第一章 帰ってきた子供 1
低い位置から照る陽光が、頬に暖かく当たっている。
懐かしい匂い、死の臭いだ。
懐かしい砂埃だ。乾き切った風だ。
懐かしい空気だ。血の色の夕焼けの大気、迫り来る闇の夜の大気だ。
懐かしく、そして恐ろしい記憶の地だ。
――「きみの
――「
――「ここに、
――「きみ達は、この
――「
――「
――「ぼくは、時の流れの中の
懐かしい友の声が、耳の奥に温かく、つらく蘇る。
ユウは、おもむろに、大気に両手を広げた。
ここに――この大気の中に、
父よ、母よ、友よ、惑星
不意に、鼻の奥がつんとして、両眼が熱くなった。
ユウは、目から溢れ、頬を伝う涙を感じながら、ただじっと、懐かしい大気を、そのざわめきと囁きを感じ続けた。自分は、この日のために、生きてきたのだ。帰ってくるために、全てと向かい合うために、生き続けてきたのだ。
「ただいま、
万感を込めたユウの呟きは、風に運ばれ、大気に溶けていった。
○
精神感応科兵が異動してくるという、その噂は、瞬く間に、人類宇宙軍惑星サン・マルティン地表基地内を駆け巡った。
「あり得ねえ……!」
ソク・イルシンは、食器が跳ねるのも構わず、立食用
「精神感応科兵なんて、くそ野郎だ! はっきり言って、覗き屋だろが! 人の心ん中、覗いて仕事する奴なんかと、一緒にいられるかってんだ!」
「けど、処罰規定か何かで、任務外じゃ
立食用卓を挟んで向かいに立った金髪の青年――同い年で同じ地表制圧科陸戦部隊所属のヴァシリ・クズネツォフの指摘にも、イルシンは納得がいかない。
「そんなの、こっそり破ってても分かんねえんじゃねえのか? それに、何で、こんな辺境の、それも地表基地なんかに、
精神感応科兵は優遇されている。その事実は、人類宇宙軍の常識だ。人類宇宙軍では、
テレパスと認定されれば、人類宇宙軍の士官学校である人類宇宙軍学園高等学校に、特別枠で入学を許可された上、一律に下士官の最下
「まあね、それはぼくも疑問だけど。何で、こんなところに精神感応科兵なんか寄越すんだろうね、お偉いさん達は」
緑色の双眸でちらと宇宙の彼方を見遣ったヴァシリは、ふと気付いた顔をして、声を潜める。
「もしかしたら……、あれに関係してるのかも。ぼく達の行く先行く先に、幽霊が出るって、あれ」
サン・マルティン地表基地は移動要塞だ。惑星サン・マルティンの地表を基準時間の毎日移動している。その移動の行程で、何度か、幽霊としか思えない子供が目撃され、同時に基地の機器が原因不明の故障・損傷に見舞われるという、怪奇現象が起きているのだ。
「幽霊対策に、精神感応科兵か。それが本当なら、いいかもしれねえな。ありゃ、サン・マルティンの悲劇で死んだ子供の幽霊だって話だからな……」
イルシンも声を潜めて言った。
人類宇宙基準暦五四五年から五四六年、即ち基準暦に準じる基準時間で九年前から一年間に渡って、開拓途上惑星サン・マルティンは完全封鎖された。その封鎖によって生じた犠牲者数は、一万二千五百三十四人。封鎖開始時にサン・マルティンにいた人口一万二千五百四十七人の内、約九十九・九パーセントもの人々が亡くなったのだ。生き残ったのは、単純な引き算に拠れば、たったの十三人である。サン・マルティンの悲劇として知られる、人類宇宙史の汚点の一つである。
