第四十二話 囚われの王女
薄暗い室内の足元に広がる景色は、川の流れよりもはやく移り変わっていく。しかも、あっという間に朝と夜が交互に訪れる。
いつも見上げていた空や雲を見下ろすカスミ・ヘミング王女は、不思議な気持ちを覚えていた。
床なのに下が見えるというだけで、足がすくみ、心が落ち着かない。
この部屋に入れられたときは、みっともなく声を上げ、壁にしがみついて泣き叫んでしまった。
落ちないとわかると気恥ずかしさを覚えたのも束の間、いつ落とされるのかという不安から、一日のほとんどの時間を簡素なベッドの上で過ごしている。
食事は運ばれてくるし、浴室も備わっている。どういうわけか、クローゼットには様々なドレスが用意されていたが、袖を通したのは白いレース生地のロングナイトドレスのみ。幽閉の身で着飾っても意味はないし、そもそも一人で着られるのがナイトドレスしかなかったのだ。
今日も起きてから、ベッドの上で膝を抱えてじっとしていた。
「貴公らの王家には、古の叡智がほとんど残っていないのだな」
床一面の景色が変わり、現れたのは黒いローブをかぶった男の顔だった。
ぬははははははーっと不敵な笑いがこだまする。
「前触れもなしに現れるとは、無礼にもほどがある」
スッ立ち上がると、裸足のまま、勢いよく床に飛び降りた。
これでもかこれでかと、ペタペタ顔を踏みつける。
「無礼ですか? 随分と幼稚なことをされますね。仮にも、一王国の王女殿下とあろう人がその程度とは激しく落胆します。聡明な王女殿下のいまのご様子を王国民の方々が知ったら、さぞや残念に思うことでしょう。こちらでは常時、王女殿下のご様子を記録させてもらっています」
「記録って……」
カスミ王女は頬に手を当て首をかしげる。
「ここでの王女殿下のご様子を王国民に広く知らしめることもできるのですよ」
ジャークローヒーの笑い声が響く中、王女は口に手を当てて目を見開いた。
「なんて悪辣な。しかも下卑た笑いで嘲るのがお好きなのですね、混沌と破滅の覇王ジャーク・ローヒー」
「なんとでもほざくがいい。だが、すでに気づいているのだろう。我らの世界に星のダイスが帰ってきた気配を」
「……貴方も、気づいていましたか」
カスミ王女は、足元に踏みしめる床一面に映るジャーク・ローヒーを見下ろした。
「我が配下の者が、機械犬より奪取せしめたのであろう。我が手中にしたとき、今度こそ願いを叶えてもらいますぞ」
「わたしにはできません」
腕組をして、ぷいっと顔を背ける。
「その気性やよし。だが、いつまで続きますかな。我が願い、是が非でも叶えてもらわねばならぬのです」
「機械犬さんが必ず戻り、貴方の野望を打ち砕いてくれます」
膝を高く上げて、ずんと床を踏みつける。
「さて、それはどうだか。機械犬はすでに異界の地で果てたのです。偽りの希望にすがったところで、真実から目を背けているのと何ら変わりない。期待は裏切られ、またも罪悪感を感じて憂鬱になり、自ら自信を喪失していくとは愚かなことよ」
「あなたも、機械犬さんが果てたか否かを知らぬのに、随分と大言壮語を吐きますね。異世界にまで届くほど長い手足をお持ちなのですか?」
「さすが王女、並大抵にはいかぬようだ。いずれ星のダイスが届けば真偽は明らかとなり、諦めもつくでしょう。それまで、せいぜい偽りの希望にすがり続けるがいい」
ぬははははははは、と豪気な笑いを残し、床一面に映し出されていたジャークローヒーの姿が消えた。
再び、雲や山々の地上の景色が現れると、王女はベッドへ頭から突っ伏し、ごろんと仰向けに寝転がって息を吐く。
覇王ジャーク・ローヒーの天空城イ・ナ・コス・アに幽閉された自分を、誰が助けにくるというのだろう。
王城に侵入したジャーク・ローヒーに誘拐された際、救出しようと多くの戦士が立ち上がってくれたが、邪教徒の手によって倒されてしまった。
星のダイスを奪われまいと機械犬に託したものの、異世界へ飛ばされてしまった。
その星のダイスが戻ってきたというのなら、機械犬も帰ってきたに違いない。
そう信じたいのに、ジャークローヒーの薄気味悪い笑いが、脳裏にこだまして放れなかった。
「それにしても、先史代の城塞都市が稼働しているなんて。まるで、古の世界へ迷い込んでしまったみたいね」
薄暗い天井を見つめながら、語り継がれてきた御伽噺を思い出した。
☆ ☆ ☆ ☆
かつて、地上を捨てて天空に上がった者たちがいた。
彼らの間で語り継がれてきた伝説があったからだ。
はるかなる大昔、天より舞い降りてきた者により、山や川、森や海、動植物や人間に至る世界のすべてが形作られたという。
その名は、ゼオン。
数々の叡智を無知なる地上人に与えた。
地上人はゼオンを崇め奉った。
だが突然、ゼオンは姿を見せなくなってしまった。
それでも地上人は天を崇め続け、来訪を待ち望むも現れなかった。
熱心な地上人はお迎えにあがろうと、授かりし叡智を結集し、城塞都市を空へと上げたのだ。
高度限界ギリギリまで上昇するも、空のどこにも見つからず、現れもしない。
それでも彼らは、少しでもゼオンの傍にいたい一心で飛び続けた。
あるとき、誰かが言った。
「ゼオンは我々を見捨てたのだ」
「ゼオンに頼らずとも、凌駕する力を我々は手にしたのだ」
「我々こそが、新たなるゼオンである!」
天空に上がった人々は、信奉する者と必要としない者とにわかれて、争いをはじめてしまった。
多くの人々が天空を捨て、地上の暮らしへと戻る中、最後まで闘い続けた者たちもやがて地上へと落ちていった。
地上人は、天空へ上がった者たちの末裔である。
熱心な信奉者は、いまもどこかで帰りを待ち続けているという。
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