第30話 救済

ナミとコトが身柄を拘束された直後、速報が入った。


幸福善心党は党首の逮捕により崩壊。

幸福善心党の抗議運動は終了した。


しかし、現在の報道機関はそれどころではなかった。

広場で人々を襲いきったケダモノ達が、とうとう街中に広がり、ついには市全体に範囲が拡大した。

どんどん数が増えていくケダモノ達は、ろくな抵抗もできない一般市民達までも標的にし始めた。ごく平凡な住宅街に、公園に、並木道に、人々の血とケダモノ達の喜びの叫びが響き始める。


ーーーーーーーーー


 街で一番の大木。

それは、住宅や建物から少し離れた、標高の高い森の中に生えている。

伝承によれば1000年前からこの地に存在していた。頼もしい幹もいっぱいに茂らせた葉も、未だに少しも衰えていない。

 アンズは森の中に入った。掌の中の赤い本を、シャツの中に忍ばせた。

膝あたりまで伸びている草や蔓を避けながら、視界を阻むものを押しのけて走り続ける。息を切らしながら走っていると蜘蛛の巣が口の中に入り込む。立ち止まっている余裕すらなく、吐き出しながら駆け抜ける。

 やがて、アンズの正面に光が差す。大木がある場所には紫色をした蛍が飛び交っている。

アンズの期待と緊張がさらに高まってくる。もう、すぐだ。目の前に、木が現れる。アスカの言う通りなら、そこに、マキがいるのだ。

「マキ・・・ッ!」

アンズは汗を拭って足に力を込める。空は薄暗い雲が集まり始めている。不気味な予感がした。

 最後の草木をかき分ける。

目前に悠然な光景が現れた。

深緑の葉がざわざわと音を立てていた。紫の蛍は葉の裏に隠れ始める。

天まで届くほどの大木が、アンズの目の前に聳え立っていた。

 アンズは必死になって辺りを見回す。マキの姿がどこにもない。

シャツの内にしまっていた赤い本を取り出し、両手でぎゅっと握りしめる。

 その時だった。一匹の龍が見えた。

アンズは目を擦る。それは無色透明な翼を広げて、灰色の雲の上を旋回していた。

「え、ええ!?」

何度目を擦ってもそれは変わらずそこにある。

物語の中でしかみたことのなかったような、龍が、確かに空にいる。

「あんたが、アンズちゃんかい」

すると、横になった幹のところに腰掛けたお婆さんが、アンズを見上げていた。

アンズはびくりとして後ずさる。人の気配なんて、どこにもなかったのに。

お婆さんは口元に僅かな微笑みを称えたままアンズに語りかける。その声には生命の生々しい感触がどこにもなかった。単調で冷たい口調にさえ思えた。

「どうして、私の名前を」

お婆さんはアンズには目も暮れず、その掌にある赤い本をじっと見つめていた。

 龍はそれに気づくと、骨っぽい翼を緩めて静かに速度を落としてくる。

そしてその巨体には似合わないような、「とすっ」というささやかな音で地面に着地した。


「・・・」


龍に睨まれている。

口からはみ出している牙も、鱗の先の鉤爪も、アンズの脳内にあのケダモノを呼び起こす。全身の筋肉が強張るような感覚がした。

龍が口を開く。

赤い舌がチラチラと覗いていた。

「貴様、その本はまさか、ハルのものか」

アンズは自分の掌の本を見つめる。これが、アスカの寮で共に少しの時間を過ごした、ハルのものだと言うことをアンズはまだ知らない。

 龍の目が細く鋭くなった。ぞくりとして、アンズの口から悲鳴がでてしまいそうになる。

しかし、引くな。ここで引いたら、また逃げてしまう。

ケダモノの姿のマキであっても助けると、会うのだと、誓ったのは自分だ。

アンズは小さな身体をなんとか踏ん張らせた。恐怖で足が小刻みに震え出す。

「その本を渡せ」

龍は一歩を踏み出す。それはまるであえて派手な音を立てているようだ。アンズの脳内に足音が反響する。龍の一歩がアンズの心を震え上がらせる。

 その時、右方から爆発音がしたのだった。

それはアンズの小さな身体を爆風で吹き飛ばした。赤い本が手のひらから離れて宙を舞う。

アンズは左方の比較的小さな木にぶつかる。頬に擦り傷がついた。

「・・・去れ、もうあんたに用はないわ」

アンズはどきりとした。この芯の通った声、明らかに・・・。

 アンズは痛む頭を振り払って目を開けた。そして目の前の光景に震え上がった。

誰かが龍の首を絞めている。何にも動じないと思われた龍の肢体が、持ち上がっている。

誰かの影は、人の形をしている。しかし妙だ。その手足は蔦にめちゃくちゃに絡まれているではないか。

「さあ、消えなさい」

龍の首をもつ、誰かの手がぎゅっと締まった。

龍の瞳が徐々に白くなると同時に、その姿は白い灰に変わっていく。

存在自体を否定されるように、頭から風に流れていく。

「・・・マキ?マキ、なの?」

アンズはその誰かに問いかけた。

誰かが振り返る。それは、マキであって、マキでなかった。


木の蔦の操り人形のような、恐ろしい化け物がそこにいた。

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