・第38話 絶望
ダイジュが思うのは、昔のことだけだった。
人間が来る前の、自然の中の穏やかな暮らしは、胸の中で何度思い返しても良い気分になる。
葉の先にまで太陽の光が染み込んでくるのをただ感じていた。風に優しい撫で方を教わりながら。
木漏れ日が彩る森は人間の芸術品なんかには比べ物にならないほど、美しく優しい。人間と違い、森は誰を傷つけることもしない。
ダイジュの仲間達は人間によって崩壊した。
自分たちの住む場所を少しでも増やすため、自分たちが徳をするために彼らは森を切り拓いた。そしてそこに街を創った。
森との共生なんて、誰一人挙げはしなかった。
ダイジュは仲間達の悲痛な叫び声を聞いていた。苦痛や、恐怖の声は、今よりもっと細かったダイジュの内側に反響して枝を震わせた。
悔しかった。ダイジュを含む木々は、歩くことも、人間に反撃することも、愛すべき森を守るために考えることさえ、できないのだ。
森が人間達の車や機械にどんどん侵略されるのをただ見ているしか無かった。そしてその光景は、ダイジュの心にしっかりと刻まれた。
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森の守り神は初め、ハルの光の眩さに激しい苦痛を感じ、動けないでいた。
しかし、その苦しみは徐々に和らいでいった。光を克服しつつあるのだ。
白い光が完全に克服されてしまえば、もう誰にも神を止めることはできない。
人類は守り神によって、粛清の餌食になり、地球は滅び、木々が新しく育ち始めるのだ。
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ケダモノが街の電波塔や病院にまで進出していく。知能がないように人を襲い続けるそれらだが、全体の統制が取れていることから、誰かが影でケダモノ達を操っているのではないかという説が出回りだした。インターネットの高速回線に乗せて、ケダモノ達の動画が世界中に飛び回る。海外でもこのことを懸念する人々が現れ始めた。
ケダモノの進出速度があまりにも速いこと。
それぞれ見た目も能力も、強さも違うが、人間を目的に攻撃行動を取るのは共通していること。
もうケダモノ達は周辺の複数の県で人間を襲っている。
国はこの未確認生物に対して、あまりに弱腰で、いまだに困惑している。こうしている間にも、声も上げられぬ小さな住人達は一人また一人と傷をつけられていく。
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アスカは、病院がだんだん騒々しくなっていく音を、横になりながらただ聞いていた。
ハルの日記の全てに目を通した時から、まるで魂を抜かれたように感じていた。自分の意識が、遠いところに沈んでいるようだった。
ベッドの白いシーツは妙に目についた。ハルが小さな背中をさらに縮こまらせて咳をしている姿を思い出す。彼女が病院のベッドで夜を迎えていたことを、アスカは知っていた。ハルは生贄だったのだ。
そしてアスカを庇ったために、消されることになった。
日記の中には直接的な描写も、ハルの感情も書かれてはいなかった。しかし、内容をアスカが頭の中で整理していった時、行き着くのは、「ハルがアスカを庇ったことで死んだ」ということなのだ。
アスカにはそれが、重りになった。自分の存在を、許せなくなってしまった。
ガタ、と物が落ちる音がして、隣のベッドの病人が悲鳴を上げた。扉付近に、けむくじゃらの生き物が立っている。頭は犬で、体は猫のようなケダモノだ。
同じ病室内の人々は皆奇声を発したり、ぶるぶる震え上がっているというのに、アスカには恐怖というものが湧かなかった。ただ、ケダモノの咆哮を体に受けながら、ハルのことを思っていた。
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護送車の中は蒸し暑かった。幸福善心党の崩壊により、リーダーとその補佐役が逮捕されたことよりも、ケダモノ襲来の方が人々にとっては重大事なのだ。
その証拠に、護送車に乗っているナミとコトの周りは静かだった。野次馬も、記者も、誰一人二人の周りにはいない。
二人は手錠をかけられたまま、俯いていた。前を見ることは許されなかった。
運転している治安維持協会の職員は、後部座席の二人にチラチラと視線を送っている。興味があるのだろう。何せ、過激政党のトップとなり人々を操った高校生達なのだ。映画やドラマでしか見たことのないような話である。
ふと、ナミが左脇にある窓の外を見た。そこには逃げる人々がいた。
ケダモノとはいったい何なのだろう。
二人が幸福善心党の最上部にいた時、そんな報告は受けはしなかった。二人がケダモノの存在を聞いたのは、そして党員達が攻撃を受けていたと知ったのは、逮捕された後だ。
窓の外で逃げ続けていた女性が転んだ。
ナミは、思わず目を見開いた。建物の影から黒い何かが飛び出したのだ。
その景色はどんどん後方に流れていくが、黒い何かの実態は、一瞬だけ映った。そしてナミの瞳の中にこびりついた。
気持ち悪い。
それは形容し難い醜い姿だった。尖った牙と爪を持ち、顔が肉に埋まっていた。
護送車は走り去っていく。
転んだ女性がどうなったかはわからない。
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アンズはダイジュの仲間達が人間にされた仕打ちを聞き終わると、混乱した。
「・・・人間は、いつも自分の都合しか見ていない」
ダイジュの声の中には、確かに傷が膿んだじくじくしたものが含まれていた。痛み、悲しみ、孤独、一言では表しきれない苦しみが。
そして今、アンズはそれを感じ取った。人間が森を苦しめたというダイジュの言い分を、悲しくも少し理解できてしまった。人間が正しいなんて言えないということを。
これは、自業自得なの?人間が都合の良いように森を傷つけてしまったから、森は人間を憎んでいるの?
アンズは、自分の中の希望がじわじわと萎んでいくのを感じて、ぎゅっと目を瞑った。
『地球を滅ぼせば、新たな芽も、今存在している木々達も全て死ぬわ。あなたは本当は、わかってる。でも、のうのうと幸せそうに生きている私達が、憎いのでしょう』
ハルの声が聞こえた気がしてダイジュは目を細めるのだった。
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