***** 6 *****

 執事がよこした領地の財務書類にふと目をとめたディトラスは、あらためて手にとると紙をくってしばらく読みこんだ。

 「ペイトン、様式を変えたのか。前も悪くなかったが、より読みやすくなっている」

 「奥様から助言をいただき、ご相談のうえこのような形にまとめました。今後の支出の緊急度別の記載や領民からの訴えで早急に対応の必要な一覧なども、奥様が手ずから処理なさいました」

 「アネイシアが……」

 美しい楷書斜体で記された文字と数字は、カリグラフィの見本のようだ。

 筆蹟にはその人の人柄が表れるというが、帳簿の羅列には癖らしい癖がみあたらない。

 「領地の財務管理をペイトンとアネイシアに任せても問題ないか?」

 「奥様に一任なさってもかまわないかと存じます」

 執事がはっきりと明言したのでディトラスは驚いた。

 彼は主人よりも妻を信頼しているらしい。

 「わたしがおうかがいしたかぎりでは、奥様は会計学へのご理解が深いようにお察しします。法律の分野にも明るくていらっしゃるようですので、ご領地の実務をお任せになってもなにも不足はないでしょう」

 「……彼女は弁護士にでもなるつもりなのか」

 「なにごとも学ばれるのがお好きなご様子です。先日ハープシコードを弾いていらっしゃるのを耳にしましたが、ご婦人の手習いの域をこえていらっしゃいました。奥様は外聞が悪いので他言しないよう仰せでしたが、わたしの一存でご報告いたします」

