第三章 フルーツティーとフルーツサンド

はじめに

 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。

                   新約聖書ヨハネによる福音書 15章13節


 

 他人に何かが憑いているのを目撃したのはその日が初めてだった。美津さんが仕切る喫茶店の、偶然隣席になった青年。その背後にふわふわと浮く性別お判断がつかない子供がいた。とはいっても、歳はおそらく中学はじめくらいに見えたが。青年は気づいておらず、和やかに笑みを浮かべている。


「どうかなさいましたか?」


 柔らかな笑みを向けられ、俺は我に返る。そして、青年に「なんでもないです」と首を振った。青年は極めて穏やかそうなオーラを放っている。歳は俺よりも三つか四つくらい年上だと思う。それから、さりげないアクセサリという意図ではなく、宗教的な意味なのか十字架のネックレスを首から下げていた。

 

みぞれさん、私はそろそろおいとまさせていただきます」


 青年はカウンター向こうお美津さんに声をかけ、ぴったりの小銭を置く。美津さんが返事をすると、彼は十字架を手に恭しく頭を下げて立ち去った。お客さんは彼以外に俺しかいなかったため、俺は美津さんに声をかけた。


「なぁ、あの人って……」

「さっきの方ですか? あの人は近くの教会の方ですよ、遊佐ゆささん」


 そうなのかと、思いつつそれを聞きたいのではないとハッとする。


「何か憑いてた気がするんだけど……」

「悪いものじゃないですし、遊佐さんは気づいていないので放っておいても大丈夫で

 すよ」

「守護霊とかってやつか?」


 首をかしげ彼女に聞くと、美津さんは首を振った。


「守護天使ってやつですね。遊佐さんは、熱心なキリシタンなんです」

「んー、確かにキリスト教って天使がいそうなイメージ、かも」


 すると彼女は口元を隠し「ふふっ」と笑った。それから「キリスト教だけでなく、イスラム教やユダヤ教でも神の使いなんです」と教えてくれた。とはいえ、守護天使とは仰々しい響きだ。しかし、あの柔和で得高い青年ならば居てもおかしくはない気がする。

 

「守護天使は、確か……キリスト教徒一人一人に付き添い、信仰を守り導いてくれる

 存在ですね。守護対象に善を勧め、悪をのけるように導くのだとか」


 美津さんが昔のことを思い出そうと、眉根を寄せていた。俺は彼女の知識量に感心しながら、ティーカップの中のミルクティーを一口飲んだ。


「普通の子供ぽかったから、分かんなかったな……」

「そういう分かりやすい方たちは、悪魔でも天使でも目に見える特徴があるんです

 よ。こんな世じゃコスプレとか、不審者に見えかねませんけど……」


 まるで見たことがあるような口ぶりだ。

 いや、美津さんの交友関係ならばないこともないだろう。何せ彼女は妖怪や幽霊の類が見えるようだし。そのうえ会話もできる。

 美津さんは透明なグラスを熱心に拭きながら、俺の方を見る。


「何か宗教に入っていれば、私は憑りついてるもので判別できますよ。キリスト教徒

 は少なからず守護天使がいるので分かりやすいものです」

「はは、俺は無宗教だよ」

「ふふ、見えているのでわかります。とはいえ、隠岐おきくんにもあの子が視えたんです

 ね」


 美津さんは小さな顎を手で押さえ、「ふむ」とうなずいた。何かまずい事でもあったのだろうか。


「一般に視えない存在に無闇に話しけてはダメですよ」


 忠告された。俺は頷き、ミルクティーを飲む。


「あ、でもここでなら大丈夫ですよ。一般のお客様がいるときはダメですが……」

「そもそも、人がいないときに来るじゃん」


 美津さんはそう言うが、一般の客でにぎわっている時間帯に幽霊やら妖怪やらは決して姿を見せない、基本的には日が沈むころから暗い時間にやってくる、後は雨の日とか。そういう普通には彼らは、明るいものが何よりも苦手だという。


「むしろ紛れてくる方々もいますけれど……」


 美津さんは困ったように笑った。何がいけないのかと首をかしげると、「特にお祭りやパレードの類は人間とごっちゃになっているんですよ」と美津さんは言った。なるほど、確かに広い道の真ん中を堂々と歩いていれば目立つ存在が、渋谷のハロウィーンパレードのようなところに紛れれば誰も認知しまい。そんなことを言うと、美津さんはくすくすと笑った。


「まぁ、隠岐くんもそういう季節は気を付けてくださいね。くれぐれも攫われないよ

 うに」

「物騒だな……」

「体験すればそう思えなくなりますよ」


 美津さんは何とはなしに笑っていたが、すっと背筋が冷える思いであった。そして、すぐに美津さんにからかわれたのだと知った。美津さんは悪戯気な笑みを浮かべているからだ。――とはいえ、すべてが出まかせではなく、事実なのかもしれないが。俺は「気を付ける」といって、ミルクティーの最後の一口を飲み干した。

 それから美津さんは空になったカップを俺の手から受け取り、流し台に置きに行く。美津さんはすぐに戻ってきた。


「にしても、遊佐さんの守護天使さん、何か気にかけているみたいでしたね」

「そうだったか? 初めて見た衝撃に気にしてなかった」


 すると美津さんは「確かに、初めて見たら驚きますよね」と苦笑した。俺はそれから二・三言かわし、会計をして喫茶店を出た。

 

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