第5話 綾瀬、詩織さん
体を誰かに揺すられ、聞き覚えのない声が遠くから聞こえてくる。
僕の意識は徐々に現実の方へと引き戻され、次第に瞼の隙間から光が射した。
視界が開き、改めて目にした景色はぼやけて情報を正しく認識することができなかった。頭がボーとし、まだ半分意識は違う場所に置かれているようだった。
目の前に転がっているのは空になった缶ビール類、母の飲み捨てた残骸が部屋中に散らばっていた。
室内で煙草を吸われている関係で、タールの入り混じった刺激臭に思わず顔を歪める。この不衛生な環境は、どれだけ過ごしても慣れることはなかった。
「あの・・・すみません」
側頭部を手の平で叩きながら、目覚めていない感覚を無理やり起こしていく。
床の上で寝たせいなのか、体の節々が動かす度に痛んだ。状況を一つ一つ思い出すよう記憶の欠片を探っていく内に、今の声、誰だ?とすぐに引っ掛かりを覚える。
声のした方向を慌てて見ると、そこには不思議そうにこちらを見つめる少女の姿が目の前にあった。
視線が近距離でぶつかり、僕達は数秒金縛りにあったかのように硬直してしまう。
長い睫にぱっちりとした目、澄んだ瞳を見ていると吸い込まれそうになる錯覚を覚える。
少女のように幼い顔立ちをした彼女は綺麗というよりは可愛いという印象を受けた。
知らない少女を目の当たりにして、僕は脳内で検索をかける。徐々に浮かび上がってきたのは、雪の降る外灯の下で横たわっていた少女の姿だった。
凍死してはいけないと思い、アパートの自室まで彼女を抱えてきた時の事を思い出す。
「そっか・・・目が覚めたんだね」
安堵して笑いかけるも、彼女は困惑している様子だった。
無理もないか。目覚めたら知らない場所にいて、隣の部屋に行けば散らかった部屋に男が倒れていたのだ。驚くのは当然だ。
「昨日、路地で倒れていた君をここに運んできたんだ。放っておいたら危険だと思って。体調とかは大丈夫?」
彼女は段々と状況を理解してきたように首を縦に振った。
「大丈夫です。そうだったんですね・・・ご迷惑をお掛けしすみませんでした」
丁寧に何度も頭を下げられ、僕は慌てて両手を振る。
「いや、いいんだ。元気そうでよかったよ・・・でも、なんであんな場所で倒れていたの?」
そう言うと彼女は俯き、床に転がった缶をじっと見つめていた。
「気づけば意識を失っていたと言いますか・・・私、あんな風に倒れてしまう事が度々あるんです」
「それは、持病みたいなもの?」
「詳しい原因までは分からないですが、多分そんなものだと思います」
「・・・そっか」
そんなよく分からない持病を持った人が一人で、それも夜遅くに出歩くなんて。警戒心がないと言うか、浅はかなようにも思えた。
何か事情があったのか気になったが、これ以上は踏み込み過ぎだと思い言及することは避けた。
「とにかく、無事でよかったよ」
その後彼女は僕の携帯を借りて、どこかに電話を掛けていた。
数十分後すぐにインターホンが鳴らされ、ドアを開けるとダークスーツの上にチェスターコートを羽織った中年の男が出てきた。窪んだ目元、がっしりした体格、顎は無精髭で覆われており、屈強な男を思わせる佇まいだった。
「あいつはいるか?」とぶっきら棒に言われ僕は彼女を呼ぶ。
傍にいたのかすぐに彼女は廊下側に出て、玄関先で待つ男を見るとびくびくした様子で近づいてきた。
「本当にありがとうございました」
彼女は深々と頭を下げ、「いいんだ」と返すと低姿勢を維持したまま僕を追い越し、土間に置かれたローファーを履き始めた。ドア枠の外に出ると僕も合わせて踵の潰れた靴を突っ掛ける。
ひんやりとした外気が体中を襲ってきて身が縮むようだった。昨夜積もっていた雪は既に大半が溶けており、水を含んだ濡れ雪だけがアスファルトの上に所々残されていた。
道路際に高級そうな黒いセダン車がハザードランプを焚いて駐車しており、あれが男の乗ってきた車だろう。
「早く乗れ」と男が彼女に指示し「はい」とか細い声で答えながら車の方へと歩いていく。
男は僕の方に向き直り、身体を四十五度に折ってお辞儀をする。
「ご迷惑をお掛けしました」
「いえ、僕は大丈夫ですけど・・・」
僕は彼女の背中を無意識に見てしまう。
後部ドアの取手に手を掛け、乗り込む直前こちらをチラッと見てきた。小さく会釈をし、そのまま車の中へ入っていった。
「つまらないものですが、どうぞお納め下さい」
男の声に引き戻され、見ると高級感のある紙袋を両手で手渡してくれた。
僕が遠慮の言葉をかける前に、男は「失礼します」と言い既に踵を返していた。
男の遠くなる背中を見続け、運転席に乗ろうとした瞬間僕は早足で車の方へと向かった。彼女の乗っている後部のガラス窓に近づくと、パワーウィンドウが開かれる。
互いの視線が合い、掛けるべき言葉をその場で考えた。何でここまで来てしまったのか、自分でもよく分からなかった。
「君、名前は?」が数秒思考を逡巡させてようやく出た言葉だった。
彼女はきょとんとして、その後小さな微笑みを浮かべる。
「綾瀬詩織です」
「・・・綾瀬、詩織さん」
彼女の繊細そうな雰囲気にピッタリで、気品を感じる素敵な名前だと思った。声に出して言うと一音一音の響きが心の中を波打っていくような感覚を覚える。
美しい景色に適切な表現を当てていくように、彼女の容姿と名前は調和が取れているように思えた。
「あなたの名前は?」
詩織は首を傾げて聞いてくる。
「涼川澪。それが僕の名前」
「涼川、澪さん・・・素敵な響きですね」
そう言われて僕は照れたのを誤魔化すように頬を掻く。嘘でも褒められるのは単純に嬉しいものだ。
「涼川さん。ありがとうございました」
「いいって。でも、夜道は危ないから。気を付けてね」
「はい、気を付けます」
長い黒髪を片方の耳に掛け、露わになった首筋が無防備に見えた。
「また、会えるかもしれませんね」
「えっ?それはどういう・・・」
「深い意味はないですよ」
彼女は目を細めて笑い、パワーウィンドウが閉じられていった。小さな手の平が窓越しに振られ、僕もぎこちなく振り返した。
ハザードランプが点滅を止め、車が発進する。黒い車体が見えなくなるまで、僕はそれを見送っていた。
可愛い子だったな、と後から惜しむような気持ちが込み上げてくる。
最後彼女が言い残した言葉に引っかかりを覚えたが、また近所の路地に倒れていない限りもう会うことはないだろうとこの時は思っていた。
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