桜堤の樹の下で

灰崎千尋

さくら

 桜の樹の下には死体が埋まっている、と相場は決まっている。

 だから、私が「さくら」をここに埋めることも、きっと許されるはずだ。




 武蔵境の西側から小金井公園の前を通って小平へ抜けていく辺りに、桜堤さくらづつみという場所がある。その綺麗な名前の通り、玉川上水沿いの土手には桜並木が続いていて、春には地元で人気の花見スポットになる。盛大に咲いて散るソメイヨシノではなく、ぱらぱらとマイペースに咲くヤマザクラなのも良い。

 と言っても、今は夏の夜。木々は青く茂り、もはやそれが桜かどうかなどわからないし、のびのびと育った雑草はしゃがんだ私の姿を覆い隠して、時折通る車のライトも私を照らすことはない。


 私は少し湿った土を黙々と掘った。園芸の趣味もない一人暮らしの女はスコップなど持っていないので、その辺で拾った枝で掘る。額から流れた汗が、頬で涙と合わさってぽたりと落ちる。鼻を啜ると、草の青臭さにむせかえりそうになる。それでまた、涙が出る。

 さくらが死んでしまった。

 もうずっと寝ている日が続いていたから、少しずつ心の準備をしているつもりだった。でも、そんなことは関係なかった。仕事から帰ってきたら、さくらはもう息をしていなかった。無理にでも有休を取れば良かった。独りで逝かせてしまった。死ぬことを「冷たくなっていた」と言うのが、比喩でないことを知った。知りたくなかった。目を開けてくれなくても、上下する胸に手を当てればあんなに温かかったのに。

 私はもう、さくらと離れたくない。だから、近所のこのつつみに埋めることにしたのだ。ここなら通勤でも買い物でも毎日通るし、さくらの名前と同じ桜の樹の下なんて、うってつけの場所だから。






「あの、大丈夫ですか?」


 急に背後から声をかけられて、私は勢いよく振り向いた。ヒッ、と息を呑む音が聞こえた。

 電灯が逆光になってよく見えないが、なんだか芋っぽい男だった。眼鏡の奥の目が完全に怯えている。そんな顔をするくらいなら、声をかけないでほしい。ただでさえ人に見られたくないことをしている上に、汗と涙と化粧でぐちゃぐちゃの顔をしているのだ。


「ご、ご気分でも……」


 男はそれでも話しかけてくる。よく見ると、顔がだいぶ若い。ナンパをする風には見えないし、本当に心配してくれているのかもしれない。でも今の私にとっては、余計な気遣いだった。


「埋葬するところなので放っておいてください」


 私はぶっきらぼうに言った。本当のことを言った方が手を引いてくれる気がした。


「まいそ……え、埋葬ですか?」


 私は、そばに横たえていたさくらをそっと抱えた。タオルケットにくるんでいてなお、軽くなってしまった体が悲しい。

 男の顔がこわばった。これは埋葬する前に通報されかねない。


「……犬です」


「へ」


「だから、飼っていた犬が死んじゃったのでここに埋めるんです!」


 言いながらまた、涙がぽろぽろこぼれた。

 男の方はというと、驚いてはいるものの予想とは違ったのか、気の抜けたような顔をしている。口の端がちょっと笑ってさえいる。


「なに笑ってるんですか」


「いえ、ごめんなさい、僕はてっきり子供か何かかと」


「子供くらい大事にしてました!」


「そうですよね、すみません」

 

 会話が噛み合っていないし完全に八つ当たりだとわかっていても、男に声を荒らげてしまう。それでも私に謝るなんて、だいぶ人が良いのだろう。怯えているだけかもしれないけれど。


「えっと、ちょっとだけ、待っててくださいね」


 そう言うと、男は小走りに車道を渡っていってしまった。

 通報、されただろうか。されただろうなぁ。

 それでもまた私は穴を掘った。本当はわかっていた。確か日本の法律では、動物でも勝手に埋めてはいけないのだ。でもここしかないって、思ってしまったから。

 しばらくして、駆け寄ってくる足音がした。私は仕方なく音のする方へ顔だけ向けた。

 警察でも連れてくるかと思ったが、男は一人だった。


「コーヒーとお水、どっちがいいですか?」


「……コーヒーで」


 どうぞ、と差し出された微糖の缶コーヒーを、遠慮なく開けた。手の土は軽く払ったのだが、それくらいで土の匂いは消えなかった。水をもらうべきだったかもしれない。コーヒーの苦味とミルクの甘味、それに缶の金属臭も相まって、甘い泥水を飲んでいるようだった。


「ビールが良かったな」


「すみません、僕、未成年で」


 私のぼやきに対して、男は申し訳なさそうにそう言った。若いだろうとは思っていたが、未成年だったとは。

 男はペットボトルの水を、喉を鳴らしながら飲んだ。


「僕、そこの法政大生なんです。この春に上京したばっかりなんですけど」


「……そういうの、見ず知らずの怪しい女に言わない方がいいと思います」


「あ、そうですよね、つい」


 へへ、とはにかむ顔はやはり芋っぽいが、普通に良い子なのだろうと思う。こんな純朴な大学生にコーヒーを奢らせておいて文句を言うなんて。

 私が静かに自己嫌悪に陥っていくのを気持ちが落ち着いたと見たのか、男、というか青年は、真剣な目で私に語りかけた。


「あの、大事な犬なら、やっぱりここに埋めちゃだめです。今の時期すぐ腐っちゃいますし、カラスとかにつつかれたら可哀想です」


 法律関係のこと以外で止められるのも予想外だった。私はすっかり毒気を抜かれてしまって、地べたに体育座りをした。仕事に着ていった服のままだったが、膝を着いて穴を掘っていたので既に土まみれだ、構うものか。


