母の匂い。——おかあさん

♪〜おかあさん なあに

  おかあさんて いい におい

  せんたく していた においでしょ

  しゃぼんの あわの においでしょ



私は母の匂いがキライだった。


しゃぼんのいい香りがした記憶なんて、なかった。



思い出すのは——


ヘアスプレーの匂い


ハンドクリームの匂い


おしろいの匂い


そして、そこはかとなく立ち上る ”母” そのものの匂い



それらを、私は嫌悪していたと言ってもいい。



母は厳しい人だった。

親の沽券にこだわり、理想が高く、それでいて自分には甘い。


私はそう思っていた。



被害者意識が強く、理想の人生を歩めなかったことを、

人のせいにしている。


理由もなく不機嫌になり、八つ当たりしたり、

時には暴力的になったり。



いや、理由はあったんだろう。


——何もかもうまく行かない。


きっとベーシックに、そんな不満が鬱積していたんだよね。


***


成長するにつれ、反抗するようになった娘。

いつもカツカツの暮らし。

こんなにがんばってるのに、誰も褒めてくれない。

報われない。


どこで人生を間違ったんだろう。


結婚したせい?


そうよ、あのまま勉強を続けていたら、

私は留学して、何かしらになっていたかもしれないの。


その可能性を、結婚で潰してしまった。


キャリアを犠牲にして結婚したのに、

幸せにするって言ったのに、

夫は早逝してしまった。



せめて、子供を産んでなければ?


そうよ、子供がいなければ、

別の人生をやり直せていたかもしれないの。


なのに、この子たちと来たら、足手まといなうえに、

私に反抗するようになった。


こんなにがんばって、自分を犠牲にして育ててきたのに、

親を尊敬するどころか、まるで私が間違っているかのように

責め立てることさえある。


夫の両親も、息子が死んだのは私のせいだと言わんばかりだった。



人生なんて、本当にバカバカしい。


私は一人になりたいの。

男も要らないし、子供も要らない。


誰にも煩わされずに、一人で静かにしていたいの。



母の繰り言を総合すると、そういうことらしかった。


愚痴を聞かされたり、暴力を受けたりするたび、どんどん母がキライになっていった。


私が収入を得るようになると、生活費が足りないと言っては要求してくる。

長女なんだから出して当たり前だ、そうじゃなければ、何のために面倒見て、育ててきたのかわからないと言う。


鬼の形相の母に首を絞められる夢を見て、うなされることもあった。


私の人生は、心も財布も母に支配され、がんばって応えても当たり前だと言われ、誰からも褒められず、感謝もされなかった。


何のために働いて、何のために生きているのか。

私の人生は、母のためにあるのか。


ずっとそう思って、自分の人生を真剣に考えず、ただただ流されるように生きていた。



それでも、ふと、自分の人生にも限りがあると気づいた瞬間があった。

すがる思いでいろんな本を読み、カウンセリングを受け、やっと自分の思いが形を成した。


「母から離れたい」


たったそれだけのことだった。


そして、そうしてもいいんだと知った時、私はやっと息をつくことができた。


***


一人暮らしを始めて、最初の夜。


ちょっとさびしいと思っている自分に苦笑。


それでも1週間も過ぎると、私は息をしていることに気づいて驚いた。

こんなにリラックスして呼吸ができて、一日の終わりに枕に頭をつける時、ホッと充実した気持ちで眠りに落ちる。


そんなの、数十年生きてきて初めてだった。



程なくして、母が病気になった。


——ずるい。


心配より先に、私はそう思った。


そうやってまた、娘の手を煩わせる母の


やっと離れたのに、どうして自由にさせておいてくれないの?

病気だって言われたら、面倒見ないわけにいかないじゃない。


もちろん、元気になってほしかったけれど、結局また縛られている、という意識も拭えなかった。


病気のあと、母は目に見えて衰えていった。


***


それから。


歳を取って、生活の手助けがいるようになると、

母は「子供がいてよかった」「こうしてやってもらって、幸せ」と、繰り返し言うようになった。


勝手なもんだよ。


そんなふうに最初は聞き流していた。

けれど、今この瞬間、そう思っていることは嘘ではないんだろうと思うようになっていった。


すっかり丸くなって、しおらしくなって、時には無邪気な子供みたいな言動をする母。

悔しいことに、だんだん憎めなくなってきた。



母から自由になって、自分の人生を真剣に考えた結果、私もやっと結婚をし、幸せだと思えるようになった。

おそらく、そのおかげで心のゆとりができて、母のことをもっと俯瞰して見たり、逆に寄り添って見たりできるようになったのだと思う。


自分の夫が、子供を残して早くに亡くなったら?


そういう想像を、実感とともにできるようにもなった。


きっと、私は母と同じようにはならない。


——そう思えることは、たぶん母ののおかげだ。

私に子供はいないけれど。



でも、母は母なりに、がんばっていたのだろう。

愚痴は過ぎたけれど、そうすることで自分を保っていたのだと思う。


そしてやっぱり、私は生まれてきてよかったと、心から母に感謝している。

今の幸せは、産んでもらったからこそなのだ。


***


♪〜おかあさん なあに

  おかあさんて いい におい

  おりょうり していた においでしょ

  たまごやきの においでしょ



今になってふと、母の匂いを思い出す。


それは、幼いころ、母の膝に顔をうずめた時のエプロンの匂いだった。


心のどこからか、「おかあさん」の歌のメロディが聞こえてきて、胸が詰まる。


しゃぼんの泡のにおいでもなく、卵焼きの甘い匂いでもない、

食用油のような匂い。


料理の時にはねた油なのだろう、エプロンに付いていたのはポップコーンに似た匂いだった。


そして、その匂いを吸い込んで、安心していたころが、私にもあったのだ。


そんなふうに甘えさせてもらっていたことがあったなんて、いつの間にか記憶から消えていたけれど、匂いははっきり思い出せる。



親はずるい。


どうやったって、子供は親を完璧に嫌うことなどできないのだ。

愛されたいと、無意識に思い続けている。


そして、母の匂いに包まれた時の安心感や幸せは、一生消えないのだ。



♪「おかあさん」童謡

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