 貴婦人には教養としての勉学や芸術の手習いが必須なのはたしかだが、それはあくまで社交を円滑にするのが目的であって専門家になることを求められるわけではない。

 むしろ熟達するほどの修練は女性としてふさわしくないとされる。

 賢しい女は嫌がられるからだ。

 しかし、ディトラスはなんであれ才能のある人間に惹かれる傾向がある。

 だから過去つきあった相手は女優や詩人、学者といった一風変わった女性ばかりだ。

 執事はそれを知っているので、アネイシアのことを告げたのである。

 はたしてあの貴族女性の手本のようなアネイシアの意外な一面に、ディトラスは驚きはしたが不快ではなく、純粋に興味をひかれたのだった。

 もとよりアネイシアが無作法な言動をしたことはないし、その目にはいつも理知的な静けさがある。

 ディトラスは思いたって書類とペンを机へ戻すと、立ちあがって椅子の背へ無造作にかけていた上着をつかんだ。

 「アネイシアのところへ行ってくる」と言って書斎を出ていった主人を見送り、ペイトンは小さくため息をついて机に放置された紙束を整える。

 はた目にもうまくいっているとはいいがたい若い夫婦を取り持とうという彼の試みが、うまくいくことを願いながら。

 ディトラスがドアをたたくと、しばらくして女中がドアをあけなかへうながした。

 アネイシアが実家から連れてきたというマリナだ。

 この女中が主人に対してあまり肯定的な態度でないのは、ディトラス自身にもわかる。

 礼を失するふるまいはしないが、身分と立場の違い以上によそよそしい雰囲気が伝わってくるのだ。

 警戒しているといってもいい。

 女主を守ろうとする意志が強く感じられるので、自分への態度はともかく、ディトラスはこの女中が嫌いではなかった。

 しかし契約に近い結婚とはいえ、表だって対立しているわけではない主の夫すらそれほど警戒しなければならない理由が、彼女にあるというのだろうか。

 少し驚いた表情をみせたアネイシアは、ほとんど装飾のない紺青色の簡素なドレスを身につけていた。

 髪もごく簡単にまとめているが、ほつれ毛が首すじを流れる姿すら艶めいている。

 「どうかなさいましたか。お仕事中だったのでは」

 「休憩だ。一緒に庭を歩かないか」

 「喜んで……」

 アネイシアはあいまいに微笑んで、女中にショールと帽子を用意させた。

 貴族であっても街屋敷はアパルトマン型住居が多いなか、ロウガーニー家は庭のある単独の建屋敷を所有する数少ない家である。

 領地の本邸とは比べものにならない小規模な庭園だが、腕のよい庭師をかかえて管理させており、年じゅう花が絶えなかった。

 「ギオス領の実務をアネイシアへ任せたい」

 花園を散策しながらディトラスがきりだすと、アネイシアは意表をつかれた顔をした。

 「今期の帳簿を見たがよくできていた。ペイトンもきみに任せていいと」

 「光栄なお話ですが、時期尚早ではないでしょうか。少なくとも一年はペイトンと共同で管理したほうがよいと思います」

 結婚して半年もたたないうちに財務管理を担うことにアネイシア自身が躊躇するのをみて、ディトラスは彼女が父親とはまったく気質も思惑も異にすると確信した。

 ハイオーニア伯爵が娘へロウガーニー家の財を横流しするよう言いふくめているのは、想像に難くない。

 父がどの程度の資金援助をしたのか聞いていないが、ハイオーニア伯爵家の家計が常に火の車だというのは誰もが知るところだ。

 アネイシアが父親の傀儡なら、収入の横領が容易な財務管理者の役目を得る好機をのがすわけがない。

 しかし、父親の思惑に背いているのだとすれば、彼女には後ろ盾がなくなってしまう。

 婚家との関係はほとんど金銭だけのものでなんの情も介在しないし、実家方とも交流がないとすると、アネイシアは完全に孤立した立場だ。

 ディトラスはふと、女中のマリナが示す女主への忠誠心の深さを思いかえした。

 従者や侍女でもないのにいまどき珍しいとは感じていたが、アネイシアの複雑な立場に関係しているのかもしれない。

 執事も、アネイシアが自分で連れてきた女中しか使わないと懸念していた。

 「年内はペイトンと分担してもいいが、年明けからはきみに一任したい。俺は有能な人間を腐らせておくつもりはない」

 「ニケラツィニ侯爵は良く思われないかもしれません」

 「ギオス領は俺のものだ。誰にも運営の口出しなどさせない。それとも、きみ自身がやりたくないのか」

 「いいえ、あなたとロウガーニー家の役にたつことが私の望みです」

 思いがけずアネイシアは強い口調で言った。

 父親の策謀と自分は関係ないのだと言外に告げているようだった。

 「では、やはりきみに任せよう」

 ディトラスは外見の印象そのままに清廉な気質の妻に、心がかたむいたのを自覚する。

 その深青の目でまっすぐに見つめられて、気にせずにいられるわけがあるだろうか。

 一方で、それがどうしようもなく腹立たしい。

 なぜ、アネイシアがあの少女ではないのか。

 ディトラスは彼女に大恩がある。

 十一年前のあの日、一刀で背を切り裂かれたディトラスは朦朧とした意識のなかで、アンの泣きじゃくる声を聞いた。

 泣くな、となぐさめようとして手をのばしたつもりだった。

 しかし指先すらもちあがらず、逆に手をとられ冷たいなにかを巻きつけられる。

 死なないで、と少女は言い、最後にディトラスの手を強くにぎって、そっとおろした。

 そこから先の記憶はない。

 次に目覚めたときには、すべてが終わっていた。

 治療をほどこされ絶対安静をいいつけられるなか、傷がもとで高熱にうなされながら、賊が討たれたことを知った。

 アンはどうなったのかと尋ねても、執事は首をふるばかりで答えない。

 まさか手遅れだったというのか。

 ディトラスは失意に沈み、大怪我にも苦しめられながら数か月を過ごした。

 ようやく回復したものの、少女を犠牲にして自分だけが助かったという苦悩はいっそう深くなった。

 あまりの憔悴ぶりをみかねて、剣の師クレオンが密かに教えてくれたのだ――アンは生きていると。

 「間一髪で救いだせた。俺が駆けつけたとき、彼女は髪をおとしディトラスの衣を羽織って自ら囮になろうとしていた」

 ディトラスは喉の奥がつまってなにも言えなかった。

 とぎれがちな意識のなかで少女は泣いていた。

 つかまれた手は冷たく震えていた。

 いったいどれほどの恐怖だっただろう。

 「ディトラスを早急に発見できたのも、アンが目印にペンダントを置いてくれたからだ。あれが木漏れ日に鋭く反射しなければ、暗い森のなかで捜索が難航しただろう。そうでなくても、おまえの身体は落ち葉で巧妙に隠されていた。