封鎖の理由は、謎の病原体だった。
UPOショックと呼ばれた、九年前の悪夢。イルシン達は十二歳だったが、あの出来事は時代を語る共通の体験として、鮮明に記憶している。発見当初、
人類宇宙全体を守るためだったとはいえ、人類宇宙連盟からの指令を受けて、実際に封鎖を行い、惑星サン・マルティンの地表にいた人々を閉じ込めて見殺しにしたのは、人類宇宙軍である。あの悲劇で死んだ子供の幽霊が本当に出るのなら、それを鎮めるのもまた、人類宇宙軍の役割であろうと、イルシンには思えた。
「子供の幽霊ですか……。会ってみたいです」
不意に、子供の声に割り込まれて、イルシンはびくりとした。同じく、びくりと肩を震わせたヴァシリの肘の辺り、立食用の高い卓の上に漸く出る感じで、子供の顔が覗いている。耳が出るくらいに短く切った癖のない淡い茶色の髪、色の薄い肌、あどけなさの残る凹凸の少ない顔立ち、とろんとした些か垂れ目気味の大きな両眼、灰色がかった水色の双眸。やや色素の薄い、東アジア系の顔だ。そして、イルシン達と同じように軍服を着用している。肩章はないが、上着の裾が長く、襟章は半月が三つ。上着の裾が長いのは、二等兵曹以上であること、肩章がないのは、少尉未満であることを示し、半月が三つというのは、上等兵曹であることを示す。イルシンとヴァシリが纏う上等兵の軍服――上着の裾は短く、肩章もなく、襟章も三日月が三つ――とは一見して異なっている。しかも、その軍服の色は、コバルトブルーという、どこの部隊か見覚えのないもの。イルシンとヴァシリが着ている地表制圧科陸戦部隊を示すモスグリーンの軍服が圧倒的多数を占める中で、明らかに浮いている。
「おい何だ、その軍服は? 軍隊ごっこ用か? 子供がどうやって基地へ入ってきた?」
イルシンが手を伸ばして襟首を捕まえようとすると、子供はひょいと一歩下がって避け、真っ直ぐな眼差しを上げて言った。
「静止衛星軌道上のサン・マルティン
確かに、UPOが蔓延して開拓場が壊滅したこの地表に、そうそう子供がいるはずはない。地表駐在定点観測員が家族連れで来ていたら、子供もいるかもしれないが、希な話だ。
子供は申告を続ける。
「身分照合も受けてます。じぶんは、今度こちらに配属された精神感応科診療部隊所属カヅラキ・ユウ上等兵曹です。全体礼での着任挨拶まで時間があるので、軽く食事をしてきたらいいと言われて来たら、あなた方が興味深い話をされてたので、つい口を挟んでしまいました。異動した時は、やはり、まず人間関係作りが大切だと、教官殿や先輩方に言われて来たので……」
今度は、イルシンが一歩下がる番だった。精神感応科と聞いて、忽ち嫌悪感が背筋を這い登る。四階級も上の相手でなければ、近付くなと叫びたいところだ。
「大丈夫です。いきなり心を読んだりはしませんよ」
心を読んだように、子供――カヅラキ・ユウは言った。その灰色がかった水色の双眸が、妙に冷静で無表情なのが不気味だ。
「こちらの方が仰ってた通り、精神感応科兵は、人類宇宙軍法規第五章軍員規程第四節服務規定第二十一条及び第九章懲罰規程第二節処罰規定第十五条により、任務外では、絶対に能力を使えないようになってますから」
(能力使ったか使わなかったかなんて、周りには何にも分かんねえんじゃねえのか?)
