第4話 ナイフ

 中間テストが近く、天莉と沙夜、そしてルリエが天莉の家で一緒に数学を勉強している。ルリエは学校に来ない日も多く、授業についていけてない。分からないところを天莉が一生懸命に教えていた。沙夜も時々ルリエに助言はするけれど、あとは読めば分かるとか、やや突き放している。

 沙夜は苛立っていた。天莉がルリエに優しいのは分かるが、ルリエもそれに頼り切っていて、分からないとすぐ天莉に訊く。その無遠慮ぶりが嫌だったし、それに対し嫌な顔一つしない天莉にも苛立ちを覚える。

 ルリエが手洗いに立った時、沙夜は天莉に言った。

「ねえ、少し自分の勉強した方がいいよ。ずっとルリエに教えてばっかりじゃない」

 そう言われても、天莉は大して気にならないという感じで微笑した。

「まあね。あとでやるよ。だいたい分かってるし」

「分かってるって……今回の範囲結構難しいよ。大丈夫なの?」

「うん……今やるから」

 ルリエが戻ってきた。自分のことが心配になったのか、沙夜に気を使ったのか、天莉も自分の勉強を始めて、沙夜に訊いたりした。それでもルリエに訊かれれば答える。

 自分は妬いているんだろうか、と沙夜は思った。天莉は一番の友達だし、魔法少女テュリスとしても組んでいる。この仲が、そう壊れるはずがない。でも、ルリエを見ると何か不安になる。

 今度は天莉が席を外した。何だか気まずくなる。ルリエが何気なく、沙夜に話しかけた。

「天莉さんって、優しいですね」

 沙夜は何か言いたかったが、ここで対立もしたくない。

「うん……ちょっと優しすぎかな。あなたも、自分でがんばって、天莉の時間も作ってあげて」

 そう言うと、ルリエはやや目を伏せた。

「すいません、分かってます」

 分かっているなら、そう行動してほしい。そう思った時、ルリエが一瞬自分をにらみつけた気がして、背筋に冷たいものが走った。ルリエを見ると、目を伏せたままだから、今のは気のせいだ。こんな弱気な子が、人をにらみつけるなんてできるはずがない、沙夜はそう思った。ただ、天莉の話を思い出す。ルリエは小学校の頃は、こんな子ではなかったと。

 その後、ルリエが一足先に帰り、沙夜と天莉で少し勉強を続けた。沙夜はため息をつく。

「正直ルリエがいると、落ちつかないよ……」

「え? そうなの? なんで?」

 天莉は、本当に分からないという顔だ。

「あの子がすぐ人に頼るのを見てると……まあ、私がそういうタイプじゃないからかな。あと、天莉のことも心配になってくるし」

「そっか……また勉強しようよ。今度は二人で」

 そう言って天莉は笑いかけた。沙夜もうなずいた。そう言ってくれたことは嬉しいが、なんか軽く取られている。


 もうすぐ、リリカの元へ行ける。ビルの屋上に立って、カイはそう思っていた。ただ、いざとなるともう一歩がなかなか踏み出せない。

 サーカス団で、リリカは厳しい練習の末に死んでしまった。大人の団員達は、子供を奴隷のように使う。実際、身よりのない子供達でもあり、サーカス団から出てしまうと、行く場所もない。まして、ここは東洋の異国だった。言葉も通じない。

 子供同士だが、カイは、リリカとは恋人同士だと思っていた。自分はナイフを投げる技を持っている。それで人気はあったし、サーカス団の中でも比較的楽な生活はできた。あと、自分の頭は普通の人間と違う。毛深いし、人間の頭というより動物の頭に近い。耳をつけて多少メイクをすれば猫に似ているので、遠目では猫のキャラクターに見える。人気はあったが、見せ物には違いない。でも、リリカはこの顔が好きだと言ってくれた。リリカがいなくなった今、何ものにも意味はない。自分はリリカを救うことができなかった。もっと何か、教えることはできたはずだ。天国に行って会えたら、真っ先に謝らなければ。

 ビルの縁から地上を見下ろす。夕刻で、空が金色に染まっていく。誰も自分には気づいていない。

 ふと、向こうから何か黒い影が飛んでくるのに気づいた。コウモリらしい。この時間なら珍しくはないが、こんな高い場所を飛んでいるだろうか。コウモリはビルの屋上に着くと、急に姿を変え、黒い服の一人の少女がそこに立っていた。カイは驚いて少女を見る。

