TR-10 - I Wanna Be Sedated
チェコの秋は駆け足で過ぎ去っていく。八月の終わり頃からだんだんと気温が下がり始め、九月には陽が落ちてから急激に冷えるようになり、十月も半ばを過ぎると往き交う人々の装いはもうすっかり冬のそれとなる。
そんなチェコの、短い秋の楽しみのひとつがブルチャークだ。
九月になるとあちらこちらで葡萄の収穫祭が行われ、ブルチャークと呼ばれる発酵途中の若いワインを求めて人々が殺到する。ブルチャークは搾りたての葡萄ジュースのような芳醇な香りと口当たりの良さが特徴で、特に白は微炭酸の林檎ジュースのようにまろやかで飲みやすい。
ファーマーズマーケットなどで買える、ペットボトルに詰めたものが安価で人気だが、アルコール度数は発酵が始まったばかりのものでも5~7%ほどはあるので、飲みやすく美味しいからといって調子よく次から次へと杯を空けていると、あとでえらい目に遭うことになる。
普段はビール党の面々も、この期間限定の毎年の楽しみは見逃せないらしく、それぞれ試飲して美味しいと思った醸造家の屋台のものを、持てるだけ買ってきていた。
全員散り散りになり帽子やサングラスで軽くカモフラージュしていたが、ドリューは特徴的な髪の所為ですぐにジー・デヴィールのメンバーだとばれていた。ルカは支払いをするときに気づかれたが、しっと指を立てて微笑みかけ、握手をしたりして対処しパニックは免れた。ジェシはまったく問題なく、ユーリとテディは気づいた観光客に少し騒がれたが、早い逃げ足でなんとか難を逃れていた。
アウティング騒動も、その後インタビューなどで平然とした受け答えを続けているうち、ほぼ収まったようだった。
インターネット上では人権擁護派の意見が多数を占めていて、因習を打破できないでいるのは一部の古くからあるマスメディアだけなのだとわかった。時代後れな醜聞を売りにする雑誌や番組はSNSで叩かれ始め、その結果ばかばかしい質問を浴びせられたりすることも次第になくなり、当事者であるユーリとテディは少しほっとしていた。
SNSでの反応といえば、一部で大変な盛りあがりを見せているところもあった。
バンドメンバー五人のうち三人がゲイ、バイセクシュアルであると発覚したことで、ロニーは女性ファンが離れるのではと危惧していた。だがSNSでは美形のゲイに対するフェティシズムを持った層が歓喜の声をあげていて、逆に熱狂的なファンが増えたのではないかと思えるほどだった。案ずるよりなんとやらである。
ただ、残念なことにLGBTに不寛容な層もないわけではないし、特に自分の考えでも意見でもなんでもなくただ罵詈雑言を投げつけたいだけの輩もいて、擁護派に対して罵声を浴びせるような攻撃的な書き込みは少なからずあった。同性愛に興味はないから隠れてやってくれ、などという無理解な意見があったりもした。
オフィシャルファンクラブのウェブサイト内に設置してあるフォーラムにも、『どうしておまえがゲイなんだ なぜ恥ずかしくもなくそんなことを公にして平気でいられるんだ ゆるさない』という書き込みがあり、アンチと見做したファン何人かが叩き始めるとファンとアンチ、同性愛肯定派と否定派でスレッドがあっという間に埋まるほど書き込みが殺到し、酷く荒れた。エリーはメンテナンス中と称し、フォーラムを一時的に閉鎖してしまった。そうする以外になかったのだ。
その後もフォーラムでは頻繁に『ゲイはこの世から滅びろ』とか、『汚らしいオカマ野郎は死ね』、『おまえなんか絶対に認めない』などの書き込みがあった。執拗な酷いヘイトスピーチに辟易し、エリーはそのIPアドレスを書き込み禁止にするという措置をとった。暇潰しに
プロキシサーバを通してしつこく誹謗を続けるこのインターネットの向こう側にいる見えない人物に、エリーはなぜかとても厭なものを感じたのだった。
皆がそれぞれ持ち寄ったブルチャークは、赤の数が少なくほとんどが白だった。発酵度合いや色、風味など醸造家ごとに微妙に違うので、一度に何本か開けて注ぎあい、勧めあいながら飲み比べて楽しむ。
