第六章 人魚のナミダに
第1話
秋穂さんが、美海ちゃんと大地くんを連れて遊びに来ている。
いま秋穂さんと美海ちゃんは、縁側に座り、ベランダに足を投げ出してスイカを食べていた。おばあちゃんの畑で採れた最後の一玉だった。
わたしは、少し離れた場所から、そんな親子の様子をながめていた。秋穂さんと美海ちゃんのくっつきそうなくらいに近い距離。
二人の奥。庭では、大地くんが、迷い込んできたハグロトンボを、興奮して追いかけまわしている。
「若葉ちゃん」
気を抜いていたら、秋穂さんから声をかけられた。
「今度、家族で川遊びに行くんだけど、よかったらいっしょにどう?ずっと家にいるのも退屈でしょ?」
「川遊びですか?」
「そう。川の水をせき止めて天然のプールにしてるところがあってね」
「でも、水着なんて持って来てないし」
わたしがそう言うと、大地くんが嘆きの声を上げる。
「ええっ、行かないの!?いっしょに行こうよ!」
「わたしも泳ぎはしないよ。子どもたちを見てるだけ。足を浸けるだけでも気持ちいいよ」
そう言って秋穂さんは笑った。そして居間に顔を向けて、
「お母さんもどう?たまには」
と、ソファでくつろぐおばあちゃんにも聞いた。
「あたしはいい。あんたたちで楽しんできなさい」
「だってさ。どうする?」
わたしは、黙って考えた。
もうすぐ夏も終わる。わたしは自分の家に帰るんだ。
勉強は、不安なところもあるけれど、だいたいは順調で、授業について行けないこともないと思う。
自分の家に帰って、また学校に通いはじめたら、全部元に戻るんだ。きっとそうなるんだ。
だったら、ちょっとくらい夏っぽいことをしてもいいかもなという気分になった。
夏休みを満喫すること。思えば何もしてない。中学一年生の夏休みの思い出が、お勉強と畑仕事のお手伝いだけじゃ、ねぇ……。
だから、わたしは、
「行こうかな」
と、笑顔でうなずいた。
「そう、よかった。美海がね。若葉ちゃんに泳ぎを見せたいんだって。ね?」
秋穂さんがそう言うと、美海ちゃんは、足をプラプラさせながら、わたしには顔を向けずにうなずいた。
秋穂さんが、首をのばして居間の時計を見る。
「さあ、そろそろ帰ろうか?晩ご飯作らないと」
スイカの皮が乗った皿を持って立ち上がる。
おばあちゃんも、すばやく顔を上げた。
「皮は捨てないでね。テーブルに置いてていいよ。今日スイカの
よいしょと気合を入れるように立ち上がる。
それを見て、わたしは、夕飯の準備をはじめるんだなとわかった。
「スイカのごましょいかー。なつかしいねぇ」
美海ちゃんが、そんな秋穂さんの腰に飛びつく。
「スイカのごまじょいって何?」
そのしぐさも、普段の美海ちゃんより子どもっぽかった。
家では、ああやって甘えたりしてるのかな?
秋穂さんが娘に答える前に、おばあちゃんが口を開く。
「あんた、スイカのごまじょい作らないの?」
「時間がかかるでしょ。スイカも、そんなしょっちゅうは食べないしね」
と、秋穂さんは答えた。
「それなら、多めに作って今度持たせてやろうかね」
「よかったね。今度おばあちゃんが作ってくれるってさ」
娘にそう言いながら、秋穂さんは、また時計を見やった。
「さ、帰ろう。若葉ちゃん、いつも美海のめんどう見てくれてありがとうね。大地、帰るよー。お邪魔しましたー」
パタパタと玄関へ向かう。
美海ちゃんと大地くんとそしてわたしも思わず声を上げた。
秋穂さんは、買い物の途中でここに寄っていた。スーパーで買った自分の家の食材を、ここの冷蔵庫に入れていたのだ。
「忘れるところだった」
娘たちに注意されて秋穂さんは苦笑いした。冷蔵庫から買い物袋を一つ、引っ張り出した。すぐに玄関に引き返そうとする。
「アイスはっ!?」
大地くんが、もう一度悲鳴を上げる。
冷凍庫にも忘れ物があったのだ。秋穂さんは、なさけない声を出してまた引き返してきた。
「本当にあんたは、そそっかしいところの変わってないね。小学生のころ、玄関にランドセルを忘れて学校に行ったこともあったろ?あきれたよ、あれには」
おばあちゃんがため息交じりにそう言うと、秋穂さんは苦い顔をした。