「君は……妖怪か?」

「私は、復讐の神、ネメシスの使者よ」

 この国の言葉だったが、なぜか意味が分かった。

「僕に何の用? ここから飛び降りるのを止めようってんならお断りだ」

「大人達を恨んでいるでしょう?」

「別に。恨んだって……恋人は帰ってこないさ」

 少女は小さな石を出し、カイの手に握らせた。

「何だい、これは?」

「あなたは訴えるべきよ。自分の悔しさを、この世界に」

 石からエネルギーが流れ込んできた。そのエネルギーがカイの中で増幅されていく。それはどす黒く、体の中で渦を巻くエネルギーだった。

「そうだ……僕はずっと、大人達の言いなりだった。大人達の期待に応えてきた。そうしなければ生きていけなかったからだ」

 手の中が熱くなっていく。怒りや憎しみが沸き上がってきて、そのエネルギーが今度は石に流れ込む。

「命を握っている奴らがあまりに身勝手で……それでリリカは死んでしまった。世界がそんな大人達ばかりなら……」

「きっと、そんな大人達ばかりよ! 私も……傷ついた私を、大人達は笑って見ていた。誰も助けてくれなかった」

「全員殺す!」

 石が持てないくらい熱くなって、カイは手を開いた。石が赤く輝いている。少女が叫んだ。

「アグニア、ゲノス!」

 その瞬間、カイのすぐ隣の空間が揺らいて、カイがもう一人増えた。何か巨大なもの出現すると思っていた少女は驚いて、二人を見比べる。増えた方はやや頭の形が違い、猫のような頭ではなく、猫そのものだった。猫人間のアグニアが、笑いながら手を振ると、そこにナイフがいくつも出現した。猫人間は歯をむき出して笑った。一緒に笑っているカイが口を開いた。

「こいつをやってみたかったんだ」

 そして猫人間は、踊るような仕草でビルから飛び降りた。落下ではなく、ゆっくりと降りていく。カイと少女が屋上に残された。

「ねえ、一つ注意して」

「何だい?」

 カイはもう猫人間の視点で、別の景色を見ているようだ。

「大きな光の窓に注意して。それが現れて、その向こうを見ると、今の力が失われるらしいの」

「ふーんそうか、分かったよ」

 猫人間が地上に降り立った。両手に輝くナイフを持っている。そして、そこらで歩いている人をめがけ、手当たり次第にナイフを投げつけた。ナイフは投げても投げても、猫人間の手に出現する。周囲に悲鳴が上がった。

 

『聞こえるか? 出たぞ! 高層ビル群のところだ』

 沙夜が天莉の家からそろそろ帰ろうと立ち上がった時、いきなりドロンの声がした。二人は顔を見合わせる。

「沙夜、今の聞いた?」

「うん、出たって」

「よし、行こう!」

 そして二人は同時に叫んだ。

「テュリスフィリア!」

 変身して窓から空へと飛び出す。翼を羽ばたかせながら、高層ビル群に向かったが、その上空には何も見えない。今までは何かしら巨大なものが浮かんでいたのだが。

「ねえドロン、アグニアはどこにいるの?」

『地上だ』

 高層ビルの近くまで来て、二人は地上を見た。大勢の人が倒れていた。しかも血を流して。誰も動いていない。見ると、誰もの心臓あたりにナイフが刺さっていた。子供の泣き声が聞こえる。倒れているのは大人ばかり。子供は見逃されていたようだが、恐らくは親を殺されたのか、倒れている大人にとりすがって泣いている。天莉は上空を飛びながらも呆然とする。

「ひどい……ひどいよ。人を殺してる」

 泣きそうな声で言った。

『大丈夫。全部幻だ。アグニアを倒せば全員生き返る』

 ドロンがそう言ったが、そう言われても目の前の光景は現実としか感じられない。天莉は目を背けたかったが、それではアグニアを探せない。懸命に目を見開く。沙夜の方を見たが、沙夜は割と平然としていた。

「沙夜……平気なの? あんなのを見て」

 天莉がそう言うと、沙夜は少し困った顔をした。

「平気ってわけじゃないけど……幻だって自分に言い聞かせてる」

「言い聞かせ方がうまいんだ……」

 天莉はそう言ったものの、その意味が自分でも分からない。

「ねえ! あれじゃない?」

 沙夜が地上を指さした。見ると、一人の少年が歩いている。周りは倒れた人だらけ。今は皆逃げたのか、少年の周りには誰もいない。少年は辺りを見回す。何も知らないのか、建物から人が何人が出てきた。少年はすかさず構えてナイフを投げた。一本だけではない。次々とナイフが手の中に出現した。それを次々と投げていく。ナイフが刺さり。人が倒れていった。

