第三章 暴かれた心根 3
無事に昼半球へ出たサン・マルティン地表基地は、非常事態宣言も解除されて、通常通りに動き始めた。適当なところでまた夜前線に追いつかれ、追い抜かれて、それからまた夜前線を追いかけるのだ。ユウは、まだふらふらしているにも関わらず、報告書を作成しなければいけないからと、一時的に医務室から自室へ戻ってしまった。
「あんまり無茶すんなよ」
イルシンは心底心配だったが、扉の前まで送っただけで、さすがに少女の部屋の中まで入り込む気にはなれなかった。
【大丈夫よ、ユウは、あたしが見張ってるわ。何かあったら、すぐに教えてあげるから】
小さい体の胸を叩いて請け負ったアサの言葉に多少安堵し、イルシンもまた自室に戻った。通常任務から外れたイルシンには、ユウにくっついている以外、することがないのだ。
「さあ、これから、どうすっかな……」
寝台に仰向けに寝転がり、天井を見つめて呟く。自分は、色々と知り過ぎてしまった。このまま軍に所属し続けるなら、そのことを周囲に悟られないようにしなければいけない。
(おれに、そんなことできるか……?)
そもそも自分は、秘密が持てるような人間ではないのだ。その自覚はある。それに、カヅラキ・ユウに協力している今はいいが、これから先、軍のすることに、ただ盲目的に従うことなどできるだろうか。
(けど、おれは、おれ自身も、UPOのことがもっと知りたくて、何であんなことになったのか知りたくて、ここへ来たんだ。なら、これで良かったじゃねえか……!)
大好きだった叔父の顔を思い浮かべ、その叔父を強制的に連れ去った精神感応科兵達を思い浮かべる。憎いとしか思っていなかった精神感応科兵達。けれど、きっと彼らにも何か、UPOと関わる事情があったのだ。UPOの元は、人工的にテレパスを創るための人工ウイルスだったのだから――。
「ああ、くそ!」
一人でいると、気が滅入って仕方ない。このところ、ずっとユウやアサといた所為で、一人が駄目になってしまったのかもしれない。
(そう言や、この時間帯、ヴァシリの奴、待機中だな)
基準時間時計で正確な時間を確かめると、
予想通り、ヴァシリは食堂の、いつも使っている立食用卓にいた。だが、一人ではなかった。タイラ・ハルと、そして、イルシンの代わりに彼らと同じシフトに入ったエドウィン・ローランド一等兵も一緒にいる。
「あ、こんにちは!」
真っ先に気付いたエドウィン・ローランドが、まだあどけない笑みを浮かべて、イルシンに一礼した。地表制圧科陸戦部隊所属にしては若い、イルシンやヴァシリより三つ下の十八歳だ。
「イルシン、久し振り」
ヴァシリが嬉しそうに言って右手を上げ、ハルはウィンクして見せた。
「おお、久し振り」
イルシンも応じて右手を上げ、三人に歩み寄った。
「子守りはもういいのかしら?」
ハルがお得意の軽い皮肉を込めて問うてきた。
「今は報告書を作成するからって部屋に篭もってる。あんまり無茶すんなとは言ったんだが、さすがにずっとくっついてる訳にもいかねえしな」
「そりゃそうだ」
ヴァシリがくすくすと笑いながら言い、しみじみとイルシンを見つめる。
「それにしても、随分と優しくなったね。この前まで、精神感応科兵は『くそ野郎』だって言ってたのに」
「あいつの事情も色々と分かってきたからな……」
イルシンは決まり悪く頭を掻きながら答えて、卓の中央に据えてあるメニュー端末に視線を落とした。ユウと初めて会ったのも、この立食用卓にいる時だったと思うと、妙に懐かしく、そして、まるであれから随分と時間が経ったような気がする。そう、ユウと会ってからのこの四日間は、自分にとって、今までになく密度の高い時間で、恐らく自分は、大きく変わったのだ。