つい先日、収穫祭前に売っていたブルチャークをマレクが買ってきたときは、思いがけず早く味わえることについ喜んで飲みすぎてしまい、ロニーとジェシが酩酊から泥酔を通り越して沈没し、悪心から嘔吐するために浮上するというのをやらかしていた。なので今回は、あとの世話が楽なようにロニー宅でブルチャークパーティを開くことにしたのだった。入って正面にあったデスクや飾り棚は新しい事務所に運んだのでそのぶん広くなったうえに、七、八人がゆったりと坐れるソファのセットは残されているので、パーティにはちょうどいい。
ロニーとメンバーの合計六人がだいたい二本から四本ずつ買ってきていたので合計で二十本。それがずらりと
「……買いすぎじゃない? 飲みきれるかしらこの量」
ブルチャークは発酵途中のフレッシュさを楽しむワインなので、保存には向かない。保存しているあいだも発酵が進んで味はどんどん変わるし、うっかり蓋をきっちりと締めてしまうとガスが溜まって破裂を起こしてしまう。なので、買ってきたらできるだけ早めに飲んでしまったほうがいいのだが――
「楽勝楽勝。今日は飲み明かすぞ、そのためにここにしたんだからな。……あ、ただしロニーとジェシは程々で切りあげてとっとと寝ろよ。頼むから今日はバスルームとベッドへは自分で行ってくれ」
「わかってるわよ」
ワイングラスではなく、大きめのタンブラーでカジュアルに飲む。本当に甘いフレッシュジュースのような美味しさなので、ついごくごくと飲めてしまう。いけないいけない、とロニーは一息に半分ほど空けたグラスを置いて、鱒を皿に取り分けた。
「そういえば人混み、大丈夫だったの? マレクにでも頼めばよかったのに」
「試し飲みして歩いて、選んで買うのも楽しみだからな。人任せになんてするもんか」
白と赤を二本ずつ買ってきたユーリが答え、ホットドッグに手を伸ばす。
「でもばれたんでしょ?」
「ばれたが別になんともなかったぞ」
「俺もばれたけど、指さされてすぐ逃げたから平気だったよ」
「えー、僕ばれませんでした……」
「残念そうに云うな、ばれたかったのか」
「実はちょっと」
バックステージではいろいろあったにせよ、ヨーロピアンツアーは成功裏に終わったと云えるだろう。全公演の観客動員数は二十万人を超え、合わせて発売されたフォトブックは増刷が追いつかず、ツアー中も終わってすぐも音楽誌の取材の申込みが引きも切らずという状況だった。今はようやく落ち着きを取り戻し、束の間の休息といったところである。
皆に料理が取り分けられるとすぐに、ジェシがデジタルカメラをディスプレイに接続していた。ツアー中に撮りためた写真を大画面に映しだし、披露し始めたおかげで宴は序盤から大いに盛りあがった。
ツアーで行ったホテルの窓からの眺めや料理、スタッフが照れ混じりにとったふざけたポーズ、不意打ちを喰らって素がまるだしのメンバーの顔。写真のほとんどはなんでもない、ちょっと笑える程度のものが多かった。が、なかでもメンバーの私物の写真は、撮られていたことに誰も気づいていなかったこともあり、かなり受けていた。
「なんだよこれ、おまえこんな写真いつの間に撮ったんだよ」
「大丈夫です、撮ったらまずいと思ったものは避けましたから!」
「撮ったらまずいものがあったみたいに云うなよ!」
大きな画面には、開けられたままのラゲッジのなかにある派手なフューシャピンクが映っている。初め、皆はそれがなにかと凝視していたが――
「あっおい、これ俺のパンツじゃないか」
「ずいぶん派手好きなんだなドリュー」
そう云って笑ったユーリが、次の写真を見てあっと短く声をあげた。
「俺の部屋に勝手に入ったな、ジェシ」
大きな鏡の下にあるチェストには、サングラスと伊達眼鏡のコレクションが並べられていた。二十本以上はある。
「……いつもこれだけ持ち歩いてるのか?」
「いや、最初は三つほどだったんだが、なぜか増えたんだ」
「そんなことあります!?」
