第3話 指輪/禁域の森
見事にボールを蹴って寄越した若者が、呆れた面持ちを浮かべてルナの傍へ歩み寄る。幼馴染みのアーサーだ。
ルナは不服げに顎を持ち上げた。昔はチビだったくせに、いつのまにか自分より目線が高くなっていることが腹立たしい。
「大きなお世話よ。わたしに何か用なの?」
ここで会ったのが偶然のわけはない。ルナに早朝散歩の習慣があることはアーサーも知っている。それに最近ついに家業を継ぐ決心をしたらしいパン屋の息子だ。朝は一番忙しい時間帯のはずである。
「えーっと、実はそう、なんだけど」
アーサーは頬を赤らめて視線を逸らした。意味不明だ。妙な空気と共に、沈黙の時間が流れる。
「ルナ」
焦れたルナが文句を言ってやろうとした矢先、アーサーがズボンのポケットに手を突っ込んだ。そして掴み出した物を、ルナの目の前に掲げてみせる。
「アーサー、これって……?」
「指輪」
「そ、それは分るけど」
柔らかな光沢を持つ銀の輪に、翠の玉が嵌め込まれている。ルナの瞳と同じ色だ。小さな粒ではあるけれど、おそらく本物の緑柱石だ。
「誕生日おめでとう、ルナ」
「あ、あり、ありがと」
ふいに真剣な様子を作るアーサーに、ルナはたどたどしく礼を言った。贈り物のやり取りならこれまでにもあった。それでもこんなに気合が入っているのは初めてだ。
嬉しいのは確かだが、それ以上に反応に困ってしまう。
「ルナにすれば安物だろうけど。今の俺の精一杯の気持ちだから」
「そ、そうなんだ。それは分った、けど」
問題は、その気持ちの種類である。友情の証と受け取っておけばいのか、それとももっと違う感じの甘かったり切なかったりするらしい系のやつなのか。
戸惑うばかりのルナに、アーサーはぐいぐいと前のめりで迫る。
「ルナにずっと傍にいてほしいんだ。ずっとルナの傍にいたいし、お前の支えになってなりたい。もちろんお前に大切な仕事があるのは分ってる。普通に考えて、パン屋の俺じゃあ、そっちはあんまり手伝えないかもだけど大丈夫、共働きなんて世の中にはいっぱいいるんだ。愛し合う二人が契りを結べば、体は別の場所にいる時でも心はいつも繋がっていられる。だからいいよなルナ? な、いいだろ?」
「ちょっと待ってアーサー、お願いだから、落ち着いて!」
ルナは幼馴染みを両手で押しとどめた。わりと忙しくなっている鼓動をなだめつつ、慎重に核心に触れてみる。
「今、共働きって言ったけど……それって、そういう意味だって思えばいいの?」
ルナの問いに、アーサーは一瞬怯んだように横を向いた。だがすぐに逡巡を振り切って、決意に満ちたまなざしでルナに詰め寄る。
「ルナ。俺とけっこ……」
誰かが後ろから近付く気配がした。
「ルナ様ぁーっ!」
「はい、なんですか?」
ルナはくるりと振り返った。ルナ付きの侍従が、切羽詰まった様子で駆けてくる。明らかに只事でない雰囲気だ。
アーサーは何度か口をぱくぱくと動かしたのち、どうにか言葉を絞り出した。
「……えっと、ルナ? 忙しい、よな?」
「ん、たぶん。ごめんねアーサー」
「分ったよ。なんか大変そうだし、続きはまた今度な」
アーサーは息をつくと、後ろに退った。
「そうだ、これだけ渡しとくから!」
「え、わっ」
去り際にアーサーが投げて寄越した物を、ぎりぎりで掴み取る。翠の石の嵌まった指輪だ。
「俺だと思って大切にしてくれよな!」
「……馬鹿」
駆け去っていく幼馴染みの背中に、ルナはつい笑みをこぼした。
「それじゃまるで長くお別れするみたいじゃない」
指輪をきゅっと握り締め、取り繕った表情の下に整理しにくい思いを押し込めて、侍従の方に向き直る。
「ル、ルナ様……お、お散歩中のところ、た、大変申し訳ございません……」
年配の侍従が息を切らせる。
「いいえ、大丈夫ですよ。わざわざ伝えにきてくれてありがとうございます。それでいったい何事ですか?」
ルナが戻るのも待ちきれず、文字通り駆けつけたのだ。よほどのことに違いない。緊張して身構えるルナに、侍従はぴんと姿勢を正すと告げた。
「ルナ様……ルナ王女殿下宛に、ローラシアのシアン魔士閣下より、ご婚姻の申込みが参りました!」
#
マサラは世界最大の国ローラシアの北端に位置する。
街を見下ろすようにそそりたつ山中の森で、ひとの胴よりも太い幹が、メキメキと音を立てて倒れていった。
斧を幾度も打ち込んだ末のことではなく、根気よく鋸で挽き続けた成果でもない。
拳だ。一撃だった。
マサラ城主の娘ヤーシャは、浅黒い額に浮き出た汗を拭った。
さすがにこれほどの大木となれば、容易な業ではない。陰氣を十分に取り込んだのち、打ち出すため身の内で練り上げるまでに、かなりの集中を必要とした。
弾け散った断面を眺めて、ふっと息を洩らす。
威力はかなりついてきたと思う。だが同時に、この程度で満足してはならないと自省する。もし実戦となれば、こちらの攻撃準備が整うまで敵が悠長に待っていてくれるわけもない。
「強く、しかも速くだ。どちらも満たさなけれならない。そのためにはひたすら鍛え抜くのみだ」
己に言い聞かせて、宙空に散在する陰の氣を再び集めようとした。
「誰だ」
ふいに不自然に立った物音に、ヤーシャは鋭く振り向く。
「ひっ」
まるで化物にでも出くわしたかのように、目をいっぱいに見開く男がいた。人族だ。
おそらくは樵の類だろう。斧を肩に担いだまま、慄える足取りで後ろに退る。
ヤーシャはむっとした。自分は当年とって十三歳、咲き初めた花のごとく瑞々しき乙女である。さほど美形ではないとしても、口が耳まで裂けているわけではなし、腕も胴も太い強面の山男に怖がられる覚えは――もちろんある。
「この森は禁域だぞ。お前、誰に断って立ち入っている?」
頭に生えた二本の角を、ヤーシャはことさらにそびやかした。そのうえ太い鞭のような尻尾を振って、迫力ある風鳴りを引き起こす。
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