***** 7 *****

 ままならない自身の心と同じように、もしくはそれ以上にアネイシアはディトラスとの生活にとまどいと苦悩をかかえていた。

 隙をみせず冷静であろうと努めるほど、彼は不快をあらわにする。

 二人で庭園を歩いた日、ヴァネッサ・ロッシとの関係をひそかに邪推したアネイシアの醜い嫉妬を、ディトラスはきっと察したに違いない。

 おまえにそんな権利があるのかと責められているようだった。

 父に多額の援助をうけたうえ再婚の身であることを隠して嫁いできたアネイシアが、夫の自由を侵していい理由はなにひとつない。

 せめてロウガーニー家にとって役立つ人間であろうと努力しているが、それすら彼にとってはわずらわしいのかもしれない。

 アネイシアが鬱々としていると、執事が銀の盆をもってきた。

 「奥様にお手紙が届いております」

 礼を言って封書の束をとりあげると、ご機嫌うかがいの便りと名刺のなかに、ヴァネッサ・ロッシの名をみつけて目をとめた。

 見過ごせず封を切ると、アネイシアも知っているある貴族のサロンで展覧会をやっているので、ぜひ来てほしいという招待だった。

 ディトラスではなくアネイシア個人にあてて送ってきたということは、ひとりで来るよううながしているのだろう。

 それはつまり、ディトラスについて話がしたいという彼女の意志なのだろうか。

 彼と今も関係は続いているのだと宣言されたら、はたして冷静でいられるか自信がない。

 しかし、ディトラスのアネイシアに対する冷淡さの原因がまさにその点にあるのなら、彼女がヴァネッサと直接会い、二人のつきあいに対してなんら干渉する気はないと示してみせれば、すべてまるくおさまるはずだ。

 「ペイトン、この方の展覧会にうかがいたいのですが、どなたかご一緒できる女性はいらっしゃらないでしょうか」

 ひとりでは外出しないといって実際に一度も出かけなかったアネイシアの突然の心変わりに、ペイトンは内心驚いたかもしれない。

 しかしそんな感情はおくびにもださず、封書の差出人の名を確認してしばらく思案したあと「旦那様の父君――大旦那様の妹君のご息女が芸術に造詣が深く、ロッシ様ともご交友があったと存じます。旦那様と同い年でいらっしゃいますので、おつきあいしやすいのではないでしょうか」

 「ディトラスの従妹にあたる方ですね。では手紙を書きますから届けてください」

 アネイシアは丁寧に誘いの言葉をしたためてペイトンへ託した。

 返事は、なんと翌日来た――手紙ではなく、本人が訪問してきたのである。

 結婚してカベラ伯爵夫人と呼ばれているソフィア・メルクーリは、少々ぽっちゃりとした体型も愛嬌といえるような、はつらつとして明るい女性だった。

 「ディトラスはいないの? あらまあ、まだ軍務についているなんて伯父様と同じでゆっくり過ごせないたちなのかしらね」

 執事にまくしたてているところに出迎えにでてきたアネイシアをみつけ、目を輝かせてぎゅっと手をにぎる。

 「初めましてアネイシア。やっとお目にかかれたわ。信じられないほど慌ただしくご結婚なさったのに、伯父様ったら一族に披露する機会すらもうけてくださらないのだもの。ディトラスもディトラスよ。結婚は女性にとって一生に一度の大切なセレモニーだっていうのに、もっと気遣いできないものかしら」

 怒涛の口上に、アネイシアはあっけにとられたまま聞いているしかなかった。

 執事は慣れているのか素知らぬ顔で控えている。

 なんとか言葉の切れ目をみつけて、アネイシアはようやく挨拶をはさんだ。

 「初めてお目にかかります、メルクーリ夫人。突然お手紙をさしあげたので驚かれたでしょう。わざわざお越しいただきありがとうございます」

 「あたくしのことはソフィアと呼んでくださいな。あなたにお会いするのを楽しみにしていたのよ。

 まあまあ、なんて見事な銀のおぐしなの。それにその瞳ときたら吸いこまれてしまいそう! どうすれば肌をそんなに白く滑らかに保つことができるのかしら? あら、あなた腰がこんなに細くていらっしゃるのに、コルセットをしていないなんて信じられないわ。本当にお人形さんのよう……」