「この子ね、『さくら』っていうんです。肉球が綺麗な桜色だったから、『さくら』。冬生まれなんですけどね」


 タオルケットごしにさくらを撫でてやる。さくらのお気に入りだったこのタオルケットは、洗濯を繰り返してもうごわごわだ。


「白くて短い毛がつやつやした雑種犬。右耳はぴんと立ってるけど、左耳だけ少し折れていて……ほら、ここの歩道って、アスファルトじゃなくて土でしょう。散歩にちょうどいいんですよ。同じようなお散歩仲間もいて。ここなら私も毎日通るし、お友達のアラン君や梅ちゃんも来るし、桜の樹があるし、さくらが寂しくないと思って」


 もう青年が聞いていようがいまいが関係なかった。言葉も涙も止まらない。


「わかってるんです。ここに埋めるのは色々と良くない、って。でももう私には、他にさくらにしてあげられることが無いんだもの」


 そこまで言って、私はようやく話すのをやめた。律儀な青年は、私と同じように体育座りをして聞いてくれていた。土に触れているお尻がじっとりと湿っている。話している間には気にならなかった虫の声がやたらうるさかった。その合間に、チョロチョロと流れる玉川上水の音が遠慮がちに聞こえる。


「こんなことを言うと、見当違いかもしれませんけど」


 やがて青年が、少し落ちてきた眼鏡を両手でそっと上げながら、ぼそぼそと口を開いた。


「一人の人間が誰かの為にしてあげられることって、限界があると思うんです。だからどんなに頑張ったとしても、相手がいなくなってから後悔するのは当然で。ただその後、いない相手の為に何かするよりは、今いる誰か、せめて自分の為に行動する方が、生まれる幸福は増えるんじゃないでしょうか」


 青年はそう言うと、私の顔を見据えた。電灯の薄明かりに照らされたその瞳は、私を責めもせず、憐れみもせず、ただ真っ直ぐだった。それは静かに寄り添ってくれるときのさくらに、少し似ていた。


「なので僕は、自分自身の為にここへ埋葬するなら止めませんが、それがさくら、さん、の為だというなら、やっぱり止めると思います」


 私たちは、それきり見つめ合ったまま黙っていた。何台かの車が通り過ぎて、エンジン音のこだまするのを聞いていた。額に浮かんだ汗が何滴も首筋を流れていく。そうするうちに、いつの間にか私の涙は止まっていた。


「てっきり、『そんなことされてもさくらは嬉しくない』とか言われるのかと思ってました」


 私は大きく深呼吸をして、ぎゅっと目を閉じた。下まぶたに留まっていた僅かな涙が、目の端から名残惜しげにゆっくりと落ちる。


「でも、そうですね。さくらの為だと思いこんでいたけれど、こんなことをしているのは結局自分の為で、エゴでしかなくて。そのためにさくらを利用なんてしたら、この子を思い出すときに後ろめたくなっちゃう」


 私は立ち上がって、缶コーヒーを飲み干した。今はこの甘さがちょうど良い。やっぱり少し、土臭いけれど。


「明日有休とって、さくらを火葬してもらいます。……本当は、少し調べてあったんです、そういう、ペット葬儀とか。でもいざそのときが来てみたら取り乱しちゃって。止めてもらって良かったです」


「いえその、わかったようなこと言ってすみませんでした」


 青年の方も慌てて立ち上がり、その拍子に少しよろけていた。私たちはぎこちない笑みを交わして、一緒に私の掘っていた穴を埋めた。棒きれで掘った穴は浅く、ほとんど時間はかからなかった。念のため、足で何度か踏み固める。それがなんだかおかしな踊りのようで、また二人で照れ笑いした。


「色々ありがとうございました。この辺、よく通りますか? 私いま財布持ってなくて。今度ちゃんとお礼させてください」


「いいですそんな、大したことは」


「大学生に奢られたままなの、社会人として駄目すぎるので」


「いや本当に……ああでも」


 首を横に振って固辞していた青年は、ふと、奥に寝かせていたさくらの方を見た。


「さくらさん、見てもいいですか?」


 私は黙って頷いて、さくらを抱きかかえた。顔が見えるように、タオルケットを少し開く。一応入れておいた保冷剤はぬるくなって、ぐにゃりと柔らかい。

 さくらの体は固く、目と口が軽く開いてしまっている。青年はさくらをじっと見てから、静かに手を合わせてくれた。

 少し抱き直した拍子に、さくらの前足がタオルケットから出てしまった。その肉球は少し白くなっていたけれど、いつかの夜の散歩で見た桜の花のようだった。

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