 あの子は聡明だ。そして勇気がある。たった六歳の女の子が……せめてもう一度会って、思いきり褒めてやりたかった」

 「ここに、いないのか?」

 いろんな感情がわきおこって痛む胸をおさえディトラスが尋ねると、クレオンは険しい顔をしてしばらく沈黙した。

 師のこんな感傷的な表情は珍しい。

 「……ディトラスを危ない目にあわせたと、旦那様がたいそう激昂されてな。お怒りのあまりアンをひどく打擲された。手当てもされないまま母親とともに屋敷を追放されて、行方が知れない。身体に傷が残ってもおかしくないむごさだった」

 クレオンの言には主への非難の色が濃くにじんでいた。

 軍人である彼が言うのをためらうようなことが行われたのだ。

 ディトラスが衝撃のあまり言葉を失ったのも無理はない。

 すぐに父に直談判したが、父はとりあわず話し合いにもならなかった。

 らちがあかず、信頼のおける者に母子の行方を追ってもらったものの、判明したのはいつの間にか母親は娘をともなわず独り身になっていたこと、その母親もいくらもしないうちに不審死したことだけだ。

 アンの存在はふっつりとかき消えてしまっていた。

 聞きこみをした者の報告によれば、酔った母親が周囲へ娘を売り払ったと話したため、ディトラスはアンが死んだとは思わない。

 しかし幼い少女が売られる先といえば、想像するに悲惨な末路をむかえるのはまちがいない。

 以来、手をつくしてきたが、ディトラスにはアンの所在をつきとめることはできなかった。

 ――所在なさげにバラの花をながめていたアネイシアが、ふとこちらを向いた。

 「ヴァネッサ・ロッシ様とおっしゃる方は、ディトラスのお知り合いでしょうか」

 思いがけない名に、内心とまどいつつディトラスはうなずく。

 「ああ、以前からつきあいがある。彼女は腕のいい画家だ。王宮展覧会への出品を支援したり、依頼人を紹介したりしている」

 「そうでしたか」とアネイシアはうなずいた。

 「彼女に興味が?」

 「先日の舞踏会のおり、ご挨拶をしてくださったのですが、失礼な態度をとってしまったので、お詫びのお手紙をさしあげようと思うのです」

 そういえばあの夜、ヴァネッサがやってきて「奥様がバルコニーで具合悪そうにしていらっしゃいます」とディトラスに耳打ちしてくれたのだった。

 「あのとき、きみは体調をくずしていたんだろう。ヴァネッサはなにも気にしていなかった。さっぱりした性格の方だ。今度きみに紹介しよう」

 「楽しみにしております」

 答えたアネイシアは、言に似合わずひどく控えめな笑みをみせる。

 それはいつかの夜会で見た、むらがる男たちに向けていた儀礼的な微笑そのものだった。

 つい先ほどまで感じられた彼女自身の本心を急に隠そうとするような反応の意味がわからず、ディトラスは眉をひそめる。

 誠実なアネイシアのまなざしと言葉にあれほど心をゆさぶられたのに、貴族の仮面をかぶった姿を見るのは不快だった。

 ディトラスは不機嫌を隠しもせず言った。

 「きみはヴァネッサが気にいらないのか」

 「そんなことはありません」

 即座に否定したアネイシアの声は、しかし小さかった。

 急に機嫌をそこねた夫にとまどっている。

 「私の言葉がいたらなかったでしょうか。申し訳ありません」

 顔を伏せ深々と腰をおとしたアネイシアは、完全に心を隠してしまっていた。

 ディトラスはもどかしさがつのりどうしようもなく苛立って、言葉もなくその場を後にした。

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