賑々しく話しているうちに、また画面の写真が変わった。黒い革のバッグのなかにカラフルなキャンディやチョコレートの包み、クッキーの缶らしきものがたくさん入っているのが見える。誰のものかは明白だった。
「あれってスイートにあったやつじゃないか? おまえちゃっかりしてるな、テディ」
「いや、だって誰も食べないから……。あとで食べようと思ってポケットに入れて戻って、着替えるときにバッグに放りこんでたらああなった」
次の写真には、バスルームの鏡の前に並べられたスキンケアローションやクリームの数々。てっきりロニーの部屋だと思い、皆は顔を見ていたが。
「え? これ私のじゃないわよ」と、ロニーが首を振る。すると、むすっと唇を尖らせ、ルカがぼそりと云った。
「……俺のだよ、悪いか」
「おまえかよ!」
意外な持ち主に一瞬呆気にとられ、ロニーがぷっと吹きだした。つられて皆も笑いだす。
「あー、そういやおまえ、モデルもやってたっけ……しかし、それにしても」
「そうだよ。俺は仕事のためにやってんだよ偉いだろうが。……笑うなロニー!」
「――そういえば、そろそろ次のアルバムのこと考えなきゃいけないわね」
話題は次々と移り変わり、いつものように音楽の話になっていたとき、ふとロニーがそんなことを云った。途端に、ルカたちから異議と不満の声が洩れる。
「やめろよ、早いよ。やっと落ち着いたってのにさ」
「なにも今云わなくてもよかったんじゃ……」
「はいはいごめん! でもま、頭の片隅には置いといてね。どこか暖かいところに滞在するとかも考えてるから」
「それはいいな、マルタとか?」
「マルタは暖かいけど雨が多いぞ。リスボンとかバレンシア辺りがいいんじゃないか」
ルカやドリューが話を膨らませていると、頬杖をついてつまらなそうな顔をしたテディがぼそりと呟いた。
「もう移動したくないよ……やっと戻ってきたのにさ。俺はここが……プラハがいい」
「ええ? めずらしいわね、テディがそんなこと云うなんて……」
意外そうに笑みを浮かべながらロニーがそう云い――ふと気づいて真顔になった。
「……ねえちょっと。それ、あなたひとりで飲んだの?」
皆が一斉にテディの傍らに転がっている、空になったブルチャークのボトルを見た。二本。テーブルに置かれた、彼の眼の前のボトルも半分は減っている。
お互いに注ぎあったり手酌で飲んだりしていたのであちこちに開けたボトルがあり、誰がどれをどれだけ飲んだかはわからないが――少なくとも、いちばん端に坐っているテディにしか手が届かないところに、空のボトルが二本あることだけは確かだった。そして、酒に弱いため普段は注がれることを嫌い、テディは自分からも人の杯に注がないということも。
ルカは心配そうにテディを見つめ、しかし呆れたように云った。
「おい、おまえはまた……黙々と飲んでるからペースが早いんだよ」
「そうでなくても口当たりがいいからねえ……。っていうか大丈夫なの? しゃんとしてる?」
「酔ってないよ……。でもちょっと……行ってくる……」
「ひとりで大丈夫か?」
「大丈夫……」
よろりと立ちあがってリビングを出るテディを、一同は見送った。
「……あいつはさ」
チーズのオイル漬けをつつきながら、ルカは云った。「子供の頃、ブダペストとかベオグラードとか転々としてたらしいから……もう、うんざりしてんだろきっと。プラハは気に入ってるみたいだから、動きたくないんだろうな」
「転々とって、なにか事情があったの?」
「ずいぶん前に一度だけ聞いたことがあるけど、ジャズシンガーだった母親が気紛れで、揉め事があるたびに引っ越してたんだってさ。……初めて会ったときのあいつはとにかく喋らなかった。人見知りがひどくてさ、自分からはぜんぜん話さなかったんだ」
ぱくりとチーズを口に入れて、ルカは続けた。「それで気になったんだけどな。なんか、かまいたくなるんだよな」
「そうだったの……。かまいたくなるっていうのは、なんかわかる気がするわ」
「自分からは寄ってこなかったけど、こっちから話しかけると意外に素直でさ。で、音楽の話で気が合って、やっと自分からも喋るようになったんだ」
