Kは一度そこで言葉を切って、またビールのおかわりを頼んだ。新しいジョッキがすぐにやってきて、彼はそれに口をつけると、ぽそりと短くこう言った。

 結論から言うとさ、そいつ、死んじゃったんだよね。

 僕はしばらく何も言わなかった。言えなかったのだ。Kは無言で、濡れたジョッキの側面を親指で撫で続けている。水滴が滑り落ちた後を、上から下へと彼の指がなぞるたび、耳障りな音を立てる。ぎゅ、ぎゅ、ぎゅい。その動きを眺めていてふと、自分のジョッキも空になっている事に気がつく。途端に痺れるような喉の乾きに襲われて、さっき立ち去ったばかりの店員を呼び、僕のぶんのおかわりも注文する。

 ビールが来て、それを合図にするかのようにKがまた話し始めた。

 

 ……いつまでも戻ってこないから、みんなで出ていったんだよ。そしたらそいつ、俺の部屋の真下で倒れてた。俺、すぐ救急車呼んで――その時雨に濡れたせいでスマホ、壊れちゃったんだけど――運ばれていった。でも間に合わなかった。

 死因、何だと思う? 低体温と肺炎だってさ。

 ありえないんだよ。何時間も雨に当たらないとそうはならないんだって。倒れてるのが見つかる直前まで、俺たちと飲んでたんだぞ? 

 結局、俺らも取り調べは受けたんだけど、同期は事故死というか変死ってことになった。俺の家はマジでヤバいって事でだんだん人も来なくなって。やっぱそうなると、仕事も続けられないんだよね。俺のせいで変なことになってさ。それでも円満退職って形で送別会までしてくれて、みんなには目茶苦茶感謝してるよ。

 大家さんにはとにかく怒られた。まあ当然だよな、ほんとに申し訳ないと思う。で、怒られついでに大家さんに全部話したんだよ。で、訊いた。何なんですかって。でも大家さんも、何かは知らないらしかった。建てて何年も経つけど、いつからか雨の日、特に夜になると外を歩き回る音が聞こえるようになったんだと。隠し事してる感じじゃなくて、マジでわからないみたいだった。でも過去にそれで、こう――何ていうのかな、祟られたみたいな事もないし。ましてや死人が出たのなんて、今回が初めてだって。

 で、一番気味が悪いのは……足音が聞こえた翌朝に確かめに行くと、足跡は一個も残ってないんだって。消えるほど雨風が激しくないような日でも、足跡だけは絶対に見つからない。

 言われて気がついたんだけど、あのとき警察の人も、一言も――。


 その後が続かないまま、何分かが経った。Kの話はそこで、唐突に終わってしまった。

 脇の下を汗が流れる感覚が、これほど気持ち悪いと感じたことはなかった。他所の団体客の騒ぐ声が、なんだかやけに遠くに思えて、僕は半分以上残ったビールを一気に煽る。視線を戻した時、Kが震えている事がわかった。

 「したのか。お祓いとか」

 じっとりしたこの沈黙がたまらなく嫌で、掠れる声で問いを捻り出した。一音発するごとに舌が、喉がじくじくと痛む。Kが静かに首肯した。

 「すぐにしたよ。というか、それまでも大家さん、何度か呼んでたらしいんだけど。仕事辞めて引っ越しの準備が済んでから、俺も立ち会ってさ、拝み屋みたいな人に来てもらった。そしたらすぐに『ああ、こらもう駄目ですね』だって」

 彼の乾いた笑い声が響いた。僕は一緒に笑う気分にはなれなかった。

 「その晩さあ、俺の部屋に拝み屋と大家さんと三人で泊まって、一晩中お祓いするって事になったんだよ。応急処置ですけど、つって。で、夜九時くらいから明け方まで例の開けちゃいけない窓。あれの前で、ずうっと一緒にお経みたいなの読んでたんだよ。朝四時くらいに『ここから日の出までは私がやりますから』って言われて大家さんが帰って、拝み屋さんが枕元でお経上げる中、布団敷いて寝たわけよ」

 そこで一旦呼吸を整えたKは、何が面白いのかニヤニヤ笑ったまま、構わず話し続ける。

 「でさあ。うとうとし始めた時、拝み屋さんが、あっ、てでかい声出したんだよ。俺がびっくりして起き上がった瞬間、窓になんかがバシーンってぶつかって。それが、ぎゅぎゅぎゅぎゅぎゅ、てガラスを、上から下まで滑り落ちていくんだよね。濡れた平面を強く擦った時みたいに。それ、よく見たら何だったと思う? 

 そこまで一気にまくし立てたかと思うと彼は、突然卓を殴るが速いか天井を仰いで大音声で喚き出した。

 「どうしたらいいんだよ! あれわかんだよ、あいつの手なんだよ! ガラスの向こうに死んだ同期の顔が浮かんでんだよ、びしょびしょなんだよ、もう離れねえんだよ耳から! わかるか!? あのぎゅいッ、ぎゅいッて、ぎゅいッぎゅいぎゅ――」


 口角に泡を溜めて狂ったように怒鳴り続け、がばっと立ち上がったかと思うとKは、そのまま卒倒した。

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