 「あの、ありがとうございます、ソフィア。それでお手紙でお伝えした件ですが」

 「そうだわ、ロッシ夫人の展覧会に招待されたのね。ちょうどあたくしもうかがう予定にしていたから、あなたにお誘いいただいたとき、なんてよいタイミングなのって思ったの。そうしたら直接お目にかかりたくなって、こうして来てしまったのよ」

 ソフィアは陽気に笑ってふくよかな身体を揺らす。

 アネイシアは気圧されっぱなしだったものの、不快ではなかった。

 ソフィアの楽天的な気質が、アネイシアに余計な慎重さや警戒心を強いなかったからだ。

 おそらく執事は、女主人が日々気のぬけない生活を送っているのを察して、この人選をしたのだろう。

 「さあ、アネイシア。とっても急な話だけれど、あなたさえよければこのあとロッシ夫人にお会いしにいきましょうよ。それともなにかご予定があるかしら」

 「いえ、予定はありませんが、これから身支度を整えていたら一時間はソフィアをお待たせしてしまいます」

 「あら、そんなこと。先触れの手紙を書いてからお茶をいただいてお菓子を味わっていたら、とうにあなたのお支度なんて終わっているわ。ささ、そうと決まれば早くお行きになって! ペイトンは客間に便せんとペンをもってきてちょうだい」

 ソフィアの勢いにおされて、アネイシアは一度自室へひきかえした。

 いきなりヴァネッサ・ロッシに会えることになり心の準備はできていないが、かえって早くてよかったのかもしれない。

 「ああ、外行きのお召しものはなにがいいでしょう。白と水色のシルクを合わせて……」

 予定になかった外出で、女中のマリナは慌ただしく衣装部屋を行ったり来たりしている。

 アネイシアはマリナに負担をかけてしまったのをすまなく思ったが、これから会いにいく相手が夫の恋人のひとりかもしれない女性だとはさすがに言えなかった。

 優秀な女中の驚くべき腕前で、ぴったり一時間後にはアネイシアの身支度は頭のてっぺんから足先まで完璧に整えられた。

 「存分に羽をのばしていらっしゃいませ。カベラ伯爵夫人は底抜けに明るい方のようですから、きっと楽しくお過ごしになられますわ」

 主人が出かける気になったのをマリナは喜んでいたが、アネイシアはかろうじて微笑むことしかできない。

 ただ「ありがとう」と女中をねぎらって客間へおりていった。



 いろいろな芸術家の後援をしているというルマーシ子爵の屋敷では、展覧会が頻繁におこなわれていた。

 今回のサロンでは、画家や彫刻家など複数人が合同で作品を披露している。

 そのなかで唯一の女性画家がヴァネッサ・ロッシだ。

 彼女はおもに人物画を描くが、繊細な輪郭でありながら色気のある画風に、貴婦人の顧客は多い。

 アネイシアとソフィアがおとずれたときも、彼女は幾人かの女性に囲まれていたが、ソフィアはかまわず人の群れのなかへ入っていく。

 アネイシアがついていくべきか躊躇していると、ふと目をやった先にヴァネッサの絵が飾られているのに気づいた。

 彼女の描きだす人物はたしかに男性も女性も艶めいた瑞々しさがあって、いまにもまばたきをして口をひらきそうな現実味を感じる。

 しばらく見入っていると、ソフィアに腕をひかれて我にかえった。

 「絵は気にいったかしら。ヴァネッサに紹介するから来てくださいな」

 奥まった娯楽室でヴァネッサ・ロッシはお茶を飲んでいた。

 彼女をとり囲んでいた女性たちは、いつの間にかいなくなっている。

 ソフィアは遠慮なく卓の向かいに座ると、控えていた女中に自分たちのお茶を用意するよう頼んで、アネイシアへ隣に座るよううながした。

 「お客さまが多いようでなによりね、ヴァネッサ」

 「おかげさまで盛況です。ギオス伯爵夫人もおいでくださって感謝します」

 「ご招待いただきありがとうございます。先日は大変失礼いたしました」

 ヴァネッサはアネイシアが詫びた理由がわからず怪訝な表情をみせたが、夜会でのことだと気づいて「こちらこそ、突然話しかけてしまってあつかましい女と思われたでしょう」と返した。