「へえ、なんか意外なようなそうでもないような……僕が初めて会ったときには、もう校内の有名人って感じでしたけど」
「……ジェシ」
「あ、いや……、ふたりが
「ベストカップルねえ……」
はあ、と溜息をついて、ルカは続けた。「綺麗な顔したおとなしい奴だと思ってたら、中身はとんでもないトラブルメイカーだったけどな……想像つくだろ?」
ああ……と、それぞれがなにかを思いだすように苦笑する。
そして、なんとなく話のオチがついて風船のように浮かびあがった静けさを、ユーリが破った。
「遅くないか」
ロニーとルカははっとして、テディの消えた扉の向こうにあるバスルームのほうを見た。
「やだ、ちょっと……」
「俺が見てくる」
ユーリが既に立ってリビングを出ようとしていた。ルカもそれに続き、ふたりはエントリーホールの正面にあるバスルームのドアを開けた。
――テディはバスタブに寄りかかって眠っていた。
声をかけ、膝をついて肩を揺さぶりながら、ユーリは辺りになにも転がっていないのを確認するかのように、左右を見まわした。ルカがバスルーム内の明かりをつけると、少し顔色が蒼白いように見えた。吐いてから力尽きたのか吐けていないのか、辺りを汚した様子はなくわからない。
「おいテディ……大丈夫か。ちゃんともどしたか?」
ルカが声をかけるが反応はない。するとユーリがテディの頸を触り、頬に手の甲を当て、次に顎に手をかけると指を口のなかに入れた。ルカが怪訝な顔でその様子を見つめていると、ユーリはその指を少し嗅いで「大丈夫だ、たぶん吐いてる」と云い、シャツの
そして、そこにあったタオルを冷たい水で絞ると、ユーリはテディの口許から頬、顎から頸にかけて丁寧に拭い始めた。もう一度タオルを水で濯いで絞り、額に当てる。すると、ようやくテディが身じろいだ。
「おいテディ、気がついたか? つらくないか」
「ん……、平気……」
「ちゃんと吐けたか?」
「吐いた……」
反応があったことにほっと息をつく。だがテディはかくんと頭を下げ、また寝息をたて始めてしまった。
「おい、水を飲んだほうが……無理か」
失笑し、ユーリはくしゃっと髪を掴み、頭を撫でた。
「――なあユーリ」
「ん?」
ルカは無表情に、淡々と云った。
「おまえ、やっぱり寝ただろ」
ユーリはテディの前にしゃがみこんだまま動かず、振り向きもしなかった。
「……ったく、しょうがねえ奴だな……」
その言葉はユーリに向けられたものではなかった。てっきり罵声が飛んでくるか拳が飛んでくるかと思っていたユーリは、その意外な反応に途惑い、思わず訊いてしまった。
「どういう意味だ……怒らないのか」
「怒るべきなんだろうけどな」
眠っているテディを見下ろしながら、ルカは淡々と続けた。
「正直、こんなことは初めてじゃないんだ……まあ、不特定多数の相手と寝るのなんて、ゲイならめずらしくもないんだろうけどな。初めて会った十四のとき、こいつはもう男を知ってたくらいだし」
「それは――おまえ、まさか聞いてないのか」
「なに?」
「いや……いい。なんでもない」
「なんだよ」
ユーリはなにも答えなかった。
なにかを堪らえるようにぐっと唇を噛みしめ、テディの寝顔を見つめている。
ルカは溜息をひとつついて、独り言のように云った。
「正直、一緒にいればいるほど俺はこいつのことがよくわからない。ここでおまえを殴りたくならないなんて、やっぱりおかしいよな……」
タオルを握った手が、額からこめかみをそっと撫でる。
「……もう愛してないかもって、おまえはそう云ってるのか?」
「自分は愛してるって云ってるように聞こえるぜ?」
ゆっくりとユーリは立ちあがった。
「……とにかく、ベッドに運んでやろう。手伝え」
「オッケー」
ユーリがテディの脇に手をまわし上半身を抱えると、ルカは脚を抱え、ぐったりと眠ったままのテディをバスルームから運びだした。
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