TR-09 - Like a Rolling Stone
ジー・デヴィール初のヨーロピアンツアーはベルリンを皮切りにストックホルム、ワルシャワ、アムステルダム、バルセロナなど、全部で十一ヶ国十四ヶ所を廻る。途中プラハへ凱旋し、イギリスではロンドン、マンチェスター、グラスゴーと三ヶ所で公演する。
アムステルダムとマンチェスターではライヴビデオ用の撮影が予定され、バックステージや移動中のメンバーたちの素顔はニールが同行して、引き続き撮影することになっていた。
長距離の移動とリハーサル、公演と反省、改善を繰り返すツアーは、ミュージシャンにとって最も手応えが感じられてやりがいがある反面、過酷な仕事でもある。次の公演地に着いて、まずやらなければならないのはホテルでゆっくり休養をとってリラックスすることだが、ルカたちの場合、そこには決まってカメラを構えているニールがいた。
初めての地、初めての大舞台でのライヴ、初めて見る一万を超える人の波――恒常的にハイになってしまっていたとしても、彼らを責めることはできないのかもしれない。
カメラが常に傍にあることにもすっかり慣れた頃だった。しかしそれはカメラの前で、ないと同じに行動できるようになったということではなく、ポーズを作ってもそれがまるで素であるかのようにぎごちなさがなくなっただけだった。
良く云えば二十四時間スターで居続けることができるようになったということだろうが、そんな毎日でストレスが溜まらないはずがない。
ストックホルムのとある贅を尽くしたホテルのスイートルームで、ユーリはジョイントを巻いて皆に廻していた。反省会だったはずがこうしてリラックス会になってしまうのも、もはやお決まりの展開になっていた。
何処の国にいようが、馴染みのローディに一言云うだけで欲しいものはなんだって手に入った。旨いものも酒も、煙草でも薬でも、なんでもだ。頼んでもいないのに、上質な
そのうち、一人ひとりが泊まる部屋とは別に皆がリビングのように使えるよう解放しているスイートルームには、常にその地の銘菓や旬のフルーツ、ありとあらゆる酒やドラッグが揃えられるようになった。バンドメンバーのみならず、そこには主要なスタッフたちが絶えず出入りしていて、宛らちょっとしたパーティルームだった。
それでも過去にいろいろなバンドを見てきたベテランのクルーは、ジー・デヴィールはかなり行儀の良いほうだと云った――若い女性を大勢侍らせたり、グルーピーを連れこんで乱交を始めたりはしないからだ。
ドリューとジェシは少しジョイントを愉しむと、すぐに自分の部屋に戻っていった。これもいつものことだった。そしてしばらくするとノックの音がし、ニールがカメラを持って入ってくる。このくらいのタイミングで来ればもうルカたち三人がすっかりハイになり気が大きくなっていて、カメラが入っても気にしないことを知っていたのだ。
その日も案の定、三人はなにやら話しこみながらくすくすと笑っていた。テディは毛足の長い絨毯に腰を下ろし、ソファに坐っているルカの脚に凭れている。ユーリはその向かい側でエリクスバリを飲んでいた。
なにか云われない限り、ニールはカメラを向けているあいだ、自分からは口を利かなかった。何事も起こらなくてもカメラはずっと回し続けたままだ。そうしているうち、必ず誰かがなにかを始める――それをニールはわかっていた。
その日の場合、まずルカとテディがじゃれあいを始め、しばらくしてユーリがふらりと部屋を出てしまった。軽口を叩きあい、外方を向いて立ち去ろうとしたテディの腕をルカが引き寄せ、抱きしめてキスをする。軽い口喧嘩をしながら、小突いたり笑いあったりして何度も重ねているうちにどんどん深く貪るようなキスになり、ソファの上にテディを押し倒すと、そこでふと思いだしたかのようにルカがニールに向かって手の甲で払うような動作をした。出ていけという合図だとわかり、ニールはカメラを持って動いたが――レンズをソファの背に向け、そっとカメラを置いたまま部屋を出た。ふたりが情を交わす背後で、小さな赤いランプが灯っていた。
また茹だるような暑さのなか、いろいろな種類のアイスクリームが差し入れられたとき。バニラアイスをチョコレートでコーティングしたバーを選んだテディが、ふと撮られていることに気づいてとんでもないふざけ方をした。
カメラ目線のまま口のなかへ吸いこむように深くアイスバーを銜えこみ、頬をへこませて何度か往復させたのだ。そして、ちろりと出した赤い舌先で下からつーっと舐めあげると、テディは指で口許を拭いながらふっと笑って背を向けた――ニールは生唾を呑み、思わずズボンのポケットに手を突っこんだ。
また、こんなこともあった。
ノックはしたが返事がないので、ニールはカメラを回しながらそっと部屋に入った。すると――ユーリが、テディの右腕に注射針を突き立てていた。
