第17話 友達だから


 それからどれくらいの時間が流れたのかは分からない。

 おそらく一時間以上は経過したとは思う。

 僕はローテーブルのガラスに映るシーリングライトの光を見つめ、ぼんやりと時間が過ぎるのを待った。

 

 窓辺の方からは詩織の父、綾瀬が五本目くらいの煙草に火を点け、気持ちよさそうに煙を吐いている。

 娯楽要素の一つもない、必要最低限のものばかりが揃えられたこの部屋は時の流れが遅くなっているように感じた。

 与えられる情報の少なさから時間の密度自体が薄っぺらいものになっているのだろう。

 

 僕と綾瀬はしばらく何も言葉を交わさなかったが、唐突に彼は沈黙を破り僕の方に質問を投げかけてくる。


「あいつ、学校だとどんな感じなんだ?」


 意識が乖離しかけていた僕は数秒だけ反応が遅れる。

 それを僕に聞いてくる辺り、彼と詩織は学校の話をすることはないのだろう。

 詩織がその話題を避けているからなのか、それとも彼が娘の様子から察して聞けずにいたのか。

 どちらにしてもこの男を見る限り、明らかに会話をするタイプではないだろうが。

 

 何と答えるべきか、まさか正直にクラスで浮いていて話し相手はおそらく僕を除いて一人もいませんなんて言えるはずもない。

 当たり障りのない文章を頭の中で形成し、僕は口を開く。


「そうですね・・・彼女は、皆から一目置かれている存在です。容姿に優れ、人当たりもよく、面倒見もいい。転校生してきた僕に対しても親切にしてくれました。優しい人だと思います」


 彼は灰を銀皿の上に落とし、「そうか」と答える。


「いや、学校の先生がな。あいつが学校休み勝ちだっていうから、家ではどんな感じかって聞かれたんだよ。俺はそんな話知らなかったし、まさかいじめにでもあっているんじゃないかって思ったんだけどな」


 そうだった、度々彼女が無断欠席することをすっかり忘れていた。当然連絡は保護者の方にもいくのだろう。

 僕は愛想笑いをして「そうなんですか。僕、最近転校してきたばかりなので初耳です」と誤魔化すように言った。

 しかし気にしてくれているあたり、案外ぶっきらぼうに見えて娘想いな一面もあるのかもしれない。

 

 そこから再び沈黙が流れ、数時間後、部屋の扉がノックされた。

「入れ」と綾瀬が言うと、開き戸のレバーがゆっくりと落とされラッチのはずれる音がした。


 そこに立っていたのは詩織だった。

 顔色は優れないものの、怪我をしていた頭や胸部、足先にかけての傷跡は見られず、僕はその姿を見て唖然とする。

 

 この数時間の間に彼女の身に何が起こったのか、綾瀬のいう見てはいけないものとはこのことだったのか、少なくとも常識の範疇にない事だけは一目瞭然だった。


「・・・綾瀬さん」

 

 僕が呟くように言うと、彼女は口を結んだままコクリと頷いた。

 腑に落ちない疑問が次々と浮かび上がり、どれから聞くべきなのか分からなかったが、ただ今は彼女が無事目の前にいることに対して喜ぶべきなのだろう。


「もう、身体は大丈夫?」

 かけられた気遣いの言葉に彼女は笑って答えようとしていたが、息苦しさを覚えるほど気まずい雰囲気が流れるこの部屋の中ではうまく装うことができなかったのだろう。

 苦いものを噛み砕いた後無理やり笑みを浮かべるような、様々な感情が入り混じったまとまりのない表情をしていた。


「うん・・・もう元気だよ。心配かけたみたいでごめんね」


 外見の様子を見る限り、その元気だと言う言葉に嘘はないのだろう。

 しかしあの惨状を見た後に、傷跡一つ残さず何事もなかったように立っている彼女は、違和感以外の何ものでもなかった。

 

 全ては僕の取り越し苦労だった、そんな一言では片付けられない。

 確かに彼女は深手を負っていた、手にこびり付いた生温かい血の感触を今でも覚えている。

 それをたった数時間の間、眠りについただけで癒してしまうなんて、一体何がどうなっているんだ?


