第4話 訪問者

「うわぁーっ」

 樵は恥も外聞もなく尻を向けると一目散に逃げ出した。ヤーシャはますます気分を害する。


 魔族に恐れを抱くのはいい。人族ならば当然だ。

 だが禁域を侵して咎められた挙句、謝罪もしないで行ってしまうなど支配者たる魔族に対して無礼極まる。


 八つ裂きとまでは言わずとも少し思い知らせてやろうかと思ったが、やめておく。自分は強者だ。だから心には常に余裕がある。やたらと暴力的になるのは弱さの証だ。ヤーシャは無意識のうちに近くの木を蹴り倒すと、地面を踏みつけるようにしながら森を出た。


 開きっ放しの城門をくぐり抜ける。主の娘が戻っても出迎えはない。そもそも他の者の姿がないのだが、ヤーシャが変に思うことはない。

 城中に入っても誰ともすれ違うことなく、最上階にある自室へ向かう。ところどころ壁に罅割れがあったり、隙間風が吹き込んだりしているが、いちいち気にする必要はない。ぬくぬくと満ち足りた状態に慣れてしまっては、質実剛健を誇るべき魔族として失格だ。同じ理由で昼食は取らないと決めているので、空腹も無視だ。


 自室に戻り、石の床の上に直に結跏趺坐すると、再び鍛錬を開始する。まずは体内にある陰の氣をゆっくりと巡らせて、馴染んだところで外界の氣を己の中へ取り込んでいく。かつて始祖王が君臨した御代には、魔族はいつでも強い力に満ちあふれていたという。だがそれから一万年を閲し、陰の氣の薄れた現在では、意識的な特訓は非常に重要だ。


 しかしヤーシャはこの時間が決して嫌いではなかった。強くあってこその魔族である。力を高めるため精進するのは本望だ。

 空腹を忘れるため、否、空腹を忘れて修業に励んでいたヤーシャは、連絡用の鈴が鳴るのに注意を引かれた。


「む、母上か」

 特に思い当たる用事はなかったが、呼び出されたなら応じるまでだ。汗と埃で汚れた服を着替え、最低限の身だしなみを整えると、城主の間へ赴く。


「母上、ヤーシャです。ただ今参上仕りました」

 口上こそ大仰だが、肉親の気安さで室内に足を踏み入れる。しかしヤーシャはすぐに予想外の不快と不審で顔をしかめた。


「やあ、ヤーシャ殿、お待ちしておりました。どうぞ中へ。しかし相変わらず男のような格好ですな。もっとも、あなたにはある意味お似合いですが、ははっ」

 気取った口ひげの下に薄笑みを湛え、出迎えたのはガス・ロシェだった。ヤーシャは無言でロシェの前まで歩み寄ると、艶々した生地のシャツの胸ぐらを掴み上げた。自分と身長の変わらぬ男を片手一本でぐいと浮かせて、戸口の方まで運んでいく。

 ロシェが足をばたばたさせて喚く。


「い、いきなり何をするのです、無礼ではないですか、私を誰だと思っているのです、マサラの魔使ですぞ!」

「それがどうした」


 ヤーシャは瞬殺で黙らせた。魔族の代官として人族から取り立てられたのが魔士であり、魔使はそのさらに下位に属する官だ。人間相手なら存分に権威を振りかざせるとしても、れっきとした魔族相手に通用するわけもない。


「ヤーシャ、おやめなさい。ロシェ殿は客人として参られたのですよ。不作法をしてはなりません」

「しかし母上」

 部屋の奥から落ち着いた声がたしなめる。だがヤーシャは不満だった。この男には明らかに敬意が欠けている。


「早くロシェ殿をこちらへ。お話があるそうです」

「……分りました」

 魔使の男を片手吊りにしたまま、母のもとへ赴く。マサラ城主のゾラは、ゆったりと椅子に座したまま微笑した。


「ロシェ殿、娘が失礼を致しました。元気なのはいいのですが、いつまでも子供で困っていますの。お恥ずかしいことですわ」

「そっ、そんなことよりもっ、早くっ、離してくれませんかっ、く、苦しっ……」


「ヤーシャ」

 ゾラに促され、不承不承解放する。床に足がつくやいなや、ロシェはヤーシャから十歩も距離を取った。つくづく情けない男だ。やはり相手にする価値はないと見切り、母の方へ向き直る。


「母上、ご用はなんでしょうか」

「それはロシェ殿の方から」

 だがゾラは魔使の男に話を促す。ヤーシャはつい舌打ちを洩らしてしまった。卑劣で臆病な人族の言葉など耳に入れたくもない。さりとて母の意に逆らうのも良しとはできず、眉根に皺を寄せて黙り込む。


「んんっ、おほんっ、えふんっ」

 ヤーシャをちらちらと窺いながら、ロシェが咳払いを繰り返す。心の底からうっとうしい。もし母がいなければ即行で叩き出すところだが、是非もない。


「おい、聞いてやるからさっさと用件を言え。だがもしくだらないことだったら窓から放り捨ててやるからな。そのつもりでいろよ」

 ここは三階だ。人族なら死んでもおかしくはないが、魔族の前に立つならそのぐらいの覚悟はするべきだ。


 ロシェはさっと顔を青ざめさせ、ゾラにすがるような視線を向ける。マサラ城主が穏やかに頷くと、ようやく心積もりができたらしく、魔使はぴちゃりと唇を湿らして切り出した。


「ええとですな、実は本日、代官所に訴えがありまして。木を伐り出すため森に入っていたところ、魔族にひどく脅され、命の危険をすら感じたと。まことに遺憾です。そのようなことをされますと、我々の方へ反発が来ることになり、結果、代官所の業務に重大な差し障りが生じます。ヤーシャ殿には是非ともご自分の立場を弁えられ、節度ある行動を取るようお願いしたい」


「ふ……ふざけるな!」

 ヤーシャは激昂した。咄嗟にロシェの頭を打ち砕かなかった節度を、自分で褒めてやりたい。

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