第2話
山の中の公園。
駐車場で車を降りると、遠くから、滝の音が聞こえてきた。
石を積み上げて川をせき止めてあり、崖下へと、水が、滝となって流れ落ちていた。まるで小さなダムのようだった。
正確に言うと、ダムではなく、
わたしたちが川に向かうと、地元の小学生や子ども連れの家族がすでにいた。
美海ちゃんの横を通り抜けていく人たちが、ちらりと彼女を見る。
ここまで来る間にも、わたしは、その視線を感じていた。
通りすがる人が、美海ちゃんの右足に目を落とす。ラインストーンが素敵だなという視線ではない。
堰に腰を下ろして、美海ちゃんが義足を脱ぐ。
「抱っこしてやろうか?川の中まで」
お父さんの言葉に、美海ちゃんは、ぷいと横を向いた。
「いい」
きっぱり言うと片足で立ち上った。
お父さんは、少しばかりさびしそうだった。
整備されたプールではないため足場は悪く、濡れていて、ところどころすべりやすくなっている。堰の向こうは崖になっていて、簡単な手すりはあるけれど危なそうだ。
「ねぇ美海ちゃん。足元すべりやすいみたい。よかったら、手、貸そうか?」
本当に危なそうなので、わたしは声をかけた。
「あ、うん。ありがとう」
美海ちゃんも川を見やった。
「手より、肩を貸してもらいたいな。そっちの方が安定するから」
「オッケー」
川岸に着くと、美海ちゃんと大地くんは、それぞれ浮き輪片手に泳ぎ出していった。
「奥の方は、深くなってるから気をつけろよ」
Tシャツに水着姿の圭介おじさんも、ゆっくりと二人の後を追う。
秋穂さんは、堰に腰かけて、足を水に浸けていた。
「透明できれいだね~」
秋穂さんの隣で、わたしもそっと足を浸す。ふるえるほどに冷たくて、そして気持ちがよかった。
周囲の木々の間から陽が降り注ぎ、自分の足に、光の波紋が浮き上がる。光線は、足の間から透明な
魚は泳ぎ、風は吹き抜けていく。
セミの声と水音と人の声が溶け合って空間を満たしていた。
わたしは、ぐるりと周囲を見渡した。
わたしたちのように足だけを水に浸けておしゃべりしている人も多い。腕に浮き輪をつけて泳ぐ小さな子とそれを見守るお母さんやお父さんもいた。奥に岩場があって、岩の上に登れるようになっている。五・六年生くらいの子たちが、一人また一人、その岩の上から川に飛び込んでいる。浮き輪にすぽりとはまって、水面にぷかぷか浮きながら友だちとおしゃべりしている子もいる。
そんな様子を見ると、わたしは、水着を持ってこなかったことを少し後悔した。
今度来たときは持ってこようかな。
そんなことを思ってハッとした。
自分に今度なんてないよね?今年ここに来ることは、もうないと思う。じゃあ来年?夏が終われば、わたしはここからいなくなる。そして、おばあちゃんの家に来ることも、多分もうないと思う。自分がこの場所に来ることは、二度とないのだ。
美海ちゃんが、こちらを見て手を振っていた。わたしと秋穂さんも、手を振り返した。
美海ちゃんが、浮き輪から首を引っこ抜く。
「気をつけて。足、届かないから」
圭介おじさんが、浮き輪を受け取りながらそう言っている。
美海ちゃんは、クロールで、わたしたちの目の前まで泳いできた。わたしたちが腰かける堰に手をかけて顔を上げる。ゴーグルをずらして笑った。
「だいぶまっすぐ泳げるようになったじゃん」
秋穂さんが、美海ちゃんのずれた水泳帽を直してあげながらそう言った。
わたしは、その様子を見ながらたずねる。
「まっすぐ進むのとか難しくないの?」
「コツがあるの」
堰につかまってぷかぷかしながら、美海ちゃんはそう答えた。
「最初は全然泳げなくて、レーンにぶつかってばっかりだったけど、今は、まっすぐ泳げるようになった。ほかの子よりは遅いけどね」
くるんと仰向けになると、美海ちゃんは水に浮いた。
お昼なって公園に戻ると、多くの家族連れが、芝生や屋根付きベンチでお弁当を食べていた。
わたしたちも、空いているベンチでお弁当を広げる。
わたしは、おにぎりを食べながら、ふと顔を上げた。
公園のあちこちで楽しげに食事をする家族たちがそこにいた。周囲をにぎやかな声が包んでいることに気づく。