「ねえ、今のイルシンなら、あの噂聞いても、お皿ひっくり返さないんじゃない?」
立食用卓に頬杖を突いたハルが、上目遣いにこちらを窺いながら、他の二人に言った。
「何のことだ?」
イルシンが問うと、ヴァシリが苦笑いして答えた。
「また、噂が流れてるんだよ。精神感応科兵が、もう一人来るってね」
「もう一人?」
「しかも今度は、攻略部隊兵らしい。カヅラキ上等兵曹殿一人じゃ、手に負えない事態になってきたってことかもしれない」
「けど……」
勢いよく反論しかけたイルシンは、「幽霊」の正体だったカヅラキ・アサはもう無害だ、とは説明できないと気付いて、尻すぼみに言った。
「……あいつだって、頑張ってんのに……」
「本格的に惚れた?」
ハルがまた皮肉めいた口調で、面白そうに口を挟んだ。
「うるせえよ」
不機嫌に言い返したイルシンに、ヴァシリが取り成すように言った。
「でも、カヅラキ上等兵曹殿、ここに来てからまだ四日なのに、もう二回も倒れてるし、これ以上無理させたらよくないんじゃない?」
「まあな……、けど、あの『幽霊』は、多分もう出ねえ、みたいなことを、あいつ言ってたし、大丈夫なんじゃねえかと思うんだが……」
「本当は泣き虫のアサだ」という言葉は、そういう解釈ができるはずだ。苦しい言い訳のような言い方をして、イルシンはもう危険がないことを伝えようとした。だが、そこで、それまで控えめな態度で三人の会話を聞いていたエドウィン・ローランドが、おもむろに口を開いた。
「ぼくは、正直言って、攻略部隊兵に来てほしいです。あの幽霊に、後ろに立たれた時、本当に金縛りにあったみたいになって、体が自分の意思とは無関係に動いて操縦桿を引いて……。軍人がこんなこと言っちゃいけないとは思うんですが、物凄く怖かったですから。もう二度と、あんなのは御免です」
「そうよね。あたしも、幽霊が見えた訳じゃないけど、あの時は心臓がばくばく言って、心底震えが来たわ。戦場の怖さじゃないのよね。得体の知れない、抵抗しようのない怖さなのよね」
ハルが珍しく真顔で同意する。
「もう二度と出ないなら、それに越したことはないけど、でも、やっぱりあの上等兵曹殿一人じゃ、心許ない気がするわ」
【こいつら、ユウがどれだけ頑張ったかも、どれだけ凄いかも知らない癖に!】
不意に間近で幼い「声」が聞こえ、イルシンはぎょっとして、辺りを見回した。案の定、薄汚れた白いワンピースの裾をはためかせた幼い少女が、すぐ傍を漂って、ハルを睨み付けている。
(おまえ……、ユウを見張ってるんじゃなかったのかよ!)
【ちゃんと見張ってたわよ】
アサは両手を腰に当てて、偉そうにイルシンを見上げる。
【でも、あの子が報告書を作り終わったから、寝台に入れて、子守唄歌って、寝かしつけて来たのよ。「ねんねんころりよ、おころりよ~」って。気持ち良さそうに寝てたから、暫くは大丈夫だと思うわ】
(そうか、寝たのか……)
少し安堵して微笑んだイルシンは、ヴァシリと目が合って、ぎくりと笑みを強張らせた。
「何か、百面相してたけど、どうかした?」
怪訝そうに問われて、イルシンは強張った笑みを浮かべたまま答えた。
「いや、ちょっと思い出し笑いだ」
「助平」
ハルがぼそりと言った。
(全く、おまえが来た所為で、散々だ)
食堂を出て、ユウの部屋へと通路を歩きながら文句を言ったイルシンに、アサは横を漂いながら、妙に深刻な顔で返した。
【ううん、あたしが行ってよかったわ。おまえじゃ、気付かないもの】
(何にだ?)