ふたりの傍らには、なにをやっているのかひと目でわかる一式が散らばっていた。スプーン、布を編みこんだカラフルな紐、砂のような色をした粉末が残っている、破かれたグラシン紙。その傍の透明な袋の中には、同じグラシン紙の小さな包みが、まだいくつも輪ゴムで束ねられて入っている。
ふたりが今、自分の眼の前でやっているのがヘロインだということはニールにもわかった。しかしそれを咎めることもなく、ニールは黙ってカメラを回し続けた。
もちろんそんな頽廃的なシーンばかりを撮っていたわけではない。ドリューがホテルの窓からスケッチをしている様子や、ジェシが趣味の一眼レフカメラで写真を撮っているところや、テディが欠伸をしながらコーヒーに砂糖を何杯も入れているところ、ルカが女性誌の取材を受けているところなど、カメラはバンドのステージ以外での貴重な顔をたくさん収めていた。
そして、そのうちわかってきた――バンドでいちばん突拍子もない行動をするのは、意外なことにテディだった。
テディはあるとき、ホテルに備えつけのボディウォッシュの香りがえらく気に入って、ジャクージのついたバスタブのなかにボトルの中身を一本、全部入れてしまった。おかげでバスルームはおろか部屋や廊下にまで泡が溢れ、テディはふわふわと漂う泡と噎せかえるほどのバニラムスクの香りのなか、肚を抱えて笑い転げていた。
またあるときは、突然安全ピンの針先をジッポーの火で炙ったかと思うと、それを鏡の前で耳朶に刺し始めた。しかし手の角度の所為かうまくいかないらしく、途中で諦めユーリを呼んだ。が、ユーリは開けてやるどころか、ちゃんとピアス用のニードルを使って消毒もしなきゃだめだと説教を始めた。
だいたいなんでいま開けようとしたのかと問われると、テディは「暇だったから」と答えた。とにかく道具がないとだめだ、明日また俺が開けてやるからと説得するユーリに「ボディピアスもつけてみたい、臍とか乳首とか」と云いだし、強硬に反対されていた。
結局ユーリは翌日新たに三つもピアスホールを開けてやり、テディのピアスはこれで左耳に一つ、右耳に四つになった。タトゥーといい、見た目はおとなしそうなテディなのに、いちばんロックスターらしくなってきたなとニールは思った。テディがたびたび起こすちょっとした騒動は、ニールにこういうものを撮りたかったのだと思わせるものだった。
そうして味を占めたように、ニールはメンバーがばらばらに行動するときは決まって、テディを追うようになった。
そしてある夜。酒に酔ったのか、或いは酒以外のなにかだったのかもしれないが、足許の覚束無くなったテディをユーリが部屋まで連れていった。カメラを持ってその跡を追うと、ユーリがテディを介抱しながら髪をゆっくりと撫でていた。なにやらふざけたり、ドラッグに溺れたりしているいつもの雰囲気とは違ったので、ニールはまたもやカメラを固定して静かに部屋を去った。
翌日、録画された内容をチェックしてニールは驚愕した――そこに収められていたのは、テディ自身による衝撃的な過去の告白だった。
こんな調子で約一ヶ月半のツアーは続いていった。そして最終日、バルセロナでの公演を終えるとようやく一行はプラハへと、非日常から日常へと戻った。
ツアー中の常軌を逸した毎日にいちばん毒されていたのは、ひょっとしたらニールだったのかもしれない。
* * *
持ち手の部分を曲げて置いても安定するようにしたスプーンに、ユーリはスパーテルで掬ったほんの僅かな粉末を入れた。そこに
その様子を見て、テディは自分の上腕に駆血帯に使っている紐を巻きつけた。血管を浮き立たせて消毒し、ユーリから針先を上に向け軽く指で弾き空気を抜いたシリンジを受けとると、待ちきれないように一息にそこへ針を突き立てる。血管を探り当て、そっと血を引くと、それは真っ赤な
テディがちゃんと腕から針を抜いたのを確認して、ユーリは新しい使い棄てのシリンジの封を開け、自分のぶんの作業を進めた。
ヘロインはあっという間に血管を駆け巡り、ラッシュと呼ばれる圧倒的な恍惚感をもたらすので、針を抜く余裕すらないことが少なからずあるのだ。テディは既にとろとろと睫毛を揺らし、ぐったりとソファに凭れていた。ユーリは手許に転がっているシリンジを拾い、テディの
自分も打ち、ふぅと息をついて目を閉じテディの傍らに凭れ掛かる。既にある程度の耐性ができていて、テディが味わっているほどのラッシュはユーリには感じられない。ただ暖かい光に包まれたようにふわふわと心地良く、眠気に襲われる程度だ。だからといって量を増やしたり、立て続けに摂取したりするほど、ユーリは愚か者でも無鉄砲でもなかった。やりすぎないようにしようという意志を、テディを見守っていなければという思いが後押しし、奇跡的なところで踏み留まることができている。そんな状態なのだった。が――
数分後、快感と多幸感の海から戻ってきたテディが、ぼそりと呟いた。
「……今、ルネに会ったよ……」
その一言を聞いて、今度こそもうこれきりでやめようと、ユーリは決心した。
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