〈それに、あいつが人間かどうかなんて俺には分からない〉

 

 そう言っていた綾瀬の言葉が頭の中で流れる。

 あの時は人間に決まっているだろうと疑いようもなく言い切ることができたが、今ではもう分からなくなっていた。




 施設の外に出た時、既に陽は完全に落ち辺りは真っ暗になっていた。

 ろくに外灯の設けられていない関係もあり、施設から漏れる光の範囲外の闇は厚く濃いものだった。

 

 綾瀬は車を門の前まで回してくれて、早く乗れと言わんばかりにパワーウィンドウを開けこちらを見つめていた。

 隣で気まずそうに俯く詩織に向けて「それじゃ、もう帰らないと」と伝えると彼女は「・・・うん」と遅れて答えた。


「ごめんなさい。わざわざ来てくれたのに、私のせいで・・・」


「僕の事はいいんだ、それよりも無事でよかったよ」


「・・・ありがとう」


 彼女は微笑みを浮かべてくれたが、やはりどこかぎこちない様子だった。

 

 車に近づき、僕は後部座席を開けて乗り込もうとすると、「涼川くんっ!」と彼女は声を上げた。

 

 見ると、彼女は胸の前で両手を結び、徐々にこちらへ近づいてきた。

 目の前まで来て立ち止まると、涙目になりながら真っ直ぐに僕を見つめていた。


「変だと思ったでしょ。あんなに大怪我をしたのに、ちょっと寝ただけで元気になって。私、普通じゃないの・・・だからやっぱり、私と関わるのは・・・」


「明日、学校に来るの?」


「・・・え?」


 被せて聞かれた質問に、彼女は言葉に詰まる。僕はクスリと笑って、誤魔化すように頬を掻く。


「僕、綾瀬さんがいないと寂しいからさ。まだ怪我が痛むのなら、仕方がないけど。その時は綾瀬さんが来るまで、ずっと待っているから」

 彼女は目を見開き、唇を微かに震わせる。


「どうして・・・どうして涼川君は私なんかと関わろうとするの?」


「どうしてって、決まってるだろ?友達だからだ」


「友達・・・」


「ちょっと前になったばかりだろ?」


「それはそうだけど・・・」


 僕は理由も無く空を見上げ、小さく笑う。

 綺麗な夜空とまではいかないが、立ち込めた雲の隙間からわずかな星が覗いているのが見えた。


「それに僕は、気にしないよ。綾瀬さんが普通じゃなくても」


 呟くように言った言葉に、彼女の返答はなかった。

 聞こえていなかったのか、宙に浮かんで夜の中に消えていったのか、かっこつけて言った言葉は虚しく宛てのない独り言のように終わった。

 

 彼女に向き直り「それじゃ、また」と言うと彼女は「うんっ!」と言い吹っ切れたように笑っていた。

 

 正直、先程の出来事を見て僕はかなり困惑している。

 彼女自身も言っていたように、普通ではない、異常の領域下にあることは間違いないだろう。

 しかしたった一夜に起きた出来事だけで、彼女との関係を切れるのか、恋愛感情を捨てきれるのかと言われれば当然断てるはずもなかった。

 

 たとえ彼女が想像もつかない存在だったとしても、僕が思いを寄せた彼女は変わらず目の前にいるから。ならちょっとしたイレギュラーくらい、どうということはないじゃないか。

 

 手を振りながら車に乗り込むと、別れを惜しむ暇なく動き始めた。

 リアガラスを見ると彼女が門の前でずっと立っており、僕は見えなくなるまでその姿を見続けていた。




 静かな駆動音に寒すぎない程度に冷やされた車内、真っ暗闇の中埋め込まれたナビとコントロールパネルの操作部だけが光りを放っていた。

 ハイライトで固定された前方のライトはフロント越しに見える道路を奥の方まで照らしてくれたが、今この車がどこを走っているのかは外部情報が少なく分からなかった。

 僕の道案内も無しに、綾瀬は迷いのない様子で運転していく。


「僕のアパート、場所が分かるんですか?」

 覗くように彼の横顔を見ると、視線はひたすら前方を向き反応する様子もなく、まるでロボットのようだった。


「以前、お前があいつを預かってくれた時。俺が迎えに行っただろ。分かるさ」


「あの一回だけで・・・もう三か月以上も前なのに」


 彼は数秒間だけ黙り、「あいつが夜一人で出歩いたのは、あの日が最初だった。だからよく覚えている」と言った。

 なるほど、確かに詩織は無断で深夜をうろつくようなタイプには見えない。彼にとっても意外な出来事だったのだろう。

 