【あの、エドウィン・ローランドって奴、多分、あたしに気付いてたわよ】
「は?」
思わず声を出してしまったイルシンに、アサは眉間に皺を寄せ、人差し指を立てて告げた。
【ほら、あいつ、「あの幽霊に、後ろに立たれた時」って言ってたでしょう? そんなの、あたしが見えてなきゃ、分からないことなのに。それにさっきも、あたしと目が合わないよう、不自然に視線を動かしてた。あたしのことが見えてるから、下手にこっちを見たら、目が合ってしまうのよ。あいつを操った時も、ちょっと変な感じはしたのよね。何か怯え方がわざとらしいっていうか……】
(つまり、どういうことだ?)
【あいつは、おまえと同じ、テレパスじゃないけれど〈精神攻撃抗体〉を持った者か、そうでなきゃ、テレパスかの、どっちかってこと。でも、テレパスで軍人なら、精神感応科兵になってる可能性が高いでしょう? だから、多分、〈精神攻撃抗体〉を持った者か、精神感応科兵かの、どちらかね】
(ちょっと待て。精神感応科兵なら、地表制圧科にいる訳ねえだろ? おれと同じ〈精神攻撃抗体〉を持った奴なんじゃねえのか?)
【それならいいんだけれど。何か、いろいろ隠してそうな奴だから、気になるのよ】
アサは可愛らしい口を尖らせて言うと、イルシンへ鋭い眼差しを向けた。
【それから、おまえ、ユウにも用心しなきゃ駄目】
(ユウに?)
意外な言葉に、イルシンはまた声を出しそうになって、こらえた。
【ええ】
アサは真顔で哀しげに頷く。
【前にも言ったかもしれないけれど、ユウは、おまえにいろいろと隠し事をしてたわ。これからも、どんどん隠し事をしていくと思う。あたしが言うのも何だけれど、おまえ、あの子のこと、あんまり信じ過ぎないほうがいいかもしれないわよ?】
そう言えば、最初に会った時、アサは「そんな子供を信じていいの?」「その子供は、嘘を吐いてるわ。その子供は、ずっと能力を使ってる。ずっとおまえ達の心を読んでるわよ」などと告げて、ユウの秘密を暴いたのだった。
(まだ何を隠す必要があるってんだ?)
【それはあたしにもはっきりとは分からない。あの子、あたしにも心を読まれないように隠してるから】
(あの野郎、「隠し事は、もうなしにしろ」って言ってやっても、ちっとも聞かねえのか)
【昔から、一人で抱え込んで、周りに悟らせないようにするのが得意な子なの】
(……けど、悪い奴じゃねえんだろ?)
イルシンの問いに、幼い姿の少女は拗ねたように答えた。
【真面目な、いい子よ。だから、心配なの】
○
カヅラキ・ユウからの報告書の内容は、驚くべきものだった。
[
至(いたる) 惑星サン・マルティン地表基地司令官チャン・レイ少佐
題(ひたい) 基準暦五五四年二月二十八日に惑星サン・マルティン地表基地の移動を妨げた現象に係る報告
旨(むね) 一 サン・マルティン地表基地に出没し、その任務を妨害せし「幽霊」なる現象を、UPO患者たる葛木朝(カヅラキ・アサ)によるものと認む。
二 カヅラキ・アサは、自身の生存を認知し、敵対行為を中断す。これにより、カヅラキ・アサより情報を得る。
三 カヅラキ・アサより、UPOの意思の集合たる
了(おわる)]
(ディープ・ブルーとは……。名まであるのか……)
張雷(チャン・レイ)は、カヅラキ・ユウから送られた電子媒体の報告書を読んで、戦慄した。シュヴァリエ派の極一部のサン・マルティン関係者の間では、その存在を囁かれながら、決して明るみには出されてこなかったモノ。そしてレイにとっては、消し去りたい過去。公表されれば、連盟や軍の罪の象徴となるに違いない、死神。もし、このディープ・ブルーが、UPOが誕生した経緯について知覚していて、誰かに語れば、大変なことになる。その相手となれる「誰か」は、今のところ、この基地で唯一の精神感応科兵であるカヅラキ・ユウか、〈精神攻撃抗体〉を持っているソク・イルシンに限定されるだろう。彼ら以外は、誰もディープ・ブルーとまともなコミュニケーションはできないだろうし、カヅラキ・アサはUPO誕生について既に知っているかもしれないが、今のところ「幽霊」に過ぎず、その発言が広まることはない。