わたしに、再び、暗い感情が忍び寄ってきた。
誰もいない場所に独りでいる感覚。
この感覚を、わたしはずっと昔から知っていた気がする。
母親と娘の様子を見て、楽しそうにしている親子を見て、ふと忍び寄る独りぼっちの感覚。暗い感情。
「岩の上から飛び込みやりたいな」
美海ちゃんの言葉に、秋穂さんと圭介おじさんが顔を見合わせた。圭介おじさんは、川の方を見やった。
「あれは、上級生向けだと思うけど」
「だいじょうぶ?」
と秋穂さんも、娘の顔をのぞきこむ。
「わからないけど、やってみたいの」
わたしも、気持ちを切り替えて会話に参加する。
「岩の上までわたし、ついて行ってもいいけど。でも、確かに危ないかも」
わたしがそう言うと、美海ちゃんは、首を横に振った。
「若葉ちゃんには、下から見ててほしいの。見せたい技があるんだ!」
「技?」
秋穂さんが美海ちゃんに付き添って石段を上がっていく。岩場に続く石段には手すりなどがあるわけではないので、わたしは、下の方から、少しヒヤヒヤして見守っていた。
そんなわたしの足元では、大地くんが、浮き輪にはまってぷかぷか浮いていた。
川の中からは、圭介おじさんが、デジカメ片手に、娘が飛び込むのを待ちかまえている。水泳をはじめた美海ちゃんのために防水のものを買ったのだとさっき自慢していた。
美海ちゃんの前の子が、勢いよく川に飛び込んだ。大きな音と水しぶきが上がる。
美海ちゃんが、岩の頂上に立った。
しゃがんだ秋穂さんの肩につかまって、下をのぞきこんでいる。
下からだと、そこまでの高さはない。でも、実際に岩の上に立つと、多分とても高く感じるだろう。
「美海ー!がんばれー!」
お父さんが手を振った。
「姉ちゃん、ガンバレー」
「美海ちゃん、ガンバー!」
大地くんと一緒に、わたしも叫んだ。
美海ちゃんは、わたしに顔を向け少し笑った。その表情は硬かった。やっぱり少し緊張しているようだ。
「わたしが飛び込んだとこ、水の中から見ててね!」
美海ちゃんは、額のゴーグルを外すと、腕をしならせて、それをこちらへ投げた。ちゃぷりと、それは、わたしの足元に落ちた。
大地くんが、ゴーグルをつかんで小さな腕をこちらへのばす。
美海ちゃんが、秋穂さんに支えられながら、岩の先端に立つ。
わたしは、慌ててゴーグルを受け取り、わたしには少しきついそれを、急いで頭につけた。
大きく息を吸って、水中に顔を沈める。
音がこもった水中世界。
きらめく小さな泡に包まれて、美海ちゃんが、指先から、その世界へ飛び込んできた。着水の勢いで、水泳キャップと髪をまとめていたゴムが外れる。髪がふわり、水中に花咲くように広がった。
その瞬間、わたしは、息をすることを忘れてしまった。
人魚姫って、ほんとにいたんだ。
恥ずかしいけれど、そんなことを思った。
美海ちゃんの身体が、水底へと潜っていく。そのまま水面に出ることなく、大きな円を描いてみせた。本当に人魚のように気持ちよさそうに泳いでいた。
美海ちゃんの身体に、輝く水の波紋が浮かんでいる。それは、光のうろこのように見えた。膝までの右足を左足にぴたりとつけて、全身を力強くしならせると、そのまま泳ぎ去っていった。
たった一瞬、ほんの数秒の出来事に、わたしは魅了された。
「痛ーっ!鼻に水入った!ちょっと失敗してしまった!」
水面に出た美海ちゃんは、いつもの美海ちゃんだった。顔をぬぐい、わたしに笑顔を向ける。
まだ心臓がバクバクしている。
こっちに泳いできた美海ちゃんを、わたしはまじまじと見つめた。
「見てくれた?すごかったでしょ?」
「すごかった。シンクロの、選手みたいだった」
人魚姫みたいだったと言いたかったけど、少しためらってやめた。ゴーグルを返す。
この子は、本当に、自分の知っている美海ちゃんなのだろうか?もしかして、泡から出てきたときに、本当に人魚に生まれ変わったんじゃないかな?
変なことを考えているとわかっている。でも本気でそう思えるのだ。
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