「やめて!」

 思わず天莉が叫んだ。そして天莉と沙夜の二人は、少年から少し離れ、その前に降り立った。少年と見えたが、頭をよく見ると、普通と違う。猫の頭が乗っていた。彼は降り立つ二人に気づいた。少し驚いた顔をしたが、すぐさまナイフを出現させ、二人に向かって投げつけた。相当のスピードで、ナイフは心臓に当たったが刺さらなかった。二人の体を透過して、向こうに抜けてしまった。猫人間は驚いて何度も瞬きをした。

「そんなことはやめて!」

 天莉にそう言われたが、猫人間は鼻で笑った。

「やめるもんか」

「乱暴な猫ちゃんね……」

 沙夜がつぶやく。 


「なんか妙な二人が来たぞ」

 ビルの屋上の、縁に座ったままカイが言った。何を見ているのか、少女には分からない。

「どんなの?」

「背中に翼がある。天使みたいだ。赤いのと、青いのがいる。ナイフを投げても通り抜けちゃう」

「そいつら、きっと光の窓を出すよ。気をつけて」

「分かった」

 自分のじゃまをした二人だ。こうなったら、自分が行くしかない。

「私が行く。私がやっつける」

「大丈夫? あの二人結構強そうだよ」

「私だって……今は弱くないんだ。ここにいて」

 そう言うと、少女は立ち上がった。その瞬間、黒い翼が背中に出現した。それを羽ばたかせ、屋上から飛び立ち、滑空していく。


 二人は同時に叫んだ。

「テュリスアニックス!」

 二人の間に、光り輝く窓が出現した。猫人間に向けて窓が開いていく。しかし、猫人間は目を伏せ、窓の方を見なかった。

「ねえ、こっちを見て! いいものがあるよ」

 天莉が叫んだ。猫人間は動かない。しかし次の瞬間、こっちを見もせずにいきなりナイフを投げてきた。驚いて天莉は飛び退く。ナイフをよけたら、窓が消えてしまった。

「だめだ……窓のこと知ってる」

 沙夜がつぶやくように言った。その時、ドロンの声がした。

『気をつけろ。もう一人そっちに向かっている』

 天莉は驚く。

「もう一人? アグニア?」

『違うようだ。恐らく……アグニアを生んだやつだ』

「ええっ? 親玉ってこと? 大変じゃない?」

「歩いてくるの?」

 割と冷静に沙夜が訊いた。

『速度からして多分飛んでくる。空から来る』

 沙夜も驚いてはいたが、少し別のことが気にかかった。ドロンはどうして全体の状況が分かるのだろう。特別なレーダーでも持っているのか。

「ねえ沙夜、どうしよう」

「じゃあ、私がその来る方をやる。猫の方を頼むわ」

 沙夜が翼を羽ばたかせ、飛び立つ。

「ドゥレパーニ!」

 沙夜が叫ぶと、その手に大鎌が出現した。天莉は、沙夜の冷静さが頼もしかったが、同時に少し怖いと思った。

 猫の方をと言われたが、どうすればいいだろう。ナイフを投げてくるとはいえ、相手が子供にも見える。大鎌で切りつけるなんて、できそうもない。天莉は猫人間の方を見た、相手側もこちらが何をしてくるのか、様子見らしい。


 沙夜は羽ばたいて飛んでいった。空は夕刻の金色だ。そういえば、金色のままずっと時間が経たない。夕日が見えるが、時間が止まったかのようにそこから動かない。これも幻なのか。

 遠くから近づいてくる黒い影を見つけた。翼があるようだが、明らかに鳥ではない。もっと大きい。沙夜は大鎌を構え、その影の方に向かっていった。両方とも飛んでいるので、かなりの速度で迫ってくる。相手の影に、やはり同じような大鎌が見える。緊張が走るが、すぐ近くに来るまで一瞬だった。沙夜は大鎌を振り上げていたが、すれ違いざま振り下ろすことができなかった、それを見た瞬間、ためらってしまった。しかし相手は平気で鎌を振り回してきた。かろうじて沙夜には当たらず、それは高速で沙夜の脇を抜け、相手は後ろへ飛び去る。

 相手は人間だ……沙夜はそれを見て手が出なかった。しかも、似ている。ルリエに似ている。もし切りつけて殺してしまったら……

「ねえ、ドロン」

 沙夜の声は震えていた。

『何だ? どうした?』

「あの親玉を殺したら、相手は本当に死ぬの?」

『分からん』

「もし相手に殺されたら……」

『……大丈夫だと思え』

「分からないの?」

『逃げ回って、アグニアだけ何とかすればいい』

 そう言っている間に、相手が旋回して、またこっちに向かってきた。沙夜は逃げたかったが、相手が天莉の方に行っても困る。

 相手はルリエなんだろうか? ルリエを殺してしまったら、自分はともかく、天莉が悲しむ。いや、自分だって、ルリエは好きではないが、殺していいなんて思わない。でも、アグニアを生んでいるので、そういう意味なら……いや、だめだ。殺すなんてできない。とにかくルリエだったら嫌だ。ルリエではないと思いたい。