(カヅラキ・ユウは〈催眠暗示〉に縛られている。だが、シュヴァリエ大将が仰った通り、その安全性は、検証されつつある途中だ。ソク・イルシンもまたUPOに肉親を奪われた被害者。彼は軍規に違反することになっても、真実を公表するかもしれん。ディープ・ブルーがUPO誕生の詳細をあの二人に語る危険性については、この報告書をこのまま転送して、シュヴァリエ大将の指示を仰ごう)
人類宇宙は広大過ぎて、電波や光では、各宙域同士を同時刻で繋ぐことができない。だが、各惑星の静止衛星軌道上に設置されている宇宙港から、各宙域に一つずつある宇宙門(スペース・ゲート)を通し、更には精神感応科諜報部隊兵の〈通信〉を使うことで、ほぼ同時刻で繋ぐことができるのだ。シュヴァリエ大将からの返答はすぐに来るだろう。レイは、カヅラキ・ユウの報告書に近況と自分が想定する懸案事項とを添付して、軍総本部のシュヴァリエ大将宛てに送信した。
○
ユウは、寝台に入ったまま目を閉じて、基地内の兵士達の意識を探っていた。広く、浅く、表層意識に明確に浮いてきたことだけを掬い上げていく。
(これは……噂……?)
ユウは、眉をひそめた。
(精神感応科攻略部隊兵が来る……?)
ユウが苦戦している状況を見て複数の人間が思いついたことなのか、それとも誰か一人の口から出たことなのか。噂の出所に的を絞って、もう一度探る。すぐに兵士達の表層意識の情報が集約される。
(地表制圧科陸戦部隊所属エドウィン・ローランド――)
ただの思いつきか、故意か。そこまで詳細に調べるのは難しいが、噂の流され方は、とても巧妙で、絶対に立ち消えず、基地全体に広がることを意図されているような感じだった。
(どっちにしろ、信憑性の高い話だ……)
軍総本部がこのサン・マルティン地表基地で起こっていることを知れば、精神感応科兵を派遣してくる可能性は高い。中でも、最強の攻略部隊兵を。
(攻略部隊兵なら、多分、彼が来る……)
脳裏に浮かんだのは、他を圧倒するテレパシー能力を持つ一人の同期生の顔。
(《
艶やかな黒髪と澄んだ黒い双眸、浅黒い肌の整った顔立ちをした、同い年の少年。今や大将の一人であるペドロ・サンチョ・エステベス・マルティネスを父としてこの世に生を受けた少年。そして、この悲劇の惑星サン・マルティンの名を、その名の中に持つ因縁の少年。
(因縁を持つ者は誰も彼も、この惑星に引き寄せられる。ここに置いて行かれた皆(みんな)が、帰って来いと、呼んでるのか……)
帰って来るのは、償いたいからか、懐かしいからか、逃げたくないからか。
(明後日には、先行偵察でプエブロ・ヌエボ開拓場に行ける。そこが、わたしの「約束の地」)
ふう、と息をついて、ユウは寝返りを打った。アサとイルシンが戻ってくる。ばれるかもしれないが、とりあえずは、寝ていた振りをしていようと思った。
○
レイの予想通り、シュヴァリエ大将からの返答は早かった。レイの待機時間の終わりに近い
(攻略部隊兵の中でも、よりにもよって、エステベス大将の御子息が来るだと……!)
ペドロ・エステベス大将は、テレパス優遇策に否定的な立場を取っており、マルセル・シュヴァリエ大将の政敵とも言うべき存在である。そのエステベス大将が、サン・マルティン地表基地で行なわれている精神感応科兵の運用試験と惑星サン・マルティンのUPO調査に興味を持ち、「幽霊」についての情報も掴んでいて、今回の運びとなったらしい。テレパス優遇策に否定的なエステベス大将の息子、ホセ・エステベス兵曹長が、精神感応科攻略部隊兵というのも納得しがたい話だが、事実だ。
(何故、そんなことになる……! ディープ・ブルーとコミュニケーションができる人間を、それもエステベス派の人間を着任させてどうしろというのだ……? 下手をすれば、UPO誕生の詳細が、全てエステベス大将に知られてしまう!)