「やめてよ。そんな昔の話」
美海ちゃんと大地くんが笑い、わたしも、思わず噴き出してしまった。
秋穂さんは、そそっかしい子どもだったんだ……。おばあちゃんは、そんな秋穂さんの子ども時代を知ってるんだな。
なんだかそれは、わたしにとっては不思議なことだった。
千代おばあちゃんと秋穂さんと美海ちゃんを見る。
母親と娘という関係。今もこれからも続いていくだろう関係。
わたしは、あの人とどんな関係だったのだろう?なんの記憶もない。いや、あるか。あの夢だ。わたしにあるのは、夢の中の思い出だけだ。唯一の記憶。
わたしは、もう一度秋穂さんを見た。
わたしには、秋穂さんがうらやましく思えるときがある。
秋穂さんっていつも笑顔だ。
秋穂さんは多分、心の体力がなくなって不登校になったこともなく、憂うつなことは関係ないところで生きてきたのだろう。
たまに見かけるシアワセナヒト。秋穂さんって、そう言うタイプなんだろうな。
わたしはなんだか、暗い気持ちになった。
週末。
わたしは、秋穂さんの家にお泊りすることになった。
最初は川遊びに行くだけの予定だったけど、美海ちゃんと大地くんのラブコールがあったようだ。
夜。
美海ちゃんも、テーブルを拭いたりお箸を用意したりと手伝っていた。
家の中では、美海ちゃんは、ほとんどのことを自分でやっていた。家族の誰も、特に手を貸したりしない。これが、この家ではいつものことのようだ。
焼き肉プレートの上で、肉や野菜が音をたてはじめる。
美海ちゃんが、さっそくお肉を一切れつまんだ。
「楽しみだなー。明日」
と言って、お肉を口に運ぶ。
「山の中の川だから、きれいで気持ちいいだろうね」
秋穂さんがほほえむ。
大地くんが、秋穂さんの顔を見上げる。
「飲めるぐらいきれいなのかな?」
「さあ、どうだろうねぇ?」
秋穂さんは天井を見上げた。
「いや、ダメに決まってるだろ。大地、絶対飲んじゃいけないぞ」
「わたしの泳ぎを見せてあげるね」
美海ちゃんが、隣に座るわたしを見てそう言った。
「水泳、習ってるんだよね」
わたしに聞かれ、うんと美海ちゃんはうなずいた。
「でも、いつもビリ」
大地くんが、わりと真顔で割り込んだ。
「いつもじゃない!」
美海ちゃんは、弟にぴしゃりと言い返した。
圭介おじさんも口を開く。
「なんでもいいさ。でも、泳げるようには、なっておいた方がいいぞ。川でおぼれたときのために。明日はその練習にもなる」
「別におぼれたときのために習ってないもん。楽しいからだもん」
「いいさ。それで」
「それに服着たまま川でおぼれたら、水着でする水泳とかあんまり役に立たないんだよ」
「
と、二人の会話にわたしも参加する。
「小学生のとき、わたしも習ったよ。プールの時間に。普段着でプールに入って泳ぐの」
わたしの言葉に、美海ちゃんが大きくうなずいてみせた。
「わたしもある!水着と全然ちがうよね」
「うん。服が水を吸ってとっても重くなるから、無理に泳ごうとしちゃダメなんだよね。パニックにならずに浮いて待つ方がいいんだってね。ペットボトルとか浮くものを探すとかね」
すると大地くんが、床にごろんと寝っ転がった。
「ラッコみたいに?」
ラッコのまねをしてみせる。
「そうそう。そんな感じ」
「こんなふうに?こんなふうにしてや?」
大地くんが首をのばし鼻息を荒くして泳ぐまねをする。
その様子がおかしくてみんなは笑った。
「お
秋穂さんが、笑顔交じりに息子を叱った。
みんな、笑っている。
それを見てると、ゆるゆると、胸の奥底から、暗い感情が湧き上がってきた。
みんなといっしょに楽しく焼肉を食べているのに、自分だけ、どこか遠くに切り離されている感じだ。
ここにいるようで、ここにはいない。
そんな感覚。
「若葉姉ちゃん」
大地くんの呼びかけに、わたしは我に返った。
「どうしたの?だいじょうぶ?」
「ダ、イ、じょブ……ゲホ!」
一瞬、言葉が出てこなかった。食べ物がのどに詰まって咳きこんでしまった。
それがおかしかったのか、また、みんなは笑った。
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