 あの日、春先にして雪の降った終雪ともいえる夜。

 そんな中一人の少女がアスファルトの上に倒れており、それが今の詩織との出会いだった。僕にとっても忘れられない日だ。


「それにしても、よく綾瀬さんの電話一本で場所が分かりましたね。住所も何も言っていなかったのに」


「確かに、それだけじゃ分からない。だが発信機を持たせているから、場所の特定自体は容易だった」

 彼の言葉に僕は思わず目を剥く。


「発信機?なんでそんなもの・・・」

 そこまで言いかけて、僕はハッとする。


「もしかして、さっき起こった事が関係しているんですか?」

 彼は頷き、前方から来る対向車に気付きハイライトを下げた。すれ違う車のライトが彼の横顔を照らし、窪んだ目元がわずかに映った。


「気づいているだろうが、自分が普通じゃないことは本人も自覚している。だから発信機を持たせていることに関してはあいつの合意も得ている」


「合意、ですか。でも自分の娘に発信機なんて・・・」


「どうかしていると思うのは正常だ。だがな、俺は正直気が気でないんだ。あいつの普通ではない面が他の誰かに露見してしまうことが、そしてあいつ自身が自暴自棄に走ってしまうのではないかという可能性が」

 

 自暴自棄、他の人とは違う自分の異質な面に劣等感を抱き、自身を追い込んでしまうということだろう。一見明るく見えても、内心ではどう思っているのかは分からない。


「さっき部屋の中でも言ったが、俺はあいつが人間かどうかなんて分からない。あいつはいつだってそうだった。どんなに大きな怪我をしても数時間後には完治している。若いから治りが早いなんてレベルじゃない。何かあいつの中にある別の力が働き、治癒能力を異常に引き上げているようにしか思えない。そんな芸当、一介の人間ができるわけがない」


 車が徐々にスピードを落としながら停車する。ここにきて初めての赤信号に引っかかったのだろう。

 窓を見ると海上に伸びた防波堤が見えて、その景色から僕が度々訪れる灯台近くを通っているのが分かった。

 ここまでくると一定の間隔で街灯が設けられ、チラつく白い光の周りにハエが集っている様子が見えた。


「じゃあやっぱり、綾瀬さんは建築現場で負った重傷を、大した治療も受けず自身の力のみで治した。そういうことですね?」


「あぁ、その通りだ。何故なのか、と聞きたいだろうがそれは俺にも分からん。ただ一つ言えるのは、それは想像を超えた何かだと言うことだ」

 信号は青に変わり、アイドリングストップで止まっていたエンジンは再び稼働しゆっくりと前へ走り出す。


「その事実を知っても尚、お前はあいつに関わろうとする。理由はだいたい察しがつくから問わないが、最初に伝えた忠告だけは絶対に守れよ」


「誰にも口外するな、ですよね」


「そうだ」


「このことは、他には誰が知っているんですか?」


「俺とお前と、施設にいる一部の人間。子供達には、今はいいように誤魔化しているから問題ないが、それも時間の問題なのかもしれない」

 

 特に今回は、詩織が資材に押し潰された様子を結衣ちゃん達に目撃されている。結衣ちゃんはそのことに対して重い責任を感じていた。

 もし詩織が何事もなかったかの様子で目の前に現れれば、さすがに安堵よりも不信感を抱く気持ちの方が大きいのかもしれない。


「とにかく、誰にも言うな。あいつの為にもな」


「分かりました」


 そう答えると車はスピードを落とし、アパートの前で停車した。

 四室あるアパートはほとんど電気が消えており、僕の住む一〇二号室だけが窓から光が漏れていた。気づけば深夜帯で、母に連絡しておくのをすっかり忘れていた。


「ありがとうございました」と言うと綾瀬は「こっちこそ、悪かったな」と返す。


 車から降り後部ドアを閉めると、すぐに車は走り去っていった。

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