シュヴァリエ大将の指示は、簡潔だった。
[エステベス兵曹長が惑星サン・マルティンの大気圏内に入り次第、きみの指揮下に入ること、そこに一切の例外がないことは、エステベス大将とも確認済みだ。エステベス兵曹長もまた、カヅラキ上等兵曹と同様、精神感応科兵として軍規に縛られている。上官たるきみの命令に逆らうことはできない。安心して、彼を利用したまえ。彼の実力は精神感応科の中でも随一だ。彼ならば、きみの報告にあったディープ・ブルーにも対抗できるだろう]
その指示は、レイからしてみれば、気軽に過ぎるように思えた。果たしてそんなに上手くいくだろうか。ホセ・エステベス兵曹長の到着予定は、基準時間で明日。この基地のプエブロ・ヌエボ開拓場到着予定日の前日だ。急に思えるが、恐らくは、以前から内々に進んでいたことが、ディープ・ブルーについて報せた今回の自分の報告で、早まったのだろう。
(一体、どうする……? ここが軍の政争の場になるぞ……!)
上手く対応しなければ、今までシュヴァリエ大将が中心となって守秘してきた罪が、エステベス大将によって暴かれてしまうかもしれない。エステベス大将が、軍の不利益になることをするとは考えたくないが、政争は時に、争う両者が属する組織自体を危機に陥れる。
(人類宇宙軍を、弱体化などさせる訳にはいかない。どれほど汚い手を使おうとも……!)
脳裏に、暗く波立つ海、そこに沈み行く建物や人々の光景が蘇る。あのような惨事は、人類宇宙軍によってしか止められない。
(だが、どうすればいい……?)
レイは、眉間に皺を寄せ、司令官室の執務机に肘を突くと、組んだ両手に額を乗せた。
と、そこへ、訪問を告げるチャイムが鳴った。机の端に置いた端末画面に、部屋の前の通路に立った、ほっそりとした人物の姿が映る。現在待機中の副司令官のジャスミン・シュヴァリエ中尉だ。レイは端末の接触式画面に手を伸ばして、扉を開けるアイコンに触れた。
開いた扉から一歩入って、敬礼をしたシュヴァリエ中尉は、切り揃えた榛色の髪を揺らして部屋の中ほどまで歩み寄ってくると、口を開いた。
「父から私信があり、司令官閣下の御相談に乗るようにとのことでした。何かありましたか?」
それは表向きのことで、シュヴァリエ中尉には既に、事の詳細が伝わっているのだろう。だが、情報を得る順序として、あくまで上官たるレイの顔を立ててくる辺りは、さすがだ。余計な問答は必要ない。レイは単刀直入に告げた。
「明日、当基地に、精神感応科攻略部隊所属ホセ・エステベス兵曹長が赴任してくるそうだ」
「それは……厄介ですね」
驚いた演技まで自然にして、形のいい細い顎に手を当てたのも一瞬、ジャスミン・アンヌ・シュヴァリエは、すぐに目を上げて問うてきた。
「それで、シュヴァリエ大将の御指示は?」
最早「父」ではなく「シュヴァリエ大将」と言う辺りもさすがと評すべきなのだろう。あくまで、彼女はレイの「補佐」なのだ。それも、とびきり優秀な。
「エステベス兵曹長も軍規に縛られているから安心して利用しろ、と。彼なら、ディープ・ブルーに対抗できるだろう、と。しかし、そう上手く事が運ぶものなのか……」
「成るほど……。御懸念は尤もです。では明日のカヅラキ上等兵曹、ソク上等兵の先行偵察が、エステベス兵曹長の到着よりも早く終わるように調整し、その後、閣下の指揮下に入ったエステベス兵曹長に、運用試験と称して軍規に抵触するような無理難題を与えて、運用試験に失敗したと御報告なさり、早々にエステベス兵曹長を送り返されては如何でしょうか」
すらすらとジャスミン・シュヴァリエに提案される内、レイの中で、より早く難題を解決できる別の考えがまとまった。そう、運用試験に失敗した、ということにすればいいのだ――。
