第2話 詩人

 駅前を通りかかり、ふと目にとまった。あそこにいるのはルリエだ、と天莉は思った。小学校が同じで、今も同じ中学で、同じクラスにいるけれど、ほとんど口をきいたことがない子だ。

 駅前の広場で、ルリエは見知らぬ年老いた男から、何か本のようなものを買っていた。路上で売っているのだ。買うとルリエはすぐに去ってしまった。天莉は、路上に座っているその男の前を通過した、そして何を売っているか分かった。詩集だった。男は詩人だ。少し見ただけだが、顔色はよくない。

 翌日、学校の休み時間に、天莉は思い切ってルリエに話しかけた。

「昨日、駅前で何か買ってたよね」

「えっ……」

 戸惑うような目で、ルリエは天莉を見るが、すぐに目を反らしてしまう。あとは見たり見なかったり、落ちつかない。

「あ、私も偶然通りかかったんだ。あの人詩人で、あれ詩集だよね」

「うん……」

 ルリエはうなずいた。声も小さかった。

「詩とか、読むんだ」

「うん……」

「詩集、見せてもらっていい? 今持ってない?」

「……あるよ」

 そう言って、ルリエはカバンの中から、薄い冊子を出した。簡易的な印刷だった。表紙はモノクロで花が描いてある。天莉は開いて中を見てみた。

『生きよと言う声を 節々が痛む手でつかみ』

『まだだ まだ喉をかきむしるほど汚れた世の中ではない』

『鼓動を肋骨にて打ち鳴らし ただ吠えろ 今宵は道化どもの祭りだ』

 ほとんどは、作者が自分を奮い立たせるための、叫びのようなものだった。天莉の好みかというと、そうでもない。

「天莉さん、詩を読むの?」

 小さい声でそう訊く。

「んー、そうでもない。自分が知らない世界って感じだけど……でもあなたの興味が分かって面白いなって」

「そうなんだ」

 少し残念そうな顔だった。自分が詩に興味がないと知ったからだろうか。

 ルリエは決して、小さい声の子ではないと知っている。小学校の学芸会では、はっきりした大きな声を出していた。王様を守る近衛兵の役だ。きっちりと制服を着て、長い鉄砲を構えて、凛々しくて、なかなか格好良かった。顔立ちも結構整っている子だ。今はいつもうつむいているが、そんな子でもなかった。

「詩って、演劇のせりふみたいだよね」

「そうだね……声に出して、読むことがある」

「人前で?」

「人前ではやらない」

 今の小さい声では、舞台でやっても届かない。

「あの、学芸会の時みたいに、読んだらいいかも」

 天莉は笑いながら言う。ルリエも戸惑いつつ微笑した。

「やらないよ……恥ずかしいから」

 休み時間が終わった。その日は、それきりルリエとは話さなかった。

 学校帰りには、いつも通り沙夜と帰る。

「ねえ天莉、ルリエとはあまりしゃべらない方がいいよ」

「どうして?」

 天莉は、やや反発したい気持ちになった。

「知ってると思うけど、他の女子から、あまりよく思われてないし」

 沙夜は違う小学校だから、小学生の頃のルリエを知らない。

「だからって、そんなの関係ないよ。別に悪い子じゃないし」

「ん、まあそうだけど」

「それにさ、去年あの子、大変だったんでしょ。クラスでいじめられたりして、今は大丈夫だけど、なんか、私と似てるんだよ」

「そうか……天莉も去年はちょっと面倒なこと多かったよね」

 去年のことはあまり思い出したくない。自分もルリエもそうだろう。だからせめて、あの子とも、いい思い出を作ろうなんて思っている。でも沙夜はそういうことに関心がないらしい。

 ルリエは一人で帰っているのだろうか、姿は見えない。


 生活のゴミが散らかった小さな和室。アパートの一室で、幸三は布団に横たわっていた。体調が悪い。もうあと何日、駅前で詩集を売り続けることができるだろう。ほとんど売れるものではない。少ない年金だけのぎりぎりの生活。食べ物を自由に買えるほどのお金も持っていない。ここしばらく、何も食べていなかったし、食欲もなかった。病気かもしれないが、医者に行くお金も気力もない。

 幸三はため息をつく。ひどく眠い。でもこのまま眠ったら、もう二度と目が覚めないかもしれない。それは困る。まだ自分の言葉は、必要とする人達に伝わってはいない。

 窓から、黒いコウモリのような生き物が飛んで入ってきた。そして、それはいきなり黒い服の少女に姿を変えた。幸三は笑いがこみ上げる。とうとう幻覚を見るようになったらしい。あるいは冥界からの使者だろうか。

