遠回りの感謝状

真藤 柊

遠回りの感謝状

 最近の夫の趣味はパズルやクイズ、なぞなぞの本を読むことだ。小学生の孫たちと遊ぶためである。読書家だった夫は、退職してからはますます読書に没頭している。物静かな夫はさらに無口になり、二人で過ごす居間には絶えず沈黙が流れていた。

「手紙が届いていたぞ」

 だから夫が急にそんなことを口に出した時は、あまりの驚きに思わず洗っていたスプーンやフォークを落としてしまった。

 こんなふうに感情が行動に表れてしまうのが、私のダメなところである。夫は、めったにそんなことにはならないけれど。

「あら、わざわざありがとうございます」

 夫は変わらず無言だった。落としたものを拾って私に手渡すと、カウンターの上に手紙を丁寧に置いて書斎へ向かった。夫は夕飯まで書斎にこもる。私は洗い物を終わらせ、すぐに手紙を手に取った。

 宛名が印刷された白い封筒だ。しかし、差出人の名前はない。何かの通知かしら。開けると白い紙が一枚。そこにはまた文字が印刷されていた。


『三百六十五歩のマーチ

 あちめ んら゛おてい。 けをでね もしまなも でけおふ づおくゆい。

 かをけをさか わ むごせい。 せるほづ えそ゛おあ くをけいづ あやい。けるおよめ ゆれさき』


 ……なんだか頭が痛い。ナントカ詐欺のたぐいじゃなくて安心だけれど、すごく不気味。

 孫たちがたまに手紙を送ってくれるけれど、まさかパソコンで文字を打つわけがない。でも大人を真似て、ぐちゃぐちゃに打ち込んで適当に印刷しちゃったのかしら。少しは可能性がある。好奇心旺盛なあの子たちのことだもの。ただ『三百六十五歩のマーチ』が気になる。私がよく口ずさむ曲だ。

 近頃働かせていなかった頭を総動員させてみても、何も浮かんでこない。考えにふけっていると、炊飯ジャーのピー音で我に返った。あわてて台所へ戻る。冷蔵庫を開けようとしたとき、カレンダーがふと目に付いた。今日の日付にも意味不明な文字がある。


『かぬをば』


 もっと頭が痛くなってきた。小さく丸っこい字。孫たちがいたずら書きでもしたのかしら。夫は子供好きで孫たちにはめっぽう甘い。多少のいたずらは気にせずに微笑むような人だから。

 不意に夫が居間へやってきた。普段の夕飯の時間よりも早い。

「もうお夕飯にしますか」

 私の問いに無言で首を振り、夫は口を開いた。

「さっきの手紙は誰からだったか」

「それがさっぱりわからないの。いたずらかもしれないわ」

 手紙を手渡すと、夫は眉をひそめて私の顔を見つめた。

「ほらね、理解できないでしょう。でもどうしましょう、これだけじゃ警察に相談もできないし……」

「いつもありがとう」

「えっ」

「今度の休みにはどこかへ出かけよう」

「あの」

「金婚式を目指そう」

「ちょっと」

「それまでお互い健康でいよう」

「どうしたんですか」

「これからもよろしく」

 そこまで言うと夫は真っ赤な顔で手紙を私に返した。

「……三歩進んで二歩下がる。一字進めて読めばいい」

 蚊の鳴くような声でつぶやくと、またすぐに書斎へと向かってしまった。夫の言葉を反芻して手紙を眺める。

「あっ」

 続いてカレンダーの文字をもう一度凝視する。

 さっきまではただの文字の羅列でしかなかったものが、かけがえのない意味を持ってよみがえる。


『記念日』


 ――そういえば、今日は結婚記念日だわ。

 頬がゆるむのを抑えることができなかった。

 まさかあの人がこんなことをするなんて!

 もう一度カレンダーの字を眺めてみる。普段の夫のきっちりとした字からは、想像もできないくらいの可愛らしい形。緊張でこうなってしまったのか、それともわざと崩して書いたのか。

 どちらにせよ、そんな夫が愛おしい。

 私は書斎へ向かうと、二回ノックしてからこう告げた。

「お夕飯、あなたの大好物にしますからね」

 返事の代わりにドサッと何かが落ちる音がした。ひょっとすると、本でも落としてしまったのかしら。

 案外私たちは似ているのかもね――そんなことを思いながら私はまた頬をゆるめた。

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