「いや、先行偵察を、エステベス兵曹長の到着時刻に合わせよう。兵曹長が先行偵察先に合流するようなタイミングで、先行偵察に出す」
「合流は……いつ指示なさるのですか?」
「無論、兵曹長が大気圏に入った後、この基地に向かう前だ」
地表基地の司令官の権限は惑星の大気圏外には及ばない。逆に、大気圏内にさえ入って来れば、赴任してくる兵曹長は、自動的に地表基地司令官の指揮下に入るのだ。
「合流させて、どうなさるのですか?」
「厳しい『運用試験』を行なう。内容については、今はきみにも知らせないほうがいいだろう。この『運用試験』は、あくまで基地司令官たるわたしの一存で行なう。きみには、その時々で補佐を頼む」
「了解しました。では、失礼致します」
ぴしりと敬礼して、回れ右し、シュヴァリエ中尉は退室していった。閉じた扉を見つめて、レイは口の中で呟いた。
「シュヴァリエ大将――おれの英雄マルセル・シュヴァリエは、この作戦を認めてくれるだろうか」
答えは、事の成否によって決まるだろう。
レイは、元のように司令官室の執務机に肘を突き、組んだ両手に額を乗せて、祈る形で、軍の罪を明るみに出さないための作戦の詳細を検討し始めた。
○
地平線と水平線が眩しい。茜色、橙色、そして金色の陽光。夕季は、天空も地表も、全てが美しい。
「やっぱ、毎日『朝』が迎えられるって、いいもんだよな」
展望室から、基地の移動によって訪れる、
「はい」
ユウは、顔を真っ直ぐ恒星エル・サルバドルに向けて、見えない両眼は当然細めもせず、全身で水平方向からの陽光を感じている。一日経って、昨日の
「じぶんの父と母も、この凪の大気を感じながら、じぶんとアサの名を考えたのかなと思います。ユウというのは、共通語で
「けど、おまえら双子だから、同じ日――少なくとも、同じ季節に生まれたんだろ? 何で、夕と朝って、違う季節の名が付けられたんだ?」
イルシンがふと感じた疑問を口にすると、ユウはひどく自然にきょとんとした様子で、垂れ目気味の両眼を瞬いた。
「誕生日は同じです。この惑星サン・マルティンは、基準時間で言えば、二年をかけて漸く季節が一巡りしますから。じぶんとアサが生まれた日は夕季でしたが、一年後の次の誕生日は朝季でした。そういうことです」
「ああ、そうか。成るほど、ややこしいな」
イルシンは頭を掻いた。少し考えれば分かることだった。ユウはしかし、大して気にしたふうもなく、話題を変えた。
「出発時刻等はまだ知らされてませんが、いよいよ明日、プエブロ・ヌエボ開拓場へ、先行偵察に行きます。同行、宜しくお願いします」
硬い口調には、静かな決意が滲んでいる。細い首の上の横顔は、初めて会った四日前とは、全く違うように見える。あの頃は、油断がならないとしか思っていなかったカヅラキ・ユウが、今は、イルシンの生活の真ん中にいる。
「ああ、任せとけ」
イルシンは、簡易車椅子に座ったユウの華奢な肩にそっと手を置いた。力付けようとしたその動きが、車椅子の背凭れが邪魔で、多少ぎこちなかったかもしれない。ユウが怪訝そうに顔を上げた。小さな顎が上がり、金色の陽光が、桜色の唇に当たる。ふとその桜色に見入ってしまって、イルシンははっとして視線を逸らした。ユウには、こんな思いまで筒抜けかもしれないのだ。恐る恐る、もう一度表情を窺うと、ユウはまだ怪訝そうな顔をしたままだったが、特に嫌悪を感じた様子もなく、また、昇り行くエル・サルバドルのほうを向いた――。
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