「誰だい?」

「私はネメシスの使者。あなたはこのままでは死にます」

 そう言われても、そんなに驚かない。むしろ若い女性に見送られて死ぬなら悪くない。

「死ぬか……そうかもな。残念だがしかたない」

「あきらめないで! あんなすばらしい詩を書いているのに。あなたの言葉は、死ぬべきではないの」

 そう言って、少女は持っている小さな石を、幸三の手に握らせた。冷たい、黒い石。

「これは、なんだい?」

「これを握って、この石に思いを込めて。長い間苦しんで綴ったあなたの言葉を、誰も受け取ってくれないなんて、おかしいと思わない?」

「その程度の才能なのだ。しかたないよ」

 自嘲的に言うが、真剣な少女を見ていると、違う気持ちも湧いてくる。それに石から、何かの力が流れ込んできた。異様な力だ。

 しかたないなんて、本当は思っていない。腹の底で、怒りのような感情が沸き上がり、渦を巻く。

「それでいいの? あなたがおかしいわけじゃない。この世界がおかしいんじゃない? この世界の人達が」

「そうか……そうかもしれない……僕は寝ても覚めても、人生を賭けて詩を綴ってきた。苦しかったよ」

「それがないがしろにされるのが、この世界よ。足で踏みにじられるのが、この世界」

「そうだ。こんな世界じゃだめだ」

 幸三は笑った。この少女のおかげで、何かの力が生まれている。ひさしぶりに愉快な気分だ。生まれた力が、今度は石の方に向かって流れてゆく。

「そう、だめよ! 絶対に許してはだめ!」

 手の中の石が異様に熱い。幸三はそう思って、手を開く。石は赤く光っていた。その時、少女が叫んだ。

「アグニア、ゲノス!」

 石は光を放った。


『聞こえるか? 俺だ。アグニアが現れた』

 不意にドロンの声がした。学校帰りの天莉と沙夜は、互いに顔を見合わせる。

「来たって」

「うん……」

 天莉は思わず身震いした。いつか来るとは思っていたが。二人は遠くを見渡すが、まだ何も見えない。

「聞こえるよ、ドロン、アグニアがどこにいるの?」

 天莉が訊く。

『見えないのか?』

「見えない」

『おかしいな……空にでかい球体みたいなやつがいないか?』

 二人は空を見上げる。やや雲は多いが、晴れた空だ。

「何も……」

「待って天莉、何か飛んでない?」

 見ると上空に何かか無数に飛んでいる。それは全体で見ると、きれいな丸い形をしていた。

「見えたよ沙夜……あの細かい飛んでるのがそうだね」

「何だろう……虫? にしては大きいね」

「とにかく、行こう」

 そして、二人は同時に叫んだ。

「テュリスフィリア!」

 天莉は赤、沙夜は青いコスチュームに変身する。そして背中に大きな翼が生えた。二人はすぐに羽ばたいて、空を上っていく。上空で飛び回っているものが近づいてくる。

「鳥だ。たくさんいるよ」

 沙夜が叫んだ。小さな白い鳥が無数に飛び回っていた。

「これ、アグニアなの? ただの鳥じゃない?」

 天莉が疑問を持つ。鳥達は、別に攻撃してくるわけでもない。ドロンが答える。

『全体が球形になって飛び回っている。天然の鳥ならそんなまとまり方はしない。アグニアだ。間違いない。気をつけろ』

「よし、やっちゃおう」

 二人は距離をとった。窓を出現させ、鳥達をそこに誘導してしまえばいい。しかし、白い鳥の数がどんどん増えてきた、そして二人の周りで飛び回り、囲まれて外が見えなくなった。天莉からは沙夜が見えない。

「沙夜!」

 叫んでも届かないらしく、何も聞こえない。聞こえるのは白い鳥が羽ばたく音だけだった。鳥達に遮られている。前後左右、上下まで囲まれて、どっちが上かも分からなくなった。

「まったく……じゃまな連中ね」

 天莉が鳥達を手でなぎ払い、沙夜の方に近づこうとした時、耳元で小さな声がした。

 

 彼女にとって 

 あの子は汚れた川

 君が溺れて流されるのは

 見ていられないんだ


 どういうことか一瞬分からず、天莉は戸惑う。

「彼女って……誰、どういう意味? あの子って……まさか」

 ルリエのこと? じゃあ彼女は沙夜? 沙夜にとって、ルリエが汚れた川? 溺れるのは誰? 君って、まさか自分……天莉は、そんな考えにとらわれてくる。沙夜は汚いものでも見るみたいに、ルリエを見ていなかったか。いや、そんなはずはない。沙夜はそんな子じゃない。


 彼女にとって

 君は白い半紙

 汚れ水を吸って破れていく


「嘘!」

 そう叫んだが、自分が頼りないと思われているのは、確かな気がしてくる。ルリエを思うと、沙夜へのいらだちが沸き上がる。

 一方沙夜も白い鳥達に囲まれていて、耳元で小さな声が聞こえた。


 彼女とあの子に間に

 過去という橋が渡されて

 君はただ下を流れる細い川

 水は涸れていくだろう


「何を言ってるの?」

 彼女は天莉のこと、あの子はルリエのことだろう。でも、そんな声には騙されない。自分は川なんかではない。何かにたとえられても困る。とはいえ、そんなに自分に自信もない。