 「あなたたち、いったいどこでお知り合いになったの」

 「ソフィアもご存じの通り、わたしはギオス伯爵とは以前から交流があるのです。伯爵から奥様のことをお聞きしていたので、夜会でお姿をお見かけして声をかけてしまったの。そのときはちゃんとご挨拶ができなかったから招待状をお送りしたのですが、来ていただけて嬉しいわ」

 「お気にかけていただき、ありがとうございます」

 ただの話なのか牽制されているのか判断がつかず、アネイシアは言葉少なに答えた。

 ソフィアはディトラスつながりとわかって、すっかり納得したようだ。

 彼もよく芸術家たちの後援をしている。

 そういえば、とソフィアが口をひらいたところで、屋敷の主である子爵が姿をみせた。

 とたんに客人たちが集まって展覧会の成功を誉めたたえている。

 「わたしはもう挨拶をすませていますから、ソフィアも先に子爵にお会いになってはいかがですか」

 ヴァネッサが水を向けると、ソフィアは「そうね」とうなずいて席を立った。

 「アネイシアはヴァネッサとお話ししていてちょうだいね」

 アネイシアの返事を聞く間もなく、ソフィアはいそいそと行ってしまった。

 「人がお好きで楽しいことがお好き。じっとしていられない方なのです」

 ソフィアの後ろ姿を見ながら、ヴァネッサが笑って彼女をそう評した。

 「周りまで明るくしてくださるから、わたしはあの方が好きなの」

 「ええ、私もそう思います」

 アネイシアは素直に同意した。

 向こうの室で子爵と歓談するソフィアは絶えずにこにこと笑っている。

 なんとなくうらやましいような気持ちでながめていると、ヴァネッサがこちらを見つめているのに気づいて、視線を戻した。

 娯楽室には自分たちしかいなくなっている。

 にわかに緊張がわきあがってきて、カップソーサーを卓に置いたのと同時に、ヴァネッサが口をひらいた。

 「今日お越しくださったのは、ギオス伯爵のことをお聞きになりたいからではありませんか」

 思いがけず直截な問いかけに、アネイシアは一瞬息をのんだ。

 どう答えるべきか考えあぐねていると、ヴァネッサはくすりと笑う。

 「ギオス伯爵とは、わたしがまだ師のもとで絵画の勉強をしていたときからの知り合いです。あの方がわたしの絵をご覧になって何枚か買ってくださり依頼人を紹介してくださったので、独立してやっていけるようになりました」

 「こうして多くのお客さまがいらっしゃるのですから、ロッシ夫人がすばらしい才能をおもちなのでしょう」

 「お褒めにあずかり光栄です。ギオス伯爵はわたしのような専門職についた女にも偏見なく、興味深くお話を聞いてくださる稀有な紳士でいらっしゃいます。それで、わたしもあの方に敬意をもって親しくさせていただいているのですよ。そんな方がご結婚なさったとなれば、奥様にお会いしてみたくなったのも無理ないでしょう?」

 いたずらっぽくウィンクした黒髪の美女は、じゅうぶんに魅力的だった。

 「夫が、私のことを話したのですか」

 「ええ、それはいろいろと。お話どおりの方でしたわ」

 ヴァネッサは笑っていたが、アネイシアはなにを話されたのかと気が気ではない。

 ディトラスが誰かとの会話で自分を話題にすること自体が、想像できなかった。

 「……私は縁あってディトラスと結婚しましたが、夫には結婚前と同じように自由に過ごしてほしいと思っています。ですからロッシ夫人も、これまでと変わらず夫とおつきあいなさっていただきたいのです」

 アネイシアは敵意はないと示すため、なんとか小さい笑みをつくった。

 ヴァネッサとディトラスがどんな関係だろうと、アネイシアが障害となるような状況だけは避けなければならない。

 ヴァネッサは少し驚いた表情をみせたあと、アネイシアの意図を察して困ったように微笑んだ。

 「はっきり申しあげてしまいますが、わたしとギオス伯爵はただ仲のよい友人のようにおつきあいしてきて、それはこれからも変わらないでしょう。夫人であるあなたがそのようにおっしゃるならお伝えしますが、あの方にはずっと以前から心に決められた女性がいらっしゃるようですよ」

