第十六髪 束の間の 日常という ありがたさ

「う……ん」


 慎太郎はやけに重たいまぶたを、ゆっくりと時間をかけ開く。

 目の前にあるのは、あの広く手入れのされていない書庫ではなく、小ぢんまりとした本棚だった。

 良く見慣れた愛読書が整然と並んでいる。


「夢、を見ていたのか……?」


 慎太郎はいや、と首を小さく横に振る。

 先程まで、間違いなく「あの世界」に居たはずだ。

 風呂から出た後、水滴を取るため、兵士長のルビンと共に手ぬぐいで股間こかんにパーンと豪快ごうかいな一撃を決め、さらに乾布摩擦かんぷまさつ、頭部のケアまで行い、寝所で眠りに就いたはずだ。

 意識が定まらない中、まばたきを繰り返し視界のゆるやかなブレを収めていく。

 机の時計を見ると、すでに時間は午後の4時を回っていた。

 本の日焼けを防ぐため、常時ブラインドを下げた窓のはしから、うっすらと斜陽しゃようの光が差し込み、床をオレンジ色に染めている。

 のどかわきを強く感じた慎太郎は、机に置いてあったコーヒーを飲み干す。

 完全に冷めたそれは、のどごし良くするりと胃に落ちていく。

 が、それでも足らず、まだおぼつかない調子のまま、身体をふるい起こし立ち上がると、一階へ下りていく。


「あ」


 ちょうどタイミング悪く、莉々と理絵が部屋から出てきたところだった。


「やあ、理絵ちゃん」

「おじさまー、お邪魔してます! ごめんなさい、ご挨拶が遅れまして」

「あ、いや、こちらこそすまないね。じゃ、じゃあ、パパはキッチンに行くから」

「もう、早く行ってよ! 出てくるならせめて髪はちゃんとしてきてよ!」


 顔を真っ赤にして怒り顔になる莉々を見て、慎太郎は慌ててキッチンに逃げ込む。

 冷蔵庫の前まで来て、ペットボトルを出しながら頭を触ると、落ち武者もかくあるかというほどに激しく乱れていた。

 喉をうるおすと、一旦寝室へと移動する。

 そのまま前のめりになりベッドに倒れ込むと、その拍子ひょうしにふわりと花のような香りが舞い上がる。

 どうやら妻が夜勤から帰ってきて、仮眠を取っていたようだ。

 普段であれば夜勤の翌日は一日丸々休みになるはずだが、例の人手不足が理由で夕方にはまた出勤している。

 つい先程もアプリに「お仕事行ってきまーす」といつもの感じでメッセージが届いていた。

 手伝える仕事でもないし、ほこりを持って続けてきたのだから出来る限りの応援おうえんはしたい。

 慎太郎は文章を作っては消すのを何度か繰り返した後、「いつもお疲れ様。家事は出来るだけやっておくよ。何か食べたいものがあれば作り置きしておくから」と返した。

 そうこうするうちに、ようやく妙な倦怠感けんたいかんが取れ、しっかり髪を整えて再び一階へと下りる。

 と、莉々がひとり、リビングでくつろいでいた。

 慎太郎を見ると、少し申し訳なさそうに頭を下げる。


「あっ、パパ。さっきは……ごめん」

「あ、いや。あれはパパがみっともない姿だったからね。……ご飯にしようか」

「うん」


     *


 秋の食卓に、グリルで焼いたさんまの匂いが広がっていく。

 莉々は小さい頃から魚が好物で、あまりにも食い意地が張った結果、身一つ残さず食べる特殊能力を手に入れた。

 好きこそ物の上手じょうずなれ。

 アラフィフになっても綺麗きれいに出来ない慎太郎とは大違いである。

 

「そういえば、ママが帰ってきてたよ。パパは会った?」

「いや、パパは書斎しょさいで寝てたからな……」

「ちゃんとベッドで寝ないと身体に悪いよ。で、さっきシャワー浴びて、パパが下りてくる前にまたお仕事行っちゃった」

「大変そうだなあ」

「ねー。……パパ、ママと全然会ってないんじゃない?」


 最後に会ったのは水曜だから、かれこれ三日になる。

 タイミングが合わないと一週間くらい顔を合わせない時もある、が。


「そうだな、……会いたいな」


 そう思わずこぼしてしまうほど、慎太郎は妻に会いたくなっていた。

 理由はいろいろある。

 が、おそらく一番は後ろめたさのようなものがあったからだ。

 ふと、大巫女の熱っぽい視線を思い出し、それを振り払うかのように首を左右に振る。

 目を開けると、にやあ、と底意地の悪い笑みを浮かべる娘が居た。


「えー、なになに? 娘を前にのろけって、恥ずかしいなあ、パパってば」


 言葉とは裏腹に妙にテンションが高そうな莉々に、慎太郎は苦笑いをしながら頬をかく。

 実情はもう少し後ろめたいものだが、そこは誤魔化ごまかし笑いの出番であった。


 家事を済まし、ふらふらとベッドに入る。

 慎太郎には確信があった。

 次に起きた時はあの世界で目覚めると。

 確か予定では、大巫女達と地下迷宮に行き、最奥にいる怪物の尾の毛を拝借する、という流れだったはずだ。

 

 頑張ろう。


 そう、薄れゆく意識のスミで決意を固めた。


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