第十五話 

 わたくしがあの夫婦をと初めて呼んだのは憐れみからだった。もう五十代であるあの夫婦は、わたくしとあの屋敷で暮らす十数年前に、娘を一人事故で亡くしたと聞いていた。それは、前の屋敷の住人が言っていたことだった。

 だから、ほんの慰み程度で娘としてふるまっていた。

 彼らに、わたくしの言葉は届かなかった。それは、実体を持たないわたくしにとってやはり当然のことであった。


 ――では、なぜわたくしは、彼らを愛してしまったのかしら?


 それはいつからだったろうか。 

 時間の積み重ねがそうさせたのだろうか。

 あの夫婦は、あの家に置かれたいた私をに重ねていたと知っても、わたくしは彼らを愛していた。人形だとしても、毎日話しかけてくれるあの二人がかわいそうだったけれど、それが嬉しかった。

 あの二人を、わたくしが亡き娘の代わりに抱きしめられたら。動くことのない重い腕を毎日見ては、わたくしは自分の無力さを毎日のように嘆いた。


 ――たった一つの憐れみだったのに……。


 わたくしが、憐れにも彼らに情を抱いていた。

 わたくしに、わざわざ娘の名前を刻んでお茶会の席を設けるあの夫婦に。わたくしは――、みぞれという少女が話したあの日の事実。

 不意にも、思い出していた。

 屋敷が炎に飲み込まれそうになって、あの夫婦は混乱していた。炎の渦にのまれそうになり、ガラスケースが煤けたわたくしを見て、彼らは自分の本当の娘のことを思い出したのだろう。


『せめて、私たちの娘のようなこの子だけでも』

『ずっと寄り添ってくれたこの子だけでも』


 そう頷き合った夫婦は、自分たちが死ぬことを予期していたようだった。

 炎は窓から入り濃く風が揺らすカーテンのように、チロチロと床を舐めていくようだった。それからしばらくして見た光景は、たった一人暗いところの天井を見ていたことだった。

 

 ――思い出した。


 彼らは、ちゃんとと本当のレイラを区分していたのだ。わたくしが勝手に、彼らを憐れに思っていたのだ。

 今初めて、自分が愚かであると知った。

 霙が、わたくしの顔を見て、優しく微笑んだ。

 言葉はなくても、それが何を意味していたか解った。


わたくしは、なんて愚かなことをッ――」


 霙は私のその言葉を聞いても、ただ優しく私の髪の毛を梳いている。

 思い出してしまう。

 母上が、毎日のようにわたくしの髪の毛に触れては慈しむように結い上げてくれたこと。父上が、わたくしを見るたびに話しかけてくれたこと。色あせても、ひび割れても、わたくしを捨てずに治してくれたこと。あの夫婦が、お日さまの下で笑い合っていたこと。


「あなたは、確かに愛されてきました」


 静かな霙の声が、心の奥底にしみる。

 母上が、わたくしの服に不器用ながらにも刺繍してくれた時の瞳は、穏やかながらにも花が舞うような雰囲気であった。

 

わたくしは、あぁっ、ごめんなさいっ……」


 ぼろぼろと雨粒がひっきりなしにわたくしの頬をなぜた。

 それは雨粒ではなくて、人間が流す涙だと知ったのはいつだったろうか。霙はひっきりなしに零れ落ちるそれを、自らの手が濡れることもいとわず拭ってくれる。悲しいくらいそれは暖かかった。亡き両親の手も暖かかった、しわしわの手だったけれど、枝のようだったけれど暖かかった。


「思い出せましたか? 大事な記憶」

「えぇ、思い出しましたわ。嬉しいのに、それはとても嬉しいのに、なぜ涙がこぼれ

 ますの……?」


 その質問に霙は答えてはくれなかった。

 自分で探しなさいと、諭すような瞳はあの両親と同じように優しかった。すると、心配そうにこちらを見つめてくる青年たちと目が合った。初めて彼らと出会った日、怖がらせてしまったことを少し後悔していた。

 そのうちの黒い髪の毛の青年が、悲しそうな表情を浮かべていた。


「ご、ごめんなさい。お見苦しいところを……」

「あ、いえ。お気遣いなく……、あの」


 その青年は落ち着いた雰囲気でありながらも、わたくしに躊躇うように何かを言おうとしていた。


「俺は両親とまともに暮らしていた時間は短いですけど、やっぱり無くなってから気

 づくんですよね……。大切なものが亡くなっても、固執するのは間違ってないと思

 います……。それが、大事なら尚更、ですよね」


 おずおずと話し出した言葉は、私の感情と似たようだった。苦笑しているが、それでも彼はわたくしをいたわるようだった。わたくしは「そうね」と短く、同意した。

 そうだ。

 もうずっと、彼らのお茶会が再開できる理由を捜していた。それを彼が間違ってはいないと肯定してくれた。それだけで救われた気になった。それにピンク色の不思議な髪の毛をした青年もうなずいた。


「うん、そうだね。オレはそういう経験はないけど、ずっと悲しい顔してたらみんな

 悲しくなるもんね。どうせなら、笑顔でいたいよね」

「えぇ、本当にそうね。わたくしはずっと、ずっと悲しかったのだわ」

「うん、だから笑おうよ。レイラちゃん、パパとママの話をしてた時みたいにさ」


 彼の言葉に視線と頬が緩んだ。

 すると、彼の表情もパッとほころんだ。わたくしはもう一度、思い出すようにミルクティーを飲んだ。ずっと、覚えている。きれいな庭園と、真っ赤な紅茶と時々ミルクティー、それからスコーンとジャムとクロテッドクリーム。

 口端がゆるんで、ほうっと息をついた。

 それからティーカップを置いて、磨かれたガラスケースを見やる。その中には、もうずっと、わたくしがこんな存在になってからほとんど目にもしなかったわたくしわたくしはそれをガラスケースごと抱きしめた。

 確かに、わたくしは愛されていた。

 それが分かって嬉しかった。


「ねぇ、霙」

「……はい」


 呼びかけると、彼女は少し間をおいて返事をした。


わたくしはずっと忘れてたことを、思い出させてくださって感謝しているわ。ありがと

 う、わたくしが愛されていたことを思い出させてくださって」

 

 すると、彼女は予想だにしていなかったのか、瞠目した。

 ぱちぱちと大きな瞳を、瞬きさせている。わたくしが微笑むと、彼女は何かを堪えるようにくしゃりと笑った。

 ――あ、綺麗。

 思わず目の前が弾けるように輝いた。


「はい、そのように思っていただけたなら光栄です」


 霙は姿勢を正して、わたくしに深くお辞儀をした。

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