 彼女が守っている卵を

 君は割ってしまうに違いないよ

 彼女はそれを恐れている


 守っている卵だなんて。天莉はそんなつもりじゃないはず。とは思うけれど、でも自分が疑われているような気がしている。

 その時、囲んでいる鳥の一部に穴があき、その向こうに天莉が見えた。天莉からも沙夜が見えた。

「ルリエと仲良くしてはいけないの?」

 いきなり天莉が腹を立てている口調で言った。その態度で、沙夜もやや頭に来る。

「こんな時に何を言ってるの? 私が何かじゃまでもしたって言うの?」

「私とルリエの気持ちなんて分からないんだ」

「そんなこと言ってないよ!」

「言ってなくても、態度を見れば分かる」

「勝手に見かけで判断してバカじゃないの?」

 その言い争いは、ドロンにも聞こえた。ドロンは焦る。

『おい、やめろ二人とも!』

 白い鳥の数がさらに増えて、街中にあふれていた。そしてドロンの耳にも、小さな声が聞こえた。


 夢を追っているつもり?

 きれいな鳥籠を用意しても

 小鳥達は逃げていくよ


「あの二人は逃げない! ……くそっ、争わせようとしているな」

 ドロンがあたりを見回すと、そこらじゅうで人々が言い争うのが見えた。言い争いでだけでなく、つかみ合ってのけんかも始まっていた。自分たちばかりではない。誰もがあの鳥の小さな声を聞いて、相手に何かの苛立ちを覚えて、つい口に出してしまう。


「僕は開けさせたのだ」 

 幸三は遠い目をしながらつぶやいた。

「何を?」

 少女が訊く。 

「心の箱だ。誰もが開けないようにしている箱だ。その方が一見平和だからね」

「そう、それが正しいとされているよね」

「僕の人生はそうではなかった……相手は僕に、箱の中身をぶちまけてくる。そうしても構わない人間だと思われていたからだ。悔しい。実に悔しい」

 幸三の目に怒りが宿っている。

「そうだね……私も知ってる」

「知らしめるべきだ。あれが人間だ。人間というものだ。白い鳥達はそれを教えに来たのだよ」

 幸三は笑った。ひさしぶりの笑いだ。壮快な気分すらする。


「言葉の使い手か……小汚い詩人め。しかし、どうすればいい……」

 天莉と沙夜が罵り合う声が、まだ聞こえている。ドロンは叫んだ。


 聞け! 君の心の中に

 魔法少女はいるか?

 

 ドロンの言葉で、二人は一瞬黙り込む。


 心の中の魔法少女は

 今の君をどんな目で見ているか?

 目を覚ませ!

 そして自分の姿を見ろ!


 自分達は今、魔法少女だ。変身しているし、空だって飛んでいる。心の中にいる魔法少女と同じだ。魔法少女は仲間同士で言い争いなんかしない。

「沙夜……今の聞こえた? 争っている場合じゃないよ」

「うん……私達は魔法少女だ」

「ごめんね」

「こっちこそごめん、小さい変な声が聞こえたんだ。でも、大丈夫」

「ドロン、ありがとう」

 二人はうなずき合い、距離を取った。

「テュリスアニックス!」

 二人の間に巨大な光の窓が出現し、それが開いた。鳥達が一斉に、その窓に吸い込まれていく。


「ああ……なんと」

 幸三の顔が急に穏やかになった。

「どうしたの?」

「いたわり合う心が、勝つ世界もあるのだ。僕には見える。窓の向こうに……」

 少女が青ざめる。また何か異変があった。

「見てはだめ……それは幻よ!」

「幻ではない。一つの可能性だ。確かな可能性は一つの世界だ。それでいいんだ」

「でも……」

 もう何を言っても無駄であると、分かっている。幸三の顔からみるみる血の気が引いていくが、その顔は微笑みさえ浮かべている。

「僕はもっと、信じるべきだった……」

 少女は言葉無くうなだれる。涙がこぼれてきた。一人の詩人が死んでいく。


「ルリエのことだけど……」

 戦いが終わって、天莉が口を開く。

「うん、天莉は優しいんだ。それがいいところなんだよ」

「沙夜のこと、嫌いになったわけじゃないよ」

「うん……ありがとう」

 二人は微笑み合った。ただ、わずかに溝が残っている。そして、それが消えないことも、何となく分かる。

 ドロンも一人考え込んでいた。

 自分が望んだのは、今のようなことだろうか?

 今のようなことなら、なぜあの場所から逃げ出してきたのか?

 あの場所に残っていれば、世界を変えられたかもしれないのに。

 いや、あれは違う、あそこは、人類にとって存在してはならない場所だ。それははっきりしている。

 ドロンはそして、一人の女を思い出す。この世の誰よりも美しい女だ。しかし悪魔のように、恐ろしい女でもある。

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