 相手は、自分のことが分かるのだろうか? ルリエだったら、自分が分かっているのだろうか? 平気で切りつけてきた。自分と知っててか、あるいは知らなくてか? 分からない。殺したくない。でも、何とかしなければ……

 沙夜は相手から逃げつつも、あまり離れないようにもした。


 今までのアグニアなら、何か物が集まったようなものだった。だから大鎌で切りつけることもできる。でも今回のは違う。猫の頭とはいえ、少年だ。もしかして会話できるのだろうか?

「ねえ」

 天莉がそう言うと、猫人間は何度か瞬きをした。聞こえてはいるようだ。

「ねえ、どうして人を殺すの?」

 すると、しばらくして猫人間が答えた。

「僕の恋人、リリカは、命を何とも思わない大人達のために死んだ。殺されたようなものだ。だから殺してやる。みんな殺してやる」

「殺したって……いくら殺したってあなたの恋人は返ってこないよ」

「じゃあどうやったら返ってくる? そんなこと言うならリリカを返してくれよ! え? 返してくれ!」

 天莉は答えに困る。その時、会話を聞いていたのか、ドロンの声が聞こえた。

『天莉、俺の言う通りに言うんだ』

「……分かった」

 天莉はドロンの言葉に従う。

「ねえ、窓を出すから、その向こうを見て」

「嫌だね。僕の今の力失われる」

「でも、あなたは恋人と一緒にいる自分を見る」

「ふざけるな! リリカは死んだんだよ!」

「確かにこの世界では死んだ。でも違う世界では生きている」

「違う世界なんてあるものか!」

「ある。世界は……可能性の数だけ分岐しているから」

 天莉は自分で言ってて、よく分からなかった。窓の向こうに何が見えるのか、知らない。分岐している違う世界?

「信じられないね。それに、そんなものを見ても、この世界にリリカは戻ってはこないんだろう?」

「でも、その世界の自分と、一緒なることができる。窓の向こうに行けばいい」

 猫人間はしばらく黙っていた。

「……嘘だ」

「嘘じゃないよ。信じてみて」

 猫人間は迷っている。


 沙夜は再び大鎌を構えた。相手はまたこっちに向かってくる。沙夜は大鎌の向きを変えた。刃の方ではない、それがついている棒の方で打つ。日本刀なら峰打ちだ。殺したくはないが、ダメージを与えたい。

 相手が向かってくる。翼を羽ばたかせた黒い影。遠くで顔がはっきりしないが、やはりルリエに似ている。すぐに接近してきた。相手は大鎌を構えて振り下ろしてくる。単純な動きなので避けられそうだ。沙夜も大鎌を下向きに構えてから、迫る相手めがけて振り上げた。相手の大鎌は沙夜に当たらず、沙夜の大鎌の背は相手を叩いた。相手はバランスを失って落ちていく。沙夜は焦った。このまま地面に落ちたら死ぬだろう。でも、落ちる寸前に相手は羽ばたき、うまく飛べないまま逃げていった。

 その時、ドロンの声が聞こえた。

『戻れるか? 窓を出すぞ』

「分かった」

 沙夜は答えた。


 天莉のところに沙夜が戻り、二人は声を合わせた。

「テュリスアニックス!」

 光る窓が出現し、それが開いていく。猫人間は、今度は窓を見ていた。

 少女は痛む羽を羽ばたかせ、飛んでいた。相手の方が体力も戦闘能力もあった。それが悔しい。とにかく今はカイのところに戻らなければ。しかし、ビルに到達する寸前、少女は見た。

 カイが屋上から飛び降り、地面に落ちていく。それを見て、少女は羽ばたく力も失った。ひどい敗北感だった。崩れるように地面に降り立ち、そのまま地面に倒れた。背中の翼が消えていく。やがて世界が元に戻る。自分以外は誰も、何があったか覚えていない世界。

 それはただ、カイが恋人の後を追って、身を投げて死んだだけの世界だ。


 サーカステントの旗が半旗だ。ドロンは気づいた。ナイフ投げの、猫の頭の少年が亡くなったのだ。人気者だった。ピエロの扮装で太鼓を抱え、笛をくわえて、いつものように「聖者の行進」の演奏を始めた。

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