 思わぬ告白に、アネイシアは言葉を失った。

 夫に恋人がいるのは自由だと納得していながら、想う相手がいると教えられてショックをうける自分が滑稽だった。

 わざわざアネイシアが気をまわすまでもなく、彼の心は一途に誰かへ向けられている。

 「それなら……よいのです」

 笑っているのか悲しんでいるのか自分でもわからなくなって、彼女はとっさにうつむいた。

 この場で醜態をさらすわけにはいかない。

 幼かったあのころ、明るく笑ってくれたディトラスに、アネイシアはこれほどはっきりと恋というものをしていただろうか。

 報いたい大きな恩と償うべき罪があると思ってきた。

 しかし、いま自覚したディトラスへの愛情の大きさに、彼女はとまどい恐れを感じている。

 黙りこんだアネイシアをじっと見ていたヴァネッサは、急にぽんと手を合わせてこんな提案をした。

 「実は夜会でお会いしてからずっと考えていたのですが、わたしにギオス伯爵夫人を描かせていただけませんか」

 アネイシアはさすがに驚いて顔をあげる。

 「こんなにお美しくていらっしゃるのだもの、姿絵に残しておきたいと思うのはどなたでも望まれることですし、わたしも創作意欲がわいてくるのです」

 「いいえ、私は肖像画を描いていただいたことがないので……」

 アネイシアが言いよどむと、ヴァネッサは信じられないというように目を見開いた。

 「格式ある家柄の皆さまは成長記録のようにたびたび肖像画を依頼されますが、本当に一点もないのですか? なんてもったいない! 幼少の夫人もきっとお可愛らしかったでしょうに」

 アネイシアは余計なことを言ってしまったと気まずくなった。

 思いかえせば、父は彼女をひきとったときから、あのおぞましい老侯爵へ売り渡すつもりだったのだ。

 成長の思い出を残す必要などなく、安くもない絵画代を捻出する気はさらさらなかったに違いない。

 「では、なおさら描かせていただけませんか。そのご様子では、まだご夫婦の肖像画も頼まれていらっしゃらないのでしょう。このたびはわたしから申しでたことですので、お代はいただきません。完成した絵をご覧になってお気に召していただけたら、そのときはご夫婦の絵をわたしにご依頼くださいませんか」

 熱心なヴァネッサの口説き文句にアネイシアは困惑した。

 ヴァネッサに対して思いちがいをした罪悪感もあり、むげに断るのもためらわれる。

 「ぜひ」という彼女の押しの強さに、アネイシアはとうとううなずかされてしまった。

 「夫の許しがあればですが」

 「ええ、それはもちろん。よい返事をお待ちしています」

 画家としての意欲がわきたつのだろう、ヴァネッサは上機嫌で鼻歌でもとびだしそうだ。

 そうして話をしていると、少し離れた場所でヴァネッサに声をかけたそうにしている若い女性が、ちらちらとこちらをうかがっているのに気づいた。

 アネイシアは話をきりあげてヴァネッサに別れの挨拶をすると、娯楽室を出て息をつく。

 思いもよらない事態になって、ひきうけてよかったのかと不安がある。

 ただでさえ自分の陰気な顔が好きではないのに、そんなものを絵にして残したところで、ディトラスはなんと言うだろう。

 自分の行動が良い結果をもたらさないことに不安を感じながら窓の外へ目をやっていると、突然若い男が近づいて声をかけてきた。

 「やあどうも、ギオス伯爵夫人じゃないですか」

 アネイシアがはっとしてふりかえるのと同時に、二十代後半とおぼしき垂れ目がちな甘い顔だちの紳士が、やや近すぎる距離まで寄ってきて浅く礼をした。

 異性と二人きりという状況に、反射的に皮膚が粟だつのを感じながらさりげなく後ろへさがると、男は無遠慮にあいた距離をつめてくる。

 アネイシアは廊下の角の壁と男にはさまれる体勢になった。

 「失礼ですが、どなたでしょうか」

 声が震えそうになるのをおさえながら尋ねると、男は満面の笑みをうかべて大げさに手をひろげた。

 「お忘れですか、レイモン・アンディーノですよ。初めてお会いしたのは何年前だったか……そうだ、三年前の大伯父様の葬儀のときにもお目にかかったでしょう。ああ、でもあのころあなたは臥せりがちでしたから、あまり覚えていらっしゃらないかもしれませんが。いやあ、お元気そうで見違えましたよ」

