第16話 悪い冗談
僕は飛び出し、彼女の元へ駆け寄る。
足場材から覗く彼女の右手はピクリとも動かず、僕は無我夢中で彼女を覆う資材を払いのけていく。
その間子供達は状況を理解しきれないのか、硬直し一歩も動けない状態に陥っていた。
「くそっ!くそっ!」
途中手を擦り剥き、甲を強打し指を挟んだりしたが、そんな痛みに構わず僕は動き続けた。
彼女の全身が露になった時、僕は呆然と立ち尽くしてしまう。
ノースリーブのシャツは血を吸い込み黒ずんだ染みで塗れ、そっと頭を抱きかかえると手の平に赤い血がべったりとついた。
一瞬死んでいるのではないかと考えが過ぎったが、胸に手を当てるとトクンットクンと確かに動いており少しだけ安心した。
しかし危険な状態には変わりがない。すぐに救急車を呼ばないと。
そう思い携帯の入ったポケットに手を入れた瞬間、土を蹴る足音が後ろからした。
振り返ると、この猛暑の中ダークスーツに身を包んだ中年の男が静かに近づいてきていた。
その窪んだ目元とがっしりとした体格はどこかで見覚えがあった。
記憶を探ると、確か路地に倒れていた詩織を自室で保護した時、彼女を迎えに来たのがあの男だった。
あの時も重苦しいスーツを着ており、それが特に印象に残っていた。
「坊主、そこから離れろ」
低い声が空気を震わせ、前髪から覗く虚ろな瞳は何を考えているのか全く読めなかった。
唐突に現れたその男の姿に、僕は呆気に取られる。結局彼は何者なんだ?彼女の父親なのか?
「ここにいると危ない。俺の車に早く乗せるぞ」
車に乗せて病院まで連れていくということだろうか?
確かに、この辺鄙な場所だと救急車を呼んで待つよりはいいのかもしれない。
僕は彼女を抱えて頷く。その動作を確認すると彼は親指で後ろを差し、歩き始めた彼の背中を僕は追いかけた。
ハザードを焚き停車している黒いセダン車の後部座席を開け、黒革のシートの上に彼女を静かに横たわらせた。
運転席の方へ近づくと、パワーウィンドウが開いて男の顔が覗く。
「坊主、すまんが子供達を施設に送ってくれ。俺は先にこいつを連れて待っている」
「待っているって・・・病院には行かないんですか?」
男は車のエンジンをかけ、ギアを変える音が聞こえてきた。
「いいか。これからお前は見てはいけないものを見ることになる。だが、けして誰にも口外はするな。あいつの為にも」
僕の返事を待たず、彼は車を発進させあっという間に走り去ってしまった。
見てはいけないもの、彼女の為、一体何の話をしているのか見当もつかなかった。
何よりも気にかかったのは詩織を施設に連れて行ってしまった事だ。
病院に行かず、あの場所で一体何ができるのだろうかと思うと不安で仕方がなかった。その真意が何なのか、直接問いただす他はないのだろうが。
僕は結衣ちゃんの手を握り、ゆっくりとした足取りで施設へと続く道を進んでいく。
先程まではしゃいでいた姿が嘘のように、彼女は下に俯き施設に着くまでの間一言も発する事は無かった。
励ましの言葉はかえって彼女の心を傷つけてしまいそうで、ただ隣で手を握ってあげることしかできなかった。
共用玄関に入り、出迎えてくれた施設の職員に結衣ちゃん達を預ける。
ダウンライトの照らす廊下を歩きダイニングへ続く扉を潜る手前で結衣ちゃんは立ち止まり、「ごめんなさい、お兄ちゃん」と震えた声で言った。
あのような参事があったことに対して、自分のせいだと責めているのだろう。
しかし全て彼女に責任があったわけではない。
子供が簡単に建築現場へ侵入できることも、仮固定も無しに資材が立てかけてあったことも、そしてなにより子供達をしっかりと見張れていなかった僕と詩織にも責任はある。
そんな話をしたところで、今の結衣ちゃんの気は晴れるはずもないが。
ただ詩織の無事を願うこと以外、今の僕達にできることはなかった。
子供達が部屋の中に入り、施設の人が「ありがとうございました。どうかお気をつけて」と会釈をする。
扉が閉め切るのを確認すると、僕は部屋から背を向けた。
その時、二階へ続く階段の方に先程の男が立っているのが目に入った。
首を振ってついて来いと合図を送ってくると、彼は踵を返し段板に足をかけて上り始めた。
僕は彼の背中を追って階段を上っていく。
二階の廊下を歩いている時、彼が施設長室に入っていくのが見えた。
開き戸の前に立ち、レバーハンドルを引いて扉を開けると、男は奥の出窓の前に立ち外の景色をぼんやりと眺めていた。
先程までオレンジ色に染まっていた空は紺色に覆われ、辺りが真っ暗になるのも時間の問題だった。
「来たか」
扉を閉め中に入ると、彼はこちらへ振り向く。
白髪の交じった脂っぽい髪をかき上げ、必要最低限以外の動きはしない表情と真一文字に結ばれた口元からは心情が読み取られず、壁のような威圧感を放っていた。
「施設長の綾瀬だ。この前は世話になったな」
この部屋にいる時点で薄々と気づいてはいたが、目の前にいる男はこの施設の長らしい。
なんとも不愛想で辛気臭い男だが。
しかしそんなことよりも気になったのは。
「綾瀬って・・・あなたは」
そこで彼はコクリと頷く。
「お前の想像通り。あいつの父親だ」
本当かよ・・・と心の中で絶句した。
目の前にいる仏頂面のおじさんと、アイドルのように眩しい笑顔をする綾瀬さんが親子関係?