イルシンは、心の中で呟いてみた。使えないと言っている以上、イルシンの心の呟きが分かったとしても、相手は何も言えないはずだ。だが、子供は更に言った。
「本当に、上官からの命令がない限り、或いは軍の非常事態宣言のレベルC以上が発令されない限り、テレパシー能力は、一切使えないんです」
「いえ、彼は何もそんな、疑っている訳ではないのであります。軍規は絶対ですし」
ヴァシリがイルシンとカヅラキ・ユウの間に入るようにして、一生懸命に話す。
「ただ、精神感応科の方とは、滅多にお会いしないので、じぶん達も知識が不足しておりまして……」
「だから、じぶんが派遣されました。精神感応科と、他の科との連携を深めるというのが、軍のこれからの方針です。それと、テレパシー能力自体についても、協力して、理解を深め、知識を増やさないといけません。じゃないと、何の謎も解けない……」
カヅラキ・ユウの言葉の最後のほうは、急に声が低くなったのでうまく聞き取れず、ただ「謎」という単語だけが、イルシンの耳に残った。
「ええと……、それで、何か、注文しましょうか」
ヴァシリが、気を遣ってか、必死な雰囲気で訊くと、カヅラキ・ユウは、ふっと表情を綻ばせて、卓の上に置かれたメニュー端末に目を遣った。基地の生活は夜も昼もない三交代制。八時間勤務と八時間休息、八時間待機である。
「バンブー・ケーキ……」
画面に触れるまでもなく、カヅラキ・ユウは呟いた。触れられるまではメニューの宣伝を繰り返している端末画面が、丁度、淡い緑色のケーキを映していたのだ。即座に、ヴァシリが反応した。
「ああ、それは最近、この基地の培養室で栽培され始めた食用竹を材料にしたケーキで、竹の繊維のセルロースを半分ほど分解してグルコース、つまりブドウ糖にして使っているらしいですよ」
「……美味しそうですね」
意外に意欲的なところを見せて、カヅラキ・ユウは、端末画面の注文アイコンに左手を伸ばした。が、卓の中央に置いてあるメニュー端末の画面に、あと僅かなところで指先が届かない。本当に背が低いのだ。年齢は、十歳程度に見える。けれど、人類宇宙軍学園高等学校には、
(二十一歳のおれ達から見りゃ、まだまだ餓鬼だってことだな)
イルシンは無言で、注文アイコンに触れてやった。ここ十年ほどでテレパシー能力研究が飛躍的に進んだため、テレパスだと認定される子供が急増しており、規模の拡大を図る人類宇宙軍精神感応科においては、その影響が顕著に表れて、低年齢化が進んでいるという話は聞いたことがある。
「ありがとうございます」
カヅラキ・ユウは少し驚いたような顔で、礼を述べた。
「で――、ここでは食べにくいと思うんですが……」
イルシンが暗に別の卓へ行けと言うと、カヅラキ・ユウは目を瞠って、ぱあっと顔を輝かせた。
「じゃ、一緒に、カウンター席へ行きませんか。じぶん、一度、ああいう席で食べてみたいと思ってたんです!」
イルシンもヴァシリも、四階級上の相手に、一人で行けとは言えなかった。
「あ、言うの忘れてました」
バンブー・ケーキを大方食べ終えたカヅラキ・ユウが、不意に声を上げる。
「任務の時以外は、敬語、使って下さらなくていいです。じぶんも慣れてないし、こんな年下の相手に、嫌でしょう?」
それは、願ったり叶ったりである。
「――本当に、いいのか?」
イルシンは、既に敬語ではない言葉で念押しした。
「はい」
カヅラキ・ユウは嬉しそうに頷いた。
「じゃ、そろそろ時間なので……」
腕端末を見ながら、ヴァシリが椅子から腰を浮かした。時刻は人類宇宙基準時間で
「そうですね」
バンブー・ケーキを綺麗に食べ終えたカヅラキ・ユウも椅子から降り、三人は食堂から出た。基地内のあらゆるサービスは無料なので、支払いの必要はない。
「すみません、お手洗いの場所、教えて下さい」
後ろから来るカヅラキ・ユウに訊かれて、イルシンは歩きながら振り向いた。
「ああ。おれも行くからついて来いよ」
もう完全に友人口調だ。我慢して付き合っているのだから、ぶっきらぼうで済むのはありがたい。
「じゃ、ぼくも親睦を深めに、一緒に」
ヴァシリがおどけて言い、三人でトイレの入り口まで行った。だがそこで、ふとカヅラキ・ユウが離れていくので、イルシンは足を止め、声をかけた。
「おい、どっち行くんだよ。トイレはここだぜ?」
カヅラキ・ユウは、きょとんとした顔でイルシンを見上げ、答えた。
「でも、そこ、男性用トイレですよね」
イルシンは、目の前に立つ、自分の胸までの身長しかない、やや色素の薄い東アジア系の子供を、まじまじと見下ろした。カヅラキ・ユウが爪先を向けた先には、女性用トイレの
「は?」
イルシンが聞き返すと、カヅラキ・ユウは、初めて眉間に微かな皺を寄せ、言った。
「じぶん、女です」
「――は?」
もう一度、イルシンが間抜けに聞き返した時には、最早カヅラキ・ユウは女性用トイレの中へ姿を消していた。
「……そう落ち込むな、ぼくも分からなかったから」
ヴァシリが、ぽんとイルシンの肩を叩いて、慰めの言葉を寄越した。
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