 アネイシアはひゅっと息がつまって卒倒しそうになった。

 レイモン・アンディーノという名は、たしかにうっすらと記憶に残っている。

 思いだしたくもない、『あの』一族の人間だ。

 心を患ってほとんど部屋を出ることすらできなかったが、ほんの何度かは一族の集まりに出た覚えがある。

 おそらくそのときに彼とも顔合わせをしたのだろう。

 「痩せこけた小さなレディだったあなたが、これほど美しくなられたとはね。それにいまや名門ニケラツィニ侯爵の子息の奥方だ。大伯父様が亡くなられてどうしたのか心配していましたが、お幸せそうでなにより」

 アネイシアは絶句して、レイモンがまくしたてるのもほとんど頭に入ってこなかった。

 頭の芯が冷え、騒音じみた耳鳴りが聞こえている。

 「――ところで」と彼は一度言葉を切って続けた。

 アネイシアの様子にもかまわずいっそう顔を寄せ、彼女の耳もとに低くささやく。

 「名家ロウガーニー家の大事な跡取り息子のたった十七歳の妻がまさか初婚ではないなどと知れたら、たいそうな醜聞になって家名にも傷がつくでしょうね。ご夫君も、あなたが前の夫にどんなふうに仕えていたかお知りになりたいのでは? いまの結婚生活は、ご夫君を偽ってなりたっているのですから」

 石のように硬直したアネイシアは、男の息が首すじに触れるおぞましさと、話の内容が示す不穏さに頭が真っ白になった。

 この人物はいったいなにを言おうとしているのか。

 なんのために声をかけてきたのか――偶然であるはずがない。

 レイモンは薄笑いをうかべたまま、彼女の腕をつかんでひきよせた。

 アネイシアは喉の奥をひきつらせて「ひっ」と呼気とも悲鳴ともつかない音を漏らす。

 「もちろん僕が黙っていれば、ギオス伯爵と夫人はこれからも仲むつまじく過ごせますとも。いや、実はほんの少し金銭を用立ててもらうつもりだったんですが、気が変わりました。僕の口をふさぐ錠は、金ではなくあなたにしましょう。どうです? あなた自身を僕にゆだねてくれれば、ご夫君もロウガーニー家も傷つかずにすみます。なにも減るわけでなし、よい交換条件でしょう」

 男はあくまで友好的な態度で、そして明確に脅迫していた。

 血縁者の妻だった女をおもしろ半分にいたぶろうとしている。

 恐怖と嫌悪に身を震わせながら、しかしアネイシアは恐喝という名の提案をうけいれないわけにはいかなかった。

 自分の評判などどうなろうとかまわないが、ディトラスの名誉は絶対に守らなければならない。

 彼には一点の曇りもないのに、妻となった人間のせいで好奇の目にさらされたり侮辱されたりするのは耐えられなかった。

 「本当に必要なのは……金銭ではないのですか」

 「アネイシアがこれほど僕好みの淑女になっていなければ、金を出してもらっていたでしょうね。いくら器量がよかろうと、白髪の痩せこけた少女を溺愛するなど大伯父様は奇特な方だと思っていたが、美しい銀髪だったんだな。成熟したあなたは、あのころとはまったく別人だよ」

 親しげに名を呼んで、男は笑った。

 アネイシアは老侯爵に嫁いでから見る間に病んで黒髪を失ってしまったので、レイモンは彼女が初めから銀髪をもったレオニス家の異端分子だと思っているらしい。

 「ここのサロンを主催しているルマーシ子爵とは親しくさせていただいていてね。近日また展覧会を催されるそうだ。招待状を届けるから、ご夫君抜きで来てくれたまえ。そうそう、カベラ伯爵夫人を同伴するのはやめたほうがいいかもしれないね。彼女は裏表のないつきあいやすい方だけれど、ご自分の見たもの考えたことをしゃべらずにはすませられない性格でいらっしゃるから。たしかご夫君の従妹だったかな。あなたと僕が親しく会っていたなどと吹聴されると、あなただって困るだろうからね」

 アネイシアは顔をこわばらせたまま黙っていたが、レイモンは彼女が従うことを確信して、このうえなく満足そうに目を細めた。

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