第十三話

 俺がズザと出会ったのは、今から百年以上も前。

 確か人間は明治時代と呼んでいて、そのころの俺とズザは、今とは違う名前があった。それは、俺たち二匹が猫又ではなかったからだ。繁華街はなまちと呼ばれる場所で、当時、遊郭ゆうかくとして商売していた店の看板猫だった。

 異国から来た珍しい猫の子供だった俺は、悠々と愛でられ育った。相対して、ズザはしたたかに生きる野良猫だった。メスにもかかわらず強気で、寛容で男気のあるやつだった。店の格子扉越しに、俺はズザと話すことをひそかに楽しみにしていた。

 「ここら辺のネズミは美味い」とか、「あの店の猫はろくでもない」とか他愛もなく会話をしているだけ。


 ある日、ズザは会いに来なくなった。

 メスが来るのを待つオスというのも無様な話であった。だが、俺は遊郭という場所に閉じ込められているも同然であった。会いに来なくなってから三週間後くらいに、ズザの仲間の猫がを知らせに来た。

 自分がこの場所から出られないことを後悔したのは、これが最初で最後であった。

 なぜなら、その四、五日後に俺が飼われていた遊郭に賊が入ったからだ。それに巻き込まれ遊女たち、そして俺も無残に殺された。俺に良くしてくれていた太夫の一人がせめて俺一匹だけでもと逃がそうとしたが、それも無駄に終わった。

 

 ――死にたくないな。


 ぼおっと、薄暗く血なまぐさい遊郭の床に臥せって思っていた。

 このとき、なぜかつい先日訃報を聞いたズザを思い出した。日に当たると金色に見えるトラ猫のズザは、どの猫よりも美しかった。狩りがうまくて、暇ができるとネズミを見せに来るような奴だったけれど、――俺は自由で果敢かかんに生きるズザが羨ましかった。

 だから、強く、俺もそんな風に生きてみたいと願った。

 それが実を結んだのか、次の日には俺はよみがえっていた。よみがえっていたというより、人に見えない二本の尾を持つ妖怪になっていた。


 それから、ズザに再開したのは、五、六十年ほど前だ。

 この国では時代が昭和と呼ばれ、ちょうど高度経済成長とやらに入った時期だったか。それまでは、硝煙の匂いが絶えなかった記憶がある。皆せわしなく、怒ったような顔をしているなと思っていた。

 その時期も、人間はみんな忙しなかった。とはいえ、その前とは違い希望にあふれ、労働にいそしむ姿が色濃かった。しかし、化学が発展し光りが増えて妖怪である俺たちは生きづらい時代になると、おののいていた時期でもあったが。

 あの日は、冬だった。俺は東京という、大きなビルが並び汽車が走る都市にいた。あの日は寒かった。


 ――××?


 その日は人の姿に化けていて、細い路地裏にいた。ふいに、後ろから女の声がした。人間の女の声だった。しかし、懐かしい名前を呼ばれた気がして、俺は思わず振り向いてしまった。

 人間には俺が見えないということを失念していた。

 振り向いた先には、見覚えはないがどこか懐かしい髪の短い女がいた。


 ――××、なのか?


 男っぽい口調で話すそれは、まさにいつの時代も変わらず思い出すズザのそれだった。

 呼ばれたのは昔の名前。

 俺は寒くて、――何よりもそれが信じがたくて動けなかった。女は俺に近づいてきて、じっと俺を見上げて、強引に俺の手を取った。手の甲に、ぼろぼろと生暖かいしずくが落ちた。それがズザの涙だったことに気が付いたのは、思考が再開してからだ。


 ――△△、どうして。あの日死んだんじゃ……。


 俺も昔のズザの名前を口にして、信じられないものを目の前に震える声で訊いた。ズザは悲しそうに微笑んで、「だって、あのまま死にたくなかったんだ」と感情を押し殺そうと、わなわな震える唇で話した。


 ――どうしようもないね、二匹とも妖怪になっちまった。


 それから、ズザの提案で小さな喫茶店に俺たちは入った。

 ズザは人間の姿で、たまに働くこともあるらしい。景気のいい時代で、その日はズザが「勘定かんじょうしてやる」と誇らしそうに言った。人間の食べ物を口にしたのはこの日が初めてだったと思う。

 一見男にも見えるズザは、案外甘いものが好きなのだと知ったのもその日だ。

 ズザはクリームソーダと少し高いチーズケーキを注文していた。俺も勝手がわからなかったので、同じものを頼んだ。

 多分、おいしかった。炭酸は刺激が強かったが、ズザがおいしいと思うならおいしいのだろう。

 それから、俺たちは一緒に行動することが増えた。お互い、会えなくなってから何があったのか話して、まるで互いの傷をなめ合うように寄り添いながら過ごしてきた。そのせいだったのだろうか。ズザへの気持ちは募るばかりで、変に胸が痛んでいく。


 それでも行動を共にし、十五年ほどたって俺たちは一人の男に拾われた。

 それは、今のみぞれ嬢の亡き祖父だった。俺たちが妖怪だと知って、都会では明るすぎて生きづらいだろうからと、連れてきてくれたのが今の俺たちの住む街だ。

 その時から、すでに一般猫を巻き込んだ猫又たちの抗争は続いていた。

 俺とズザは別の頭領へついていくことになった。別に仲が悪くなったわけではなく、考え方が違っただけだ。ただ、俺にとっては好都合だった。ズザに会えば胸がいつも痛くなるから、避けるにはちょうど良かった。でも、会わなくてもそれは変わらなかった気がする。

 

 でも、普通に生活していれば会わない方が難しかった。

 

 自分がこの気持ちの意味を知ったのは、つい五・六年ほど前。

 霙嬢がいる喫茶店で鉢合わせたズザとお茶をして、ズザが帰ってから霙嬢に言われた。


 ――帰ってほしくなかったんですね。


 と。

 その時から霙嬢は大人びていた。ませているというよりも、ただ感情が希薄な笑うのが上手な子供。意味が分からなくて、俺は「どういうことだ」と怪訝にも聞いた。すると、霙嬢は俺にもわかるように「ロアさんはズザさんに懸想けそうしてるんでしょう?」と、切り捨てるように言った。まるで見透かすような瞳で見つめられる。


 ――ち、ちがっ、そんな訳……。


 違うと否定しようとした。

 でも、嫌いではなかった。その気持ちを理解してしまうのが怖かった。あの日のように彼女が帰らぬものとなるのが。それが、俗にいう恋であると心の中では理解していた。俺は見透かすような子供の目から逃れるように、勘定を置いて喫茶店から飛び出した。 

 ぼぼぼっと、顔に火が付いたように熱かった。その日も冬だった。

 俺は街を走り回り、の一言を追い出そうとした。疲れて、立ち止まって、膝を抱えたら無性に涙が出た。履いていた下履きに涙のシミができて、寒さに汗と涙がすぐさま冷えていく。

 きっと、俺は彼女が帰らぬことの怖さより、――彼女が俺を嫌いになってしまうことの方が怖いんだ。

 

 ――この意気地なし……。


 独りちた。

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