り立ったのである。

(恐らく〈最大出力〉の、しかも、精神攻略技――)

 軍学園で共に学んだ少女の意識は、急速に薄れつつある。ホセは、連絡船から降ろした小型浮上艇(ホヴァークラフト)の座席に跨り、速度計の針が振り切れる速度で、薄れつつある意識を目指した。

(あいつ――)

 もう少しだけ――ホセが到着するまで、待っておけばよかったものを。カヅラキ・ユウなら、この宙域に現れたホセがどこまで来ているか、感じ取れたはずだ。

(死ぬつもりか)

 〈催眠暗示〉に抗い、何らかの攻略技を使って――。ホセが到着する前に決着を付けることで、邪魔をさせず、巻き込むこともせず――。

【彼女を、助けるんですか?】

 不意に話し掛けられて、ホセは一瞬驚いたが、風防(キャノピー)越しに前方を見たまま、すぐに問い返した。

【おまえは、彼女を助けたいのか?】

 廃墟と化した街には、多くの物が、悲劇を物語ってそのまま散乱している。それらの持ち主達を殺した生命体は、淡々と答えた。

【彼女は、そんなことを望んでません。でも、。勿論、。できるなら、自分を生き延びさせたいと思うのは、自然なことでしょう?】

【――そうか】

 結局、全ては、軍の深い闇が招いたことだ。ホセは努めて冷静に告げた。

【〈催眠暗示〉を破った奴を助けるのは、おれにも難しい。だが、最善は尽くす。おれの乗ってきた宇宙連絡船には、それなりの医療設備がある】

【じゃあ、協力します。まずは、彼女が使った技について、伝えておきましょう】

 人類と共生し始めた生命体は、真摯な言葉とともに、ホセの脳へ、情景を伝えてきた。

(「〈対象〉、石一信(ソク・イルシン)上等兵及び石一信(ソク・イルシン)上等兵と関わった当宙域の全人類。〈範囲(レンジ)〉、葛木夕(カヅラキ・ユウ)上等兵曹に関する記憶」だと? 無茶苦茶な技だ)

 範囲を限った記憶喪失を引き起こす技。どれほどの〈出力〉と精密さが要求されるのだろう。恐らく、サン・マルティン地表基地にいる軍人達も、静止衛星軌道上にあるサン・マルティン宇宙港に務めている軍人達も職員達も、ソク・イルシン上等兵と関わった人間達は、全員、カヅラキ・ユウ上等兵曹に関する記憶を失ったことだろう。暫くはその影響で、意識も混濁し、今頃は昏倒しているはずだ。

(任務よりも、己の命よりも優先して――、そこまでして、ソク・イルシン上等兵を守りたかったのか、おまえ)

 ソク・イルシンは、カヅラキ・ユウと行動する内に、UPOの真実か、或いはそれに近いことを知ってしまったのだろう。だからこそ、あの少女は、命を賭して、その記憶を全て抹消したのだ。ここから先の、ソク・イルシンの人生を守るために。

(せっかくあの悲劇を生き抜いた、おまえの人生だって、これからだろうに……!)

 顔を歪ませ、ホセは自分とも共生している生命体に問うた。

【あいつにとって、ソク・イルシンは何者なんだ?】

【自己より重要な存在】

 簡潔に、少年のように聞こえる「声」は答えた。

 やがて、開拓場跡を抜け、一人分の深い足跡が続く地面の上を突っ切ると、目の前に小高い丘が迫ってきて、その手前で、十体を越える自動機械兵士達が、土に足を取られてもがいていた。

【ここです】

 「声」とともに、小柄な黒髪の少年の姿が、丘の上に見えた。白いシャツと七分丈の黒いズボンを着たその姿こそが、UPOの意思の集合――ディープ・ブルーなのだろう。その足元に、二人、折り重なるように倒れている。ホセは、小型浮上艇を駆って、一気にそこへ登った。

(カヅラキ・ユウ――)

 仰向けに倒れている青年兵士を守るように、その上に覆い被さって目を閉じたコバルトブルーの軍服の少女。

 鮮やかな茜色に染まった空の下、凪へ向けて弱まっていく風が、動かない少女の柔らかな髪をそよがせていた。

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