悪い冗談にしか思えなかった。
「といっても実の父親というわけではないがな。あいつは俺の養子だ。血は繋がっていない」
淡々と話されたその事実に、安心感と共にさらなる驚きを覚える。
養子?どんな事情があってそんなことに。
話を掘り下げたい衝動に駆られたが、現時点での優先順位はそこではないとすぐに考えを払った。
「・・・綾瀬さんは、どこに?」
「今自分の部屋で寝ている。数時間すれば元気になる」
「寝ている?手当はしたんですか、やっぱり病院に連れて行かないと危ないんじゃ・・・」
彼は僕の言葉を制するように手の平を掲げた。
「あいつには必要ない」
冷たく言い切られ、僕は体が熱くなる感覚を覚えた。
あれだけ血を流していたのに手当をする必要がない?ただ自室のベッドで寝かせているだけ?こいつは一体何を考えているんだ。
「あなた・・・一体何を考えているんですか。彼女が死んでもいいってことですか!?」
「坊主、勘違いしているようだが。別に俺はあいつの身がどうでもいいから何もしないわけじゃない。あいつが死なないから、俺は何もしないんだ」
言葉の意味が分からなかった。
淡々と言われた言葉に僕の方がおかしいのかと一瞬疑ったが、どれだけ反芻させてもやはり目の前の男の方が確実に狂った発言をしている。
「綾瀬さんは人間です。建築資材に押しつぶされ、大量の血を流し、その後何もせず放っておけば普通は死にます」
「普通、か。そんな次元の話をしているんじゃない。それに、あいつが人間かどうかなんて俺には分からない」
「・・・どういう意味ですか?」
彼は顎に生えた無精髭を手の平で触り、唸るような声が漏れる。
「俺の口から説明するより、実際に見た方が早いだろう。多分あいつはあと二、三時間で目を覚ます。それまで待っていてくれないか?」
理解が追い付かない状態で言われた提案に僕は何も言えなくなる。
彼の言う通り無事に彼女が目を覚ましたとして、今抱えている疑問の全てを払拭することができるのだろうか?
機械的な口調と表情からは彼が今何を考えているのかは分からないが、ここまでの発言を聞いて、嘘を言っているようにも見えない事は無かった。
彼の発言は何一つ理解できなかったが、詩織を近くで保護しているのはこの男だ。
今彼女を寝かせているのは最善の策で、何か特別な理由でもあるのかもしれない。
それが何なのかは、今の段階では分からないが。
「そうすれば、彼女は助かるんですよね?」
「あぁ、そうだ」
彼は頷き、僕は一旦折れることにする。
「分かりました。あなたの言う通りにしましょう。でももし万が一のことがあれば、僕はあなたを殺すかもしれない」
「それで構わんよ」
再び窓の方に向き直り、彼はクレセント錠に手を掛けサッシを開いた。
胸ポケットから煙草の箱を取り出し、一本口に咥えるとライターで火を点ける。
深呼吸のように吸っては吐いてを何度か繰り返し、彼は天井を見上げる。
「下に飯ができてる。よかったら食っていけよ。なに、帰りの時は送ってやるさ」
「・・・ありがとうございます。でも、ご飯は結構です」
詩織の回復を見られない限りは落ち着かないし、こんな心境では何も入りそうになかった。
それに、一階に下りれば当然子供達とも顔を合わせることになるだろう。
変に僕の姿を見せて刺激させるよりはそっとしてあげる方が一番だと思い、結局僕は施設長室の黒い来客ソファに腰掛け数時間の間そこで過ごすことにした。
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