第7話 切れなかったスタート


 窓の外から鳥のさえずりが聞こえてきて、僕はゆっくりと目を覚ました。

 片手で汗ばんだ顔を拭った瞬間チュンチュンと声を上げ鳥たちはどこかへ飛んでいった。先程まで傍の窓枠に留まっていたのだろうか?

 

 天井を見上げれば染み一つ目立たない純白の白が視界を覆った。アパートの黄ばんだクロスと違いここは四方八方真っ白な部屋で神聖な雰囲気に覆われていた。

 それ故に何もないことが正当化されているようだった。十九型の薄型テレビを除けば娯楽の一つは何もなく、むしろ遊ぶことを制限され、いかに個人的な色を介在させずこの神聖さを保つことができるのかを問われているように感じた。

 

 娯楽が少ない点に関しては仕方がない。

 病室は個人的な欲求を発散させる場所ではなく病気や怪我を療養するためにある場所なのだから。

 そう頭では理解していても、ずっと病室に縛り付けられているのは応えるものがあった。自室で引き籠っているのとでは訳が違う。


「完全に出遅れたな・・・」

 こうしている間にも、新しく入るはずだった学校では様々な行事や人間関係の構築が進行しているのだろう。

 僕がクラスに入る七月頃には、あらゆる物事が固定化され介在する余地は残されていないのかもしれない。

 僕の高校生活のスタートは遅れを取り、その代償はかなり大きい。

 

 全ての元凶は入学式前日のあの夜だ。

 かつて僕も内輪に入っていた不良グループに鉢合わせしてしまい、途中で脱退した裏切り者の僕は当然の如く制裁を受けた。彼らの立場から見て僕を痛めつけたいのは分からない事は無いが、それにしても今回はやり過ぎだ。

 卒業後ようやく手に入れた自由に目が眩み、歯止めが効かなくなってしまったのかもしれない。

 

 まさか金属バットを何度も同じ場所に振り下ろし、片足をへし折ってくるなんて。正気の沙汰ではない。

 幸い見知らぬ誰かが救急車を呼んでくれたからよかったものの、あのままアスファルトの上で放置されていたら僕はどうなっていたことか。

 僕自身が彼らと縁を切ったと思っていても、彼らはそれを許してくれない。あいつらの気が済むまで、僕は今後もこうして痛めつけられるのだろう。

 

 しかし僕自身も誰かを傷つけ踏み歩いてきたのだから、文句を言う資格はない。きっとそのツケを今払っているのだろう。




 眠りにつこうと瞼を閉じた時にたびたび頭を過ぎってしまうのは、綾瀬詩織の可愛らしい笑顔だった。

 彼女が倒れていたあの時から、もう一か月の時間が流れようとしている。世間は狭い。もしかしたらまたどこかで会えるんじゃないかと期待を抱いていたが、そんな瞬間は結局訪れる事は無かった。


 これは後から判明したことだが、僕はどうやら彼女に一目惚れしてしまったらしい。

 ハッキリとした理由は分からないが、愛の形に正解は無いように恋するきっかけもまた説明のつくものではないのだ。

 僕はあの少女に関して何一つ知らない。彼女の優れた容姿から与えられる外部情報が理想の少女だと勝手に想像しているだけなのかもしれない。

 それでも、惹かれる理由としては十分なように思えた。




 春休みと入院生活前半はすることもなく残された時間を浪費していく廃人のような生活をしていたが、後半になると危機感が迫りじっとしているのが急に怖くなった。

 紛いなりにも進学校へ途中参加する身なのだ。人間関係はどう転ぶか分からないが、学力の遅れを狭めておくにはこの時間を利用するほかないと思った。もちろんそれは春休みの中盤辺りから思っていた事だった。底辺の中学からスタンダードラインに立つ高校生達と肩を並べていくには努力でその溝を埋めていくしかないと。

 

 しかし楽観的に考えている面もあった。皆スタートは同じ。焦らなくても徐々に体が慣れ始め変化は自然に訪れると。そんな甘い考えも負傷の上入院したことで台無しになったわけだが。

 

 僕はクラスに入るまでの数週間の間勉強に努めることにした。案外それは想像よりも悪いものではなかった。

 怒涛の受験勉強をしてきた下地もあり、勉強のコツは自分なりに掴んでいるつもりだ。携帯からイヤホンを繋ぎ、好きな音楽を聴きながら勉強をする。眠気を覚えれば抵抗することなく流れに身を任せて眠りにつく。

 周囲を意識せず自分のペースで勉強したい人にとっては、この環境はうってつけのように思えた。もちろん僕もその一人だ。

 

 そんな生活を繰り返し、七月上旬に僕は予定通り退院した。

 何もかもが純白で清潔感の保たれた天国から気の狂ったような暑さで満たされた業火へ放り出されるのは単純に気落ちした。

 振り返れば、入院生活は慣れさえすれば快適なものだった。

 

 空を仰ぐと熱気で視界が眩み、青く澄んだ空が広がっていた。

 その中で沸き立った入道雲が綿のように浮かんでいる。初夏の空だった。


「ようやく、始まるのか」


 僕の高校生活は、約三か